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時霞 ~信長の軍師~ 【長編完結】(会社員が戦国時代で頑張る話)  作者: 水野忠


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第四章 元亀争乱⑨

 信盛達と合流すると、織田の援軍は一路、三河国浜松城を目指した。岐阜城から浜松城までは、今で言う名古屋、岡崎、豊橋を過ぎて約一四〇キロの場所にある。三〇〇〇の軍勢でも十日かかる計算だ。


 そのころ、甲斐の躑躅ヶ崎館を出発した武田勢は、遠江の二俣城(現在の静岡県浜松市天竜区)を攻めていた。二俣城は断崖上に作られた堅城で、さすがの信玄もなかなか落とせずに時間を浪費していた。その合間に、信盛達援軍は浜松城に到着し、徳川勢と合流したのである。徳川勢八〇〇〇と織田援軍三〇〇〇、合わせても武田勢の半分にも満たなかったが、ここで時間を稼げれば、信長が本隊での戦の準備を整えてくれるはずだった。


 信盛達が浜松城に到着するのと、ほとんど時を同じくして二俣城落城の報告が入った。その報告もあり、家康はさっそく軍議を開くことになった。この頃の家康は、ようやく三〇歳になったばかりで、普代の諸将の中でも若かったが、丸顔で童顔のため実際の年齢よりもだいぶ若く見えた。忠繁は金ヶ崎と姉川の合戦で家康を見ているはずだったが、直接会話をやり取りしたことはない。少なからず戦国の武将達は、威厳やカリスマ性を感じたが、目の前で指揮を執るこの青年からはそう言ったものはまるで感じられなかった。


 軍議は、二俣城主であった中根正照(なかねまさてる)の報告から始まった。正照は落城に際し、城兵の身の安全を条件に開城し、浜松城に帰還したのである。信玄は二俣城が堅城とみると、城の崖側にある水くみ用の井戸を破壊して水の手を絶った。水がなくては生きてはいけない。一気に落城へ傾いてしまったのだ。


「・・・以上が、二俣城落城の経緯でございます。」

「わかった。」

「城を守れず、殿に申し訳なく。ここに腹切ってお詫び申し上げる!」


 正照は報告を終えると、腰刀を取り出し切腹しようと振り上げた。


「馬鹿者!」


 家康は腰に差していた扇子で正照の手を叩きつけると、しゃがみこんで正照の肩に手を置いた。


「正照、二俣城落城は仕方がないこと。それよりも、そなたが生きて戻ってくれたことがわしは嬉しいのじゃ。なぜそれがわからぬ。わざわざわしを悲しませるようなことはするな。」

「と、殿・・・。」


 家康の言葉に、正照はうなだれて泣き出してしまった。それは忠繁にも意外であった。落城の憂き目にあった武将は、責任を取って腹を斬ったりするものだと思っていただけに、この家康の処遇は感動したのだった。この戦国の時代にも、人の命を大事に思う心があるのだと感じた。



 その後の軍議では、家康の意見と言うよりも、重臣達の大部分が籠城と主張したため、早々に籠城と決定された。信盛も信長から籠城するが良策と指示を受けていると主張した。援軍があっても武田よりも兵力で劣る以上、城を盾に戦った方が有利なことは明白だった。軍議が終わると、諸将は籠城のために準備するべくそれぞれの持ち場へ戻っていった。


「佐久間殿。信長殿は息災であるか?」

「はっ。武田との決戦に備え、何やら準備なさっているご様子でした。」

「そんな中、何度も援軍の要請をして申し訳なかったな。そなた達が来てくれたこと、十万の味方を得たほどに心強く思っておる。」

「はは、ありがたき幸せ。」


 信盛は頭を下げたが、内心ではこの援軍に来たくなかったので、やる気は全く出ていないようだ。丁寧な言葉の後ろに見え隠れする怠慢が感じ取れた。家康はそれを知ってか知らずか、この緊急時に穏やかににこにことしながら、


「霞北忠繁殿じゃな。信長殿によくその名を聞いておる。力を貸してくだされ。」


 そう言って、肩を叩いてくれた。言わずと知れた後の天下人であるが、どうしても穏やかな好青年にしか見えず、忠繁も微笑んだ。


 籠城ともなれば、ここが戦場になる。しかし、浜松城が守りには向いていない城と言っても、これだけの人数が立てこもればそう簡単には落とせるものでもないだろう。それに、武田勢の主力はなんと言っても騎馬隊だ。城攻めに騎馬隊は不向きのため、そう言った意味でもこの籠城の選択は正しいと言える。これから京へ向けて上洛する信玄にとって、ここで徳川家を叩かなければ追撃される恐れがある。そうなったら織田、徳川に前後を挟まれ苦戦することであろう。それは絶対に避けたいはずだった。


 だが、早馬が知らせてきたのは徳川家のプライドを引き裂く報告だった。


「武田勢、進路を変え三河へ向かっております!」


 この報告は諸将を驚かせた。先にも述べたとおり、ここで徳川家を叩かなければ、今後、前に織田、後ろに徳川と、挟み撃ちに遭うことは必定である。しかし、それでも信玄が素通りして三河を目指したというのであれば、それは、『徳川勢、恐れるにあらず。』と言っているようなものだ。


「っ! さんざん人の領内で好き勝手しておいて、浜松は素通りじゃと!」


 再び開かれた軍議の席で、重臣達が口々に悔しさをぶつけ合った。一方の家康は、先ほどと変わらない穏やかな表情であったが、すっと立ち上がり、上座の後ろの掛け軸を見上げた。何と書いてあるか忠繁にはわからなかったが、あとで聞いた話では、家康が常日頃心がけようと書かせたもので『忍』と書いてあるものだ。


「籠城戦ならば、まだ可能性はあったが。野戦ではわが兵は武田に劣る。数も質もじゃ。なれど、このままでは武田を無傷で信長殿に任せなければならなくなってしまう。それはできぬ!」


 振り返った家康は、それまでの好青年ではなく、いっぱしの武将の顔つきになっていた。


「武田を背後から付く、出陣の準備をいたせ!」


 その言葉を聞いて、重臣達は落ち着くようにととりなし始めた。ここであわてて出陣しては、倍以上の兵力である武田と決戦しなければならない。それは重臣達も避けたいところであろう。


「そなたらには三河武士の気骨はないのか!」

「しかし、武田勢はわが方の倍以上の兵力、そのうえ、武田騎馬軍団は戦国最強とも言われております。寡兵(相手より少ない兵力)で、しかも野戦に挑むは無謀でございます。」

「その通り! 殿、お考え直しください。素通りと見せかけて、わが方を城からおびき出す信玄坊主の姑息な戦略にございます。」


 重臣達、とりわけ普代の重臣である酒井忠次や本多正信(ほんだまさのぶ)は飛び出そうとする家康をなだめるのに必死だった。


「霞北忠繁殿、そなたの意見を聞きたい。」


 突然指名され、忠繁は徳川重臣達の視線を一斉に浴びて驚いた。援軍の、それも一番末席の自分に意見を求めてきたので、思わず言葉を失い息を飲んだ。


「遠慮せずとも良い。そなたは信長殿の知恵袋であろう。忌憚ない意見を聞かせてほしい。」

「かしこまりました。私も、皆様と同じでこのまま籠城すべきと考えています。信玄は戦上手、加えてわが方は兵力で劣ります。今は堪える時です。武田勢がこのまま進むのであれば、どこかで信長様の兵とぶつかった時に、家康様が後方より襲い掛かれば挟み撃ちにできます。」

「しかし、素通りさせたとあっては武士の名折れじゃ。」

「お気持ちはごもっともです。しかし、岐阜を出る時に、信長様から家康様を、竹千代を守ってやってほしいと仰せつかって参りました。信長様は、三河の弟とここまで親交を深めてきたあなた様に死んでほしくないのです。今はどうか、堪えてください。」


 忠繁の言葉に、徳川の重臣達も胸を撫で下ろし、そうじゃそうじゃと肯定の言葉を口々にした。忠繁の言葉を聞き、家康は目に涙を浮かべた。


 家康は天井を見上げた。竹千代とは、家康が元服する前の幼名だった。今川に人質に取られるところを織田勢に誘拐され、しばらく尾張に幽閉された。家康がまだ五歳、信長は一四歳であった。



 その頃の信長は、家臣からもうつけ者と蔑まれ、母親にも見限られ、織田家の中で孤立していた。その時、人質として連れてこられた家康に、自分の孤独を重ねたのかもしれない。


「竹千代。いつまでも泣くな、男は強うあれ。」

「あい。」

「いつかお主が成人したら、共に天下を平らげようぞ。おぬしは東を、わしは西じゃ。二人でこの戦国乱世を終わらせようぞ!」


 信長はそう言って幼い家康を連れまわし、一緒に相撲をしたり、川で泳いだり、戦のまねごとをしてみたり、幼少期の家康にとって、織田家に人質になっていた二年間は充実した毎日であった。寂しさもなかった。怖さもなかった。そんなものは信長がすべて振り払ってくれていたからだ。そして、幼い家康に天下を治めることを告げ、一緒にそれを成し遂げようと約束したのだった。



 家康は遠くを見るような懐かしそうな顔をした。そして、再び穏やかな表情で忠繁に声をかけた。


「信長殿は、竹千代を頼むと申されたか。」

「はい。」

「そうか・・・。であれば、やはりわしはここで信玄を叩かねばならぬ!」

「家康様!」

「かつて信長殿は、共に天下を太平にしようと約束なされた。その約束を果たすのは今ぞ! よいか、武田勢が素通りしたとなれば、三河へ行くのに祝田の坂を下るはずじゃ。あそこは道が狭いために大軍は身動きができぬ。武田の半数以上が下ったところを後ろから襲い掛かれば、必ずそこに勝機がある。急ぎ出陣の準備を進めよ!」


 家康はそう言うと、刀を持って広間を出ていった。



 祝田の坂を下りきっては追撃の意味がなくなる。軍議を終えると、徳川勢一一〇〇〇は一斉に浜松城を出て祝田の坂へ向かった。浜松城から祝田の坂へは北へ一〇キロほどの距離だ。迅速に移動し、手前の三方ヶ原に出た時に、徳川織田連合軍は驚愕した。


「なんじゃと!?」

「坂を、降っていない!」


 そこには、祝田の坂を背に、武田勢二五〇〇〇全軍が陣形を整えて待っていた。これは、信玄が得意とする野戦の陣形で魚鱗の陣(ぎょりんのじん)という。魚鱗の陣形は本隊を中心に、その周りを小隊が囲むように布陣する。本隊(魚)を小隊(鱗)が守るように布陣することから魚鱗の陣形と言われ、魚の鱗がはがれても再生されるように、小隊が傷ついたら次の小隊と交代が可能であり、鱗をローテーションして次々と送り出すことができる。騎馬隊にうってつけの陣形だ。


「全軍、両翼に広がれ! 少しでも兵を多く見せよ!!」


 これに対して、家康は本隊を中心に左右に兵を布陣させた。これを鶴翼の陣(かくよくのじん)といい、鶴が翼を広げるように布陣することで、敵を押し包んで討ち取るという陣形だが、本来は自軍が敵軍よりも多勢の時に構える陣形である。寡兵の時に鶴翼で構えても、敵を押し包むことができない。なぜ、寡兵の徳川勢がこの陣形を選択したのかは現在でも謎である。慌てた説、虚勢説などがある。この時の家康は、寡兵である自分達を少しでも多く、大きく見せようと鶴翼に構えたようだ。


 武田信玄の本隊の前に馬場民部少輔信春(ばばのぶはる)、その前に武田四郎勝頼(たけだかつより、信玄の子)と小幡信貞(おばたのぶさだ)、その前に山県三郎兵衛昌景(やまがたまさかげ)と内藤源左衛門昌豊(ないとうまさとよ)、最前線に小山田越前守信茂(おやまだのぶしげ)が布陣した。


 一方の徳川勢は、家康の本隊を中心に右へ佐久間信盛、平手汎秀、滝川一益、酒井忠次が布陣し、左側へ小笠原長忠(おがさわらながただ)、松平家忠(まつだいらいえただ)、本多忠勝、石川数正(いしかわかずまさ)が布陣した。のちに、三方ヶ原の戦いと呼ばれる合戦の始まりである。


続く。

ここまでお読みいただきありがとうございます\(^o^)/

「面白い!」「続き読んでもいいぞ!」という方は、

ぜひ高評価お願いいたします!


また、周りの方にもおススメしてくださいね!


戦上手の家康が、

何故三方ヶ原では寡兵にもかかわらず鶴翼の陣を敷いたのか、

なかなか興味深いですね。


戦いはまだ続きます。

どうぞお楽しみに!


水野忠

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― 新着の感想 ―
[一言] 本当は金仙脱核の計で騎馬隊の脚を潰すのはと思いましたが騎馬用撒菱で落馬した所へ撒菱で負傷させる不正規戦を仕掛けるかアンブッシュで十字砲火で虐殺か地雷火で虐殺が勝機有りかも?
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