第三章 再会と新たなる苦難⑤
美濃への道は、安全を考えて忠繁が通った伊吹山中を抜けることになった。浅井領を通る案もあったが、浅井家と朝倉家は長年同盟関係にある。朝倉派の武将達が、義景を見限って出てきた義昭達にどんな危害を加えるか予想ができなかったからである。
光秀は、義昭を一乗谷から出す際に、一族を引き連れてきた。話せば義景は反対し、光秀も家族にも危害を加えるかもしれなかった。黙って出てくるのは心苦しかったが、状況を考えれば仕方がない。せめてもの思いで、屋敷を掃き清め、義景と吉家にそれぞれ礼状を書き記して残してきた。余談だが、吉家は光秀を『律義者』として称賛し、義景は『薄情者』と罵ったと言う。
数日掛けて、一行は伊吹山を抜けて美濃に入った。そして、岐阜城の東、大垣に差し掛かったところで、信長自らが率いる織田家本隊と合流することができた。信長は下馬すると、義昭の前に膝を付いた。
「織田上総介信長にございます。美濃に入られたからにはもう義昭様に手出しができる者はおりませぬ。どうぞご安心くだされ。」
「お、おう。信長殿、わしにはもうそなたを頼るほかはないのじゃ。頼みますぞ。」
「ははーっ!」
このような対応をする信長は初めて見たが、これから天下を狙うのだとしたら、将軍の権威は無視できない。それを手に入れるためには、頭などいくらでも下げようというものだろう。
「さぁ、義昭様。道中お疲れになられたことでしょう。輿を用意しましたので、ゆっくりとなされよ。」
「うむ。」
織田家の兵に守られて安心したのか、岐阜城下に入るまで、義昭は輿の中で寝てしまっているようだ。時々いびきが外にまで聞こえてきた。
「光秀。」
「ははっ。」
「この度の義昭公との引き合わせ、大儀であった。そなたを召し抱えたい。が、しばらくは義昭公との橋渡しをしてほしいゆえ、実際は義昭公の下で働いてほしい。」
「ありがたき幸せにございます。粉骨砕身、勤めまする。」
光秀は、織田家の家臣でありながら、義昭が将軍になれば、将軍家と織田家の両方に仕えることになる。これは珍しい状態だが、光秀の手腕であれば十分に勤められるだろう。光秀の長い放浪の時代は終わり、ようやく陽の目を見ようとしていた。
義昭を岐阜に迎えてからの信長の動きは早かった。翌日には主だった者が呼び出され、岐阜城において軍議が開かれた。京へ上るには北近江の浅井領を通った後、南近江の六角家を相手にしなければいけない。六角家の当主・六角左京大夫義賢(ろっかくよしかた、後に剃髪して承禎(じょうてい)を名乗る。)は、長年浅井家と対抗していた。一時は浅井家を滅ぼそうかというところまで行ったが、朝倉家の援軍に大敗して、南近江で戦力を蓄えていた。今では、義輝を暗殺した三好兄弟、松永久秀らと組み、信長の従軍要請には従わずに、対抗の姿勢を見せていた。
六角家の治める南近江は、観音寺城(現在の近江八幡市)を拠点とし、一八の城と総勢二〇〇〇〇の軍勢をもって他国が攻め入れぬように鉄壁の防御態勢を誇っていた。
軍議では、長秀が地図を広げ、京への道筋を説明していた。
「明後日には、徳川様の援軍三〇〇〇が岐阜へ到着する。わが織田家本隊は総勢四二〇〇〇、途中、北近江の浅井家居城、小谷城に立ち寄り、浅井家五〇〇〇を加え、総勢五〇〇〇〇の軍勢で京へ向かう。その妨げになるのは、南近江の六角義賢、義治(ろっかくよしはる)親子と、京に陣取っている三好三兄弟と松永久秀じゃ。」
「長秀、六角家の勢力はどの程度か?」
勝家が髭をさすりながら聞いてきた。
「聞くところによると、六角家の総勢は二〇〇〇〇ほど、しかし、観音寺城と一八の支城で防御を固めておる。一筋縄ではいかぬであろうな。」
京で三好、松永連合軍と戦うことを考えれば、南近江の平定に時間も兵力もあまり割くわけにはいかない。しかし、野戦と違い、城攻めはとにかく時間がかかりやすい。集まった者達はどうするべきか思い思いに口にしだし、広間はざわつき始めた。信長はその様子をじっと見つめていて、その隣では、上座に座らされた義昭がどうするのかわからずにオドオドと辺りを見回していた。そのざわめきの中で、ようやく信長が口を開いた。
「・・・忠繁。」
「はい。」
「貴様ならどう攻める?」
そう問いかけられ、思わず辺りを見回してしまった。重臣達を前に自分が先に発言してしまってよいものなのかどうか。しかし、信長はそんな忠繁の気持ちを察したのか、
「遠慮するな。忠繁の考えを聞かせよ。」
そう言ってうなずいた。忠繁は、長秀の広げた地図に歩み寄ると、その傍らに膝を付き、持っていた扇子で観音寺城を指した。
「六角家の居城はこの観音寺城です。観音寺城を守るように周囲には一八の支城が展開しています。それぞれの城の守りはせいぜい一五〇〇から二〇〇〇程度でしょうが、必勝を期すには、城攻めには十倍の軍勢が必要と聞いております。単純な計算で、三六〇〇〇〇の軍勢が必要になります。」
忠繁の計算に、広間はさらにざわつき始めた。
「三六〇〇〇〇の軍勢など、どの国を探しても無理じゃ!」
「農民まで皆借り出しても足りぬぞ。」
「いったい、いかがしたものか。」
そのざわつきを、長秀が一括した。
「皆の者、騒がしくするでない。忠繁の話はまだ終わっておらぬぞ! さぁ。忠繁、続きを話してくれ。」
「ありがとうございます。」
忠繁は再び扇子で観音寺城、そして、その隣の箕作城を指し、
「一八の支城があると言っても、城らしい城は観音寺城と、この箕作城くらいなものです。ですので、全軍をもってこの二城へ攻めかかれば、今回の軍勢で十分に落とすことが可能です。ほかの城は、義昭様と信長様が京に向かった後にでも、一部の残った兵でゆっくり落としていけばよいかと考えます。」
そう言って、信長の顔を見た。信長は満足そうににやりと笑っていた。歴史の本をよく読んだと言っても、六角攻めに関してはほとんど知識がない。地図を見て立てた戦略が、たまたま史実と合致していたのは、忠繁のセンスに他ならない。
「わしと同じ考えじゃ。六角親子のおめでたい頭では、一八の支城で我が軍を抑えられると考えているであろうな。そのとぼけた頭を覚ましてやろう。」
信長はそう言うと立ち上がった。
「稲葉良通!」
「はっ!」
「そなたが先陣じゃ、一五〇〇の兵で和田山城を攻めよ。六角親子に、わしが支城へ戦力を分断させたと思わせるのじゃ。」
「ははっ!」
「権六(柴田勝家のこと)、三左衛門(森可成のこと)。第二陣、五〇〇〇ずつ軍を率いて観音寺城を攻めよ!」
「ははーっ!」
「承知いたしました。」
「第三陣! 五郎左(丹羽長秀のこと)、一益(滝川一益、たきがわかずます。後の織田四天王の一人)とサル(秀吉のこと)を連れ、八〇〇〇の兵で箕作城を攻めぃ!」
「かしこまりました。」
「第四陣! 信盛は五〇〇〇の兵で残った城を落としていけ。」
「ははっ!」
信長の命令が終わると、諸将は準備のために早々に広間を出ていった。残ったのは、信長と義昭、そして光秀と藤孝、忠繁と信長の近習達であった。
「残りの軍はわしが率いる。その方らは義昭様をお守りして付いて参れ。忠繁、見事な戦略であったぞ。」
「ありがとうございます。」
「うむ。」
信長は満足そうにうなずくと、食事を取ると言って、義昭と一緒に出ていった。信長達を見送ると、光秀と藤孝が感心して忠繁を褒め称えた。
「忠繁殿、本当に見事な戦略ですな。」
「さよう、敵の思惑の裏をかいて本拠地を直接攻めるとは、なかなか思い付きませんぞ。」
「いえ。さして広くもない南近江の地に一九もの城を建てて立てこもるのは、領地全体で守りを固める戦略なのだと思いました。であれば、まともにそれに付き合う必要はないと思ったのです。」
事実、和田山城を攻め始めたことに、信長が戦略に落ちたと上機嫌だった六角親子は、突如現れた織田の主力に度肝を抜かれることになる。箕作城の守将、吉田重賢(よしだしげかた)は、一度は織田勢を退ける善戦をしたが、秀吉の夜襲によってあっけなく落城し、それを知った六角親子は、早々に観音寺城を捨てて逃走した。六角親子が逃走すると、信盛が攻めるまでもなく各支城の守将達は我先にと降伏を願い出てきた。一八の支城で信長を退けると豪語していた義賢だったが、わずか数日で南近江を失うことになった。
京で待ち構えていた三好三兄弟は、この信長の快進撃に激しく動揺し、戦らしい戦をすることもなく四国へ逃走した。その後、松永久秀は降伏を申し出て、信長は畿内一帯(現在の大阪、京都、奈良)を平定したのであった。岐阜を出発したのが八月五日、京に入ったのが九月二八日、わずか二か月足らずで、岐阜から南近江、畿内を手中に収めたのだ。永禄一一年(一五六八年)のことである。
続く。
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六角攻めの一八の城との戦いは、
重要そうですが、結構あっさり勝敗が決まっちゃいます。
義昭と信長、
二人の思いは少しづつずれ始めて…。
次回をお楽しみに。
水野忠




