第二章 織田家の発展⑦
この頃、稲葉山城の斎藤龍興は、政は重臣達に任せ、自らは日夜酒色に溺れていたという。日根野弘就のように、自分を良く言う者は重用し、諫言する者は遠ざけた。大沢正秀もまさしく疎まれた人物の一人で、美濃の有力者でありながら、龍興の放蕩ぶりに愛想を尽かし、ここしばらくは病と言って出仕していなかった。
そんな中、秀吉は正秀に接触し、織田に降るように持ち掛ける。初めは取り合おうともしなかったが、道三が信長に残した『国譲り状』のことに触れると、道三が信長を正当な美濃の後継者として決めたのだったら、従ってもよいと、織田家に降ることを了承させた。
しかし、降った正秀に対して、信長は面会を許さなかった。
「サル。鵜沼の虎ともあろう人物が、なんの手土産もなく降るはずがなかろう。」
そう言って突っぱねたという。秀吉は正秀と共に墨俣に戻り、忠繁にそのことを相談した。
「それは、手痛いことを言われてしまいましたね。」
「このままでは、せっかく降ってくれた大沢殿の顔に泥を塗ってしまうことになる。何かいい方法はないでござるか。」
秀吉は頭を抱えて悩んでいるようだった。それほど、正秀とは意気投合したのだろう。正秀は腕を組んでデンと座り、深いため息を吐いた。
「信長様に受け入れてもらえず、かといって龍興では斎藤家の明日はない。もはや、腹を切るしかござらぬか。」
「お、お待ちください。大沢様ほどの御仁が、簡単に腹を切るなどと言ってはいけません。」
「しかし、しかしじゃ・・・。」
この人、意外と『脳筋』だ。と、笑いを堪えながら、忠繁は美濃の地図を取り出した。
「大沢様。西美濃の皆様とはお付き合いございませんか?」
「西美濃の三人か? あやつらも龍興に愛想を尽かして居城に引っ込んでいる。」
「この三人を降すことができれば、十分、信長様への手土産に出来るかと思いますが。」
忠繁の言葉に、正秀の表情が明るくなった。西美濃の有力者とは、『西美濃の三人衆』と言われている斎藤家の重臣で、稲葉伊予守良通(いなばよしみち)、安藤伊賀守守就(あんどうもりなり)、氏家直元(うじいえなおもと。後の氏家卜全)の三人のことを言う。
「よし。やってみよう、どちらにしてもこれがうまくいかなければ、わしの明日はない。」
「では、拙者もご一緒しよう。」
そう言うと、秀吉も立ち上がった。
「わしも一緒に話せば、きっと通じるでござるよ。忠繁殿、申し訳ござらぬが、もうしばらく墨俣を頼むでござる。」
「かしこまりました。」
秀吉と正秀は、準備を整えるとすぐに墨俣を出ていった。
二人はまず、西美濃の稲葉良通の屋敷を訪ねた。良通は稲葉一鉄とも言われ、ストイックな性格は美濃でも有名な頑固者であった。現在の「頑固一徹」という言葉は、この良通の頑固さから由来するものだと言われている。(諸説あり)
「頑固者の稲葉殿を降すことができれば、他の二人も降るであろう。」
正秀の言葉に、秀吉も従った。
「おぅ。大沢殿ではないか、どうしたのじゃ。」
「折り入って相談したいことがあって参上した。お話よろしいか。」
正秀の言葉に、良通は快く中に招き入れてくれた。座敷に上がると、二人は一礼してから話に入ることにした。
「この方は、織田家臣で墨俣城主の木下秀吉殿じゃ。」
「なんと、この御仁が?」
秀吉を紹介されると、良通はたいそう驚いた顔で秀吉を見た。この貧相な男が墨俣に城を。とでも思っているのであろうか。しかし、そんなことでいちいち腹を立てる秀吉でもない。
「墨俣に一夜城を建てた者が、あまりに貧相で驚かれましたかな?」
秀吉は満面の笑顔で言うと、
「あ、いや。これはご無礼仕った。」
良通は自分の心内が見透かされてしまったことを詫びた。これは計算通りだ。秀吉にしてみれば、相手に悪いと思わせたことでイニシアチブを握ったことになる。
「まぁ。稲葉殿が驚かれたとおり、織田家では無名もいいところでござるからな。墨俣城も、指揮を執ったのは確かにわしじゃが、策を考えたのは別の者。織田家には天才がいるでござるよ。」
そう言って屈託なく笑う秀吉に、良通は自分がこの男に対して警戒心が薄いことに気が付かされた。このニコニコと話してくる青年には、まったく害意を感じない。それが計算しているのかしていないのかは別として、秀吉の人柄というか、武器であることは間違いなかった。
「大沢殿。相談というのは、尾張の信長殿に降れということかな?」
「さようでございます。もはや龍興では斎藤家は持ちますまい。いずれ他国に奪われるのであれば、道三様が国譲り状を渡した信長殿がよい。」
良通は腕を組んで考え込んでしまった。確かに、龍興に疎まれ、病と称して出仕していないのは事実だ。しかし、だからと言って、信長に降るのも武士としての面目が立たない。良通の頭の中では様々な思いがぐるぐるとめぐっていった。
「稲葉殿。主家を見捨て、他国に付くのが心苦しいのは十分承知のこと。されど、北には越前の朝倉、西は北近江の浅井、東は甲斐信濃の武田、このままではわが殿が美濃を攻めずとも、すぐに蹂躙されましょう。いや、稲葉殿も大沢殿も、斎藤家を出て他家に仕えるのは、武士として思うことはあると存じ上げます。が、しかし。この美濃に住む領民のことをお考えくだされ。」
秀吉はそう言うと頭を下げた。
「領民のこと?」
「さよう。我ら武士は、領民なくして生きてはいけませぬ。戦いが続いて一番疲弊するのは領民達です。ご存知かわからぬが、拙者は元々、尾張中村の農村の家に生まれた農民の子でございます。拙者が信長様の下で働くのは、信長様が天下を統一し、戦のない世になれば、領民が一番喜ぶためです。そのためには、美濃を手にしなければいけないのです。」
まっすぐな言葉、それも農民から身を立てたという秀吉の言葉は、良通の心にも響いた。腕を組んでいた良通は、無言のまま立ち上がると囲炉裏で沸かしていた湯で茶を入れ、二人に振舞った。
「客人に茶も入れずに失礼した。」
そう言うと、意を決したように言葉を続けた。
「・・・あい、わかった。この命、織田殿に預かっていただこう。」
「稲葉様。」
「しかし、一つお断りしておきますが。」
そう前置きをした良通は満面の笑顔を見せると、
「わしは頑固者ですからな。お覚悟なされよ。」
そう言って笑うのであった。
良通が降ると、安藤守就、氏家直元もすぐに秀吉に降った。頑固者の良通が降ることを決意したほどの人物なら、まず間違いはないだろうと判断をしたのだ。当面は、今のままの生活を続け、美濃国内の情勢を秀吉に流す役割をすることになった。
そんな時、一つの事件が起きる。斎藤家配下の武将、竹中半兵衛重治(たけなかしげはる)が、わずか二〇人で稲葉山城を攻め落としたのである。半兵衛は、弟の竹中久作重矩(たけなかしげのり)や安藤守就と共に城へ攻め寄せ、計略を持って占拠した。
その日は日根野弘就が城下で美人を探してきたと言って、龍興に面会させたのだ。龍興はこの美人を大いに気に入って大宴会となった。そのために城内は大騒ぎとなり、先ほどようやく静かになった。
「夜半にすまぬ!」
そんな時、稲葉山城の門番は、戸を叩く音に気が付いて立ち上がった。
「このような夜更けにいかがいたした。」
「それがし、竹中半兵衛様の手の者にござる。城詰の弟、重矩殿が酷い下痢を繰り返していると言うので、主、半兵衛様より薬を預かってきてござる。」
扉に取り付けられた小窓から外を見ると、確かに見知った顔が立っていた。門番は扉を開けると、その男を引き入れた。
「かたじけない。」
男はそう言うと、城内へ消えていった。その後、扉を閉めた門番がうつらうつらとしていると、再び戸を叩く音がした。
「夜半にすまぬ!」
「このような夜更けにいかがいたした。」
「それがし、竹中半兵衛様の手の者にござる。城詰の弟、重矩殿が酷い頭痛を繰り返していると言うので、主、半兵衛様より薬を預かってきてござる。」
門番は目を丸くした。ついさっきと同じようなことを言っているではないか。
「先ほど、重矩殿宛てに薬を持ってきた者がおったが。」
「なにっ? そんなはずはない。わしは今日命じられたのだ。その男、まさか狐狸(キツネやタヌキ)の類ではなかろうな。」
「ええっ?」
「とにかく重矩殿に薬を届けねばならぬ。急ぎ通してくれ。」
小窓から見れば、男は一人のようだ。門番は扉を開けて中へ招き入れた。
「かたじけない。すぐに届けて参る。」
男はそう言うと城内へ消えていった。門番は首を捻りながら柱にもたれかかった。
「いったいなんなんじゃ。」
訳が分からないまま再び眠気が襲ってきたころ、再び戸を叩く音が聞こえた。門番は槍を片手に門へ近付くと、
「夜半にすまぬ!」
と、再び男の声がした。
「竹中重矩殿に薬を持って参ったか?」
「何故知っておるのじゃ? いかにも、城詰の竹中重矩殿が腰を痛めたというので、兄上である竹中半兵衛様の指示で薬を持って参った。」
「おのれケモノめ!」
門番は、いよいよ狐か狸が化かしているのであろうと考え、扉を開けると槍を構えて飛び出した。と、同時に強い力でがんじがらめにされ、口に布を噛まされた。
「殺しはせぬ。事が済むまでここで大人しくしておれ。」
そう言ったのは半兵衛本人だった。残った配下を引き連れて入城すると、用意してあった松明(たいまつ)に次々と火を付け、地面に突き刺していった。こうすることで、城内からは無数の兵士が攻め込んできているように見えるはずだ。
「殿―っ!」
弘就は龍興の寝所の襖を開け放った。その時、龍興は弘就の連れてきた美人と布団の中で休んでいた。飛び込んできた弘就に、驚いて布団から飛び出た。
「備中(弘就のこと)! ここまで入ってくるのは無礼であろう!!」
ふんどし一枚で怒鳴りつける龍興だったが、弘就は構わずに報告した。
「敵が攻め寄せてまいりました。すでに、少なくない人数が城内に侵入しております。」
「な、な、なんじゃって?」
龍興は床の間の刀を手にして立ち上がろうとしたが、そのままよろけて倒れ込んでしまった。昨夜の酒がまだ抜けていないのである。
「しっかりなさいませ。とにかく、今はお逃げください。」
「おのれ。誰じゃ、信長か? それとも農民の一揆か?」
弘就に支えられてようやく立ち上がると、そのまま城を出ようと廊下に出た。その時、鎧の金具がこすれる音をさせながら、甲冑姿の武士が数名、龍興の前に姿を現した。
「な、何奴じゃ!」
刀を抜いた龍興に、
「家臣の顔をお忘れですか。竹中半兵衛重治にございます。」
無表情で答えたのは半兵衛だった。
「この城はわが手勢二〇名で占拠仕った。しばらくこの半兵衛が留守居を務めますゆえ、龍興様は酔いを覚ましてから登城されよ。行け!」
半兵衛に促され、龍興と弘就は半ば転がるようして稲葉山城を後にし、ひとまず弘就の屋敷に逃げ込んだ。この時、半兵衛は二〇名で城を奪ったが、守りに付いていた守兵達は完全に油断していたため。味方同士で斬りかかったり、階段から転げ落ちたりで、五〇名以上の死者を出し、倍する人数が負傷した。半兵衛は、龍興が退去すると、残った者達に死者を弔い、城内を清めるように指示し、城内へ引き上げていた。
続く。
ここまでお読みいただきありがとうございます\(^o^)/
「面白い!」「続き読んでもいいぞ!」という方は、
ぜひ高評価お願いいたします!
また、周りの方にもおススメしてくださいね!
半兵衛の稲葉山城乗っ取りは、
歴史でもなかなか珍しい事件でした。
いよいよ美濃攻略へ、最終段階に入ります。
水野忠