ベリーショート
ベリーショート。それはきっと、私に合う髪型だろう。
自慢では無いが、私の長い漆黒の髪はとてもサラサラで、ブラシを入れずとも自然に纏まる。特に何か理由があった訳では無いが、その長い髪をバッサリ切ろうとした。
長い髪は微風に対し風情を感じさせる様な動きを示すが、強い風が吹けば容赦なく不快な振る舞いをする。対して短い髪は、微風に対して何ら反応する事は無いが強い風、それが例え台風であっても1本1本が竹の様にしてしなやかに風をいなし、決して人を不快にさせる振る舞いをする事は無い。大袈裟にいえば1本1本が独立するようにして振る舞い、多少乱れていたとしても、傍からはそういうヘアスタイルなのだと、そう思われる利点が無きにしも非ずと云った所だろうか。
洗髪に関して言えば長短の違いは顕著に現れる事だろう。シャンプーの使用量がグッと減り、当然リンスの使用量もグッと減る。いっそリンスは使わなくても良いかもしれない。そして何より髪を洗う時間その物が減り、拭き上げる時間も減り、乾かす時間も大幅に減る事だろう。その時間と手間、そしてシャンプー代やリンス代等の経済面を考えれば、その有益性には目を見張るものがある事だろう。
とはいえ短い髪も万能では無い。タオルで拭いただけの半乾きのままに寝てしまえば、翌朝は爆発している可能性もある。ブラシを入れればある程度纏まり、髪自身の重さにより自然と寝癖が治る事すらもある長い髪と違い、短い髪はブラシだけでの対処が難しい事もある。が、その爆発状態でさえも新しいヘアスタイルだと認識され、それが寝癖だと気付かれないなんて事もあるやも知れない。
過去にあっては「髪は女の命」なんて言われて切る事も無かったと聞く。今の時代に於いてもそれなりに大事にされてはいるが、流石に「命」と迄は言われない。ちょっと前であれば「髪を切る=男にフラれた」といった図式が常識になっていたらしいとも聞く。そんな理由で髪を切ったなんて話は終ぞ聞いた事は無いが、時代を経て扱いが変わる「髪」というのは、何とも不思議な存在である。
以前、私は爪を伸ばしていた時期があった。それは当然お洒落の為である。だがその長い爪で頬を引っ掻いてしまい、後々迄は残らない程度の傷が出来た事があった。私はそのやり場のない怒りを爪へと向けて、手足の爪を深爪と言える程に深く切った事がある。その直後から洗髪や洗顔を含め、日常生活がガラリと楽になったのを今でも記憶している。今では月に2度、深爪と云われる程に爪を切っている。どうしてもお洒落として必要なのであれば、付け爪をすればいいだけ。きっと髪だってベリーショートにして、必要であればエクステを付ければ十分という事なのだろう。
そこでふと思う。「髪」というのは「会社に於ける人との距離感」に似た何かなのかもしれないなと。
長い髪は一部の髪が長い訳では無く全体的に長く、それらの髪達は周囲の髪に同調している。長ければ長い程に手入れといった手間を要し、それを怠れば毛先が枝分かれしたりと全体的に傷んできてしまう。そこへ新たな1本の髪が生え始めたとしたら、その髪が細ければ同調も可能だろうが、少し太めの髪であれば跳ねてしまい悪目立ちしてしまうかもしれない。人によってはそれを切ってしまうかもしれない。
それを「会社」に見立てたとしたならば、頭部は組織か組織内に於ける派閥、そして髪の毛1本1本が1人を表し、長い髪はそこに長く留まる「人」を表しているとでも言えようか。その場合、長い髪の同調しあう姿とは相互依存、同調圧力、精神束縛とでも言えようか。若しくは組織や派閥、そして職位や序列での暗黙にして理不尽なる圧力や忖度を表していると云った所であろうか。
新しく生えた1本の髪の如く、人が新たに組織や派閥に入って来たとしたならば、往々にして同調や忖度する事が求められる。それを自分には合わないとの理由で以って我を通そうとしたならば、例え何らかの成果を出そうとも、きっとその人は浮いてしまう、若しくは悪目立ちする事は必至であろう。それが髪ならば切られてしまうだけであるが、人ならば組織や派閥から無言にして諸々の圧力を受ける事になるのは想像に容易い。その圧力に抗おうとするならば相当な精神力を要する。それに抗えないのであれば恭順を示す、又はその場を自らの意思で以って去る他ないだろう。そして正しさだけではどうにも出来ない事があるという事実を、身を以って知る事になるだろう。
従う振りをしその場をやり過ごし、いずれ自分がそんな組織派閥を変えるのだと意気込んでいたとしても、人は同じ場所に長く居続ければ馴染んでしまう。朱に交わり赤く染まる自分に気付かず、そんな意気込みすらも忘れて老いてゆく。長い髪とはそういう「人」を表していると言えるのかもしれない。
手入れされない長い髪は艶を無くしうねるようにして波打つ。櫛を通せば「ギギギ」と音を奏でる。それを「会社」に見立てたとしたならば、ガバナンスが全く効いていない会社と、そう言えるのかも知れない。
では短い髪はどうだろうか? 長い髪の例に倣えば、それは短期間だけ組織に属する人を表すと言えるだろうが、それは直ぐに辞めてしまう人等の事ではなく、例えば、期間限定のプロジェクトの為に集められ、プロジェクトが終われば2度と会う事が無いような人達、互いに忖度せず協調しあえる人達の事であると、又は風通しが良い会社であると、そう言えるのかも知れない。
人同士に於いては反りが合う合わない、生理的に受け付けないといった事もあるだろうが、それを理由に仕事を選ぶというのは至極稀であろうし、それが出来るのは極々限られた人のみであろう。多くの人、いやほぼ全ての人は例えそんな理由があったとしても割り切って仕事をしている訳ではあるが、それが先の見えない程に長期に渡って続くとなれば、それは徐々に精神を蝕み、やがては身を滅ぼしかねない事態になる事だって無いとは言い切れない。だがそういった状況も短期間だけであれば、存外楽な事だろう。「あと幾日か辛抱すればと終わりだ」と、そんなゴールが見えている状況であればどれ程楽な事であろうか。
短い髪や短い付き合い。それは人にとってとても楽な事……いや、楽な生き方であると、そう言えるのではないだろうか。
私は「一期一会」という言葉がその響きを含めて好きだ。その言葉の趣旨は人との出会いを大切にする。生涯2度と会わない可能性もあるのだから尽くそうと、そういった趣旨だったはずではあるが、私は少し斜めに捉える。言葉通りに短い付き合いであれば人の嫌な所は見えてこないし、例え見えたとしても短い時間なので我慢出来るであろうと、もう2度と会う事は無いかも知れないのだから我慢できるだろうと、となれば優しくしてあげようと、そういう意味に捉えている。本来の意味とは異なるが、これも言い得て妙という所ではないだろうか。
一期一会。その言葉はきっと、私に合う言葉だろう。そしてベリーショート。それはきっと私に似合う……いや、私に合う髪型だと言えるだろう。
◇
紺のスーツを纏った恰幅の良い中年男性は、そんな内容が書かれた数枚の紙に目を落としていた。
「ふぅぅぅ……」
男性はそんな長めのため息を吐きつつ、事務椅子に座ったままに天井を仰ぎ見た。そんな背中を預ける格好となった事で、事務椅子の背もたれは「ギキキィイ」という短い悲鳴を上げた。
男性は数秒間黙ったままに天井をみつめた後、天井に向けて短いため息を1つ吐いた。そしておもむろに姿勢を戻すと、目の前の事務机越しに姿勢良く立つ、黒いスーツを纏った20代後半の女性をじっと見つめた。
「一期一会ってさ、良い言葉だよね」
「同感ですね」
女性は両手を前に組みながら、軽く口角を上げつつ応えた。
「4文字熟語の中でもさ、何かカッコ良いと思わない?」
「同感です」
男性は真顔のままだったが、女性は相変わらず笑みを浮かべていた。
「ここにも書いてあるけどさ、確かに音としてもカッコいいよね」
「仰る通りです」
「しかし一期一会を『2度と会う事もないから我慢出来るはずだ』って解釈するのは、中々の斜め読みって感じだねぇ」
「恐れ入ります」
男性は誉めたつもりはなかったが、女性は「ありがとうございます」と、そんなトーンで以って答えながらに軽く頭を下げた。
「しかし……」
「何でしょう?」
「頭部が組織だとしたらさ」
「はい」
「私の場合には、どうなるんだろうねぇ? 倒産寸前の会社って所かな?」
男性は嫌みのある笑顔を浮かべつつ、自身の薄い頭を指差し言ったが、女性は口を一文字に何も答えず、男性の顔を見つめるだけだった。
「ふむ。まあ、いいや。で?」
「はい?」
「これが君の意見?」
「意見と言いますか……」
「長い髪の所為で手入れに時間が掛かったという事?」
「仰る通りです」
「それが遅刻の理由って事?」
「仰る通りです」
「それを始末書に書いたという事?」
「そうですが何か?」
「とりあえずこれが遅刻の始末書に見えない事は置いておくとしてだね、じゃあ何? この始末書はこれを機に髪を短く切ろうという宣言文みたいな感じかな?」
「は? いえいえ、髪を切るなんて事は一言も書いていませんし、そんな事は微塵も考えてもいませんよ?」
女性の髪は長かった。それこそ腰に届く程に長く、そして美しかった。
「どういう事?」
「この長い黒髪は私のアイデンティティと呼べる物ですので」
「短い髪が楽だとか似合うとか何とか色々書いてあるけど?」
「はい、それは当然そうだと思います。直ぐに乾くしシャンプーも少なくて済むし、色々と楽だろうなぁって」
「でも君の髪はサラサラなんでしょ? だったら朝は大した手入れなんて必要無いって事じゃないの?」
「私、夜お風呂に入るのは勿論ですが、朝はシャワーを浴びますので結局乾かすのに時間が掛かるんですよ」
「……あっそ」
「はい」
「ってかさ、短い髪は楽、短い付き合いが楽みたいな事書いてあるじゃん? これって退職の意向を示してるの?」
「は? 何故ですか?」
「いやだって長く会社にいると辛いんでしょ? 辞めたいって事じゃないの?」
「は? 辞めたいなんて書いてありませんよ?」
「だってそう言う事でしょ? 一期一会なんて話も遠回しに辞めたいって言ってるんじゃないの?」
「いえいえ、だったら髪もバッサリ切ってますし」
「つうかめっちゃ会社批判的な事も書いてるよね?」
「うちの会社を批判しているつもりはありませんよ?」
「いやいや、忖度だの何だのとメッチャ書いてるよね? 私は君にパワハラした記憶は無いし、何か忖度を必要とするような業務を指示した記憶は全く無いんだけど?」
「ただ『遅刻しました。ごめんなさい』って書いただけじゃ始末書とは言えませんよね?」
「かといってこのエッセイみたいな物が始末書だとも思えないけど?」
「書くなら書くでちゃんと書こうと思いましてね。そしたらこのような書き方になってしまいました。まあ、ちょっとした社会風刺ですよ。ふ・う・し」
「……まあ、風刺は良いけどさ、せめて『今後は気を付けます』の一言は書くべきだとは思うが……じゃあ、会社批判では無いのね?」
「はい」
「会社を辞めるつもりも無い?」
「勿論です。これからもお世話になるつもりです」
「髪を切るつもりも無い?」
「勿論です」
「けれども、今後もその長い髪の手入れの為に、遅刻する可能性があるという宣言でもあるの?」
「はい、今後とも宜しくお願い致します」
女性は軽く頭を下げた。
「……」
「宜しくお願い致します!」
女性は深々と頭を下げた。よく手入れされた長い漆黒の髪は、その行動にサラサラと音を立てるようにして追随する。そして体を起こした後もサラサラと追随する。その黒髪は1本1本が輝きを放ち、体を起こした後は自然と綺麗に纏まっていたという。
「いや、宜しくじゃねぇよ」
2020年08月28日 初版