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後編

再び夜の闇があたりを蔽った。その闇がどこかにゴルゴン博士の目を隠していることを、ラウルはすでに知っていた。彼はランプの灯りをつけず、闇の深淵に目を凝らしていた。片手には双眼鏡が握られていた。

長い緊張と沈黙の後、突如としてゴルゴン博士の館に灯りがちらついた。それは孤独に耐えかねて伴侶を求める叫びのように短い間闇を裂いたかと思うと、すぐに消えてしまった。しかし、咄嗟に双眼鏡に目を当てたラウルは、望遠鏡の背後に黒い禍々しい人影を見た。

あれがゴルゴン博士か?

彼の背筋に冷たいものが走った。今垣間見た人影が、長年の仇敵のように感じられた。ザリーニはゴルゴン博士に捕まったのだと、彼はほとんど確信した。

次の日から、彼は一日を博士の館を見張ることに費やした。双眼鏡を手にし、木の葉の陰に見え隠れする窓を見つめて過ごした。しかし人のいる気配はなく、灯りもつかなかった。彼が見張っていることに勘付いたかのようだった。

とうとう彼は博士の館に行ってみることを決心した。館へ続く道というものはなく、樹林の中を通らねばならない。木々はよそ者の侵入を好まない部族のように、彼の前に立ちふさがったり枝を押し付けたりした。木々はどれも瘤の多い頑迷な年寄りと言った感じの老木ばかりで、木陰には小鬼ゴブリンやヘビなどが潜んでいるような気がした。

ようやく博士の館に辿り着いたときには、彼の気分や衣服はすっかり木々に翻弄されつくしていた。館は石塀に囲まれていたが、楽に乗り越えられる高さだった。塀を乗り越えると、雑草と藪の王国のような小庭があった。茨の藪は番犬のように彼にかみつき、彼の手首にかき傷を作った。

館はいたるところひび割れ、窓ガラスは風雨に抵抗した様子もなく割れて、崩壊の時を待つばかりだった。鍵のかかっていない窓から彼は難なく館の中に入り込めた。内部は暗く埃が積もっていて、人の住んでいる気配などまるでなかった。

それでも確かにゴルゴン博士が住んでいるのだ。耳慣れない軋みと暗がりの中からいつ博士が現れるとも限らないとびくびくしながら、ラウルは歩き回った。1階はほとんど調べつくした。どの部屋も使われた形跡がなく、不気味な静けさが膜のように張っていた。

腹立たしいほど軋る階段を上って2階に行った彼は、広い板張りの部屋で足を止めた。そこは今まで見てきた部屋と違っていた。窓には黒幕が張られて一層暗くなっていたが、そこには人の気配があった。円卓の上にあったランプに火を付けると、暗がりの中から多くの人影が浮かび上がった。

ラウルは驚いてドアの方に飛び退った。けれども人影が身じろぎひとつしないので近付いてよく見ると、それはみな石像だった。それにしてもなんと精巧に彫られていることか。その石像の姿勢といい表情といい、生命の宿ったものにしか見られないものだった。いかに腕のいい彫刻家といえども、これほどの物を作ることはできないと思われた。そこには造物主のみが与えることができる生命の跡があった。

立ち並んだ石像を眺めながら、彼が気付いたことがあった。それは、どの彫像も驚きと恐怖の表情をしているということだった。これらの石像をゴルゴン博士が彫ったのだとすれば、なぜ博士はこんな表情ばかり作ったのだろう、と彼は不思議に思った。

一つの像の前で彼は立ちすくんだ。体中の血が毒されたような気がした。その像はザリーニに瓜二つだったのだ。瓜二つどころか、どう見てもそれはザリーニそのものだ。ラウルの首筋に禍々しい思いが巻き付いた。激しい恐怖が、彼の全身を危険信号のように脈打たせた。

今すぐここから逃げなくては、と彼は思った。しかし足が動こうとしなかった。視線はザリーニに瓜二つの彫像に張り付いていた。ザリーニは博士の彫像のモデルになったのか、それとも…。

石像の見開いた目や驚きにゆがんだ口が、彼に何かを告げようとしていた。しかしその口に言葉は宿らず、アメーバのようにどろどろとした恐怖だけが流れ出てくるのだった。ほかの石像も、必死に何かを訴えようとしているようだった。

身近な危険に敏感に反応したラウルの想像力は、素晴らしい活動を見せ始めた。それは神秘の奥処へ、閉ざされた扉へと手を伸ばし、差し出された断片を鮮やかにつなぎ合わせた。つなぎ合わせた断片の中から、ぼんやりとある神話が浮き出てきた。

まさか!と彼は呟いた。けれども居並ぶ彫像たちは、石の声を合わせて彼の推測を肯定した。もしそうだとしても、一体どうすればいいのか。

ふと彼は、この館のどの部屋にも鏡がなかったことを思い出した。人気のない古い館とはいえ、鏡のひとつくらいあってもよさそうなものだ。鏡は見捨てられた部屋の自意識となって、館の守り神のように光り続けるだろう。荒れた館ほど鏡を好むものなのだ。

ひょっとすると、という望みを抱いて、彼はすばやく残りの部屋を探し回った。ある部屋は実験室のようになっており、フラスコやレトルトなどの実験器具があり、怪しげな炉が口を開けていた。錬金術という言葉が彼の頭に一瞬閃いた。しかしぐずぐずしている暇はなかった。彼はすぐに他の部屋を調べ始めた。戸棚の中や引き出しの中も調べたが、どこにも鏡はなかった。

後は屋根裏へ続く階段が残っているだけだった。急に怖気ついて登るかどうか迷っていると、階段の上から雷のような声が轟いてきた。

「登ってきたまえ、ラウル!」

ラウルの足はガクガクと震え、ありとあらゆる恐怖が彼を取り巻いた。しかし彼は逆らうことは無駄だと思って、階段を上った。屋根裏部屋のドアは内側から、千年の眠りから覚めた恐竜の目のように開いた。その部屋に足を踏み入れる前に、彼はドアの隣の狭い物置のようなものの扉が半開きになっているのに目を注いだ。その中の古いがらくたの山の中に、彼は探しているものを見つけたような気がした。けれどもそれを確認する暇はなかった。

「早く入ってきたまえ!」

と博士が命令したからだ。その部屋は洞窟のように暗く、闇を放射する物体でもあるかのようだった。彼が入ると博士はろうそくに火を灯し、彼に灯りの輪の中に座るように言った。窓際にいびつな形の机が寄せられ、その上に望遠鏡が窓の外へと筒を伸ばしていた。窓の半分以上は黒い布で覆われていた。

不安定に揺らめくろうそくの灯りは、朽ちかけた柱やひびの入った壁を拷問具の一部のように思わせた。ゴルゴン博士は肘掛け椅子に座っていたが、黒い頭巾を頭からすっぽりかぶっていて、その容貌はさっぱりわからなかった。しかし、全身から不気味な気配を漂わせていた。

「君が来るのはわかっていたのだよ、ラウル」

博士の地の底から響いてくるような声は、彼をぞっとさせた。

「君はこの館の窓に望遠鏡を見つけ、自分がこっそり見られていたのだと知って激昂した。そうだろう?」

「な、なぜ……」

やっとの思いで彼はそれだけ言った。不死の闇に体を取り押さえられているような気がした。

「なぜ私がそのことを知っているのかというのかね。それでは教えてあげよう。君の見つけたその望遠鏡は、ただの望遠鏡ではないのだよ。それは私が発明した、人の心を覗ける望遠鏡なのだ。私はこの二か月、君の挙動ばかりではなく君の心の中を観察していたのだよ。どうかね?」

ゴルゴン博士の頭巾の奥から、二つの目がずる賢く光った。その目は、ラウルの錠をかけ閂で閉ざした心の中を、厚かましくものぞき込んでいたというのだ!この二か月、自分の心にどんな思いが去来したものか、彼自身にさえ思い出せなかった。それは留めて記録すれば恥にしかならないような、とりとめもないものであったに違いない。

ラウルの胸に怒りが燃え上がった。忌まわしい望遠鏡を叩き壊してしまいたかったが、博士の目と示し合わせた闇が、万力のように彼を締め付けた。それに、この部屋にいる間に恐怖は一層高まっていた。

「私の発明がお気に召さないようだね。君の心の中は純真そのものだったがね。君の友人のザリーニに比べれば、よほどましではないか。ザリーニときたら、一日中飲んだくれて淫らなことや罰当たりなことばかり考えておった。下品な男だよ、あれは。」

「それでは、ザリーニはここへ来たんですね!」とラウルは叫んだ。

「そう、やって来た。刃物を振りかざして、ひどく凶暴だった。私に抗議する資格などないくせに。ところで、ほかにもいろいろな人間を観察したが、君は実に興味深い青年だよ、ラウル。君の心を通り抜けるものはみな透明で、実質がなくて…夢なのだな、つまり。君は夢ばかりを追い回している。空想ばかりが伸び育ち、あとのものは地衣類のように這いつくばって……」

「やめてください!」ラウルはついに耐えきれなくなって叫んだ。

「あなたに人の心を覗く資格なんてあるのですか?心は誰にも冒すことのできない聖所です。そこに立ち入ることができるのは神だけではないのですか?心を覗く望遠鏡なんて、冒瀆だ!悪魔の発明だ!その上あなたは他人の何から何までも盗み見ておきながら、覆面で自分の顔を隠す卑怯者なんだ!」

ゴルゴン博士の目がギラリと光った。博士は黒マントの腕を広げて、吸血鬼のように立ちあがった。自分に襲い掛かってくるのかとラウルは爪先まで凍り付いたが、博士はテーブルの上の燭台を取り上げて、言った。

「ほう、君はそんなに私の顔が見たいのかね。お望みなら見せてあげよう。よく見るがいい」

ラウルは余計なことを口走ったことを後悔した。彼は恐ろしい結末をよく知っているはずだった。石像たちの恐怖の表情が、闇の中にひしめいた。彼は両手を顔の前にかざし、ドアの方へにじり寄った。

「君はペルセウスによく似ているよ。勇敢な英雄、目を見開いて見るがいい。そら!」

博士は覆面をはぎ取り、ロウソクの灯りの中にその素顔をさらした。しかしラウルはその瞬間に目を固く閉ざして、手探りでドアに達した。

「そら、どうした、こっちを向け!」

と叫びながら、ゴルゴン博士はラウルの腕をつかんだ。その手を振りほどこうと彼はもがいたが、博士は岩の中で蓄えたような底力で彼を押さえつけ、彼の目にロウソクの灯りを近付けた。

「目を開けろ、そして私を見ろ!」

ラウルはあらんかぎりの意思の力を振り絞って、目を閉ざし続けた。目の前で起こっていることを思って、瞼がピクピクと痙攣した。いっそのこと目が見えなくなればいいとさえ思った。目を開け、「それ」を見て、石の奴隷となるよりは。

ロウソクの炎が頬に触れ、彼は悲鳴を上げた。死んでも瞼を開けるまいと思った。悲鳴を上げた瞬間、博士の手の力が緩んだ。その隙をついて、彼は盲滅法に体当たりをくわせると、部屋の外に出て死に物狂いの勘を頼りに、先刻見た物置に飛び込んだ。

物置のドアを閉ざすと、外から押し開けるようになっているドアに体を押し付けて、暗がりの中に血走った眼を走らせた。そうするうちにも、ゴルゴン博士はその物凄い力のすべてをドアにたたきつけて、ドアを開けようとしてきた。その力にはとてもかなわない。ドアに押さえつけている体の骨さえ折れるかと思われた。

梯子に縄に木箱、書物、箪笥、箒、壊れた椅子、ラウルは祈るような気持ちで探した。ついに博士の力に抗しきれずドアが押し開けられた瞬間、彼は見つけた。裏返しになっているためにはっきりとはわからないが、それは鏡であるに違いなかった。

この館に鏡が一つもかかっておらず博士が頭巾をかぶっているのが、もし自分の顔を見ないためであるのなら…。彼の推測が正しく、彼が今この暗がりで見つけたものが本当に鏡であれば、彼は石像にならずに済むだろう。

博士が物置の中に飛び込んできたとき、ラウルは鏡に飛びつき、その上に腹這いになった。片手でその表面を探ると、つるつるしていた。それは紛れもなく鏡であったのだ。彼は思わず安堵の溜息をついた。博士はおそらくこの物置に入ったことなどなかったのだろう。この物置はこの館の昔の住人が住んでいた時のままであるのだろうと、埃や蜘蛛の巣の量から彼は想像した。鍵でもかけたままになっていたのだろうが、あまりに老朽したために立て付けが悪くなったかどうかして、扉が開いてしまっていたのだろう。

「さあ、もう袋のねずみだ。もう逃げられない。おとなしくこっちを向くがいい」

ラウルは降参した、という風にうなだれたまま、腹這いの状態からゆっくり身を起こしかけた。博士のところからは、彼の背中が見えるだけだった。彼はちょうど顔と同じ位の大きさの鏡を仮面のように顔に押し付けていたが、ゴルゴン博士はそのことに気が付かなかった。

「そら、こっちを見ろ!」

勝ち誇った声で博士が叫んだその時、ラウルは鏡を仮面のように押し当てた顔をぐるっと博士の方へ向けた。その瞬間、恐ろしいことが起こった。叫び声をあげる暇さえなかった。博士は自分の顔を見てしまったのだ。

突然、出来上がった異様な静けさによって、ラウルは何が起こったのかを知った。彼は意外なほど落ち着いていた。不動の物体となったものの脇をすり抜けて再び屋根裏部屋へ入ると、彼は呪われた望遠鏡を窓から地上へと叩きつけた。そして床から博士がはぎ取った頭巾を拾い上げると、物置へ戻った。

石像と化した人々の仇はとったのだ、と呟くと、彼は新たに石像となった男の背に一瞥をくれ、その頭に頭巾をかぶせた。石像と化してもはや魔力を失ったゴルゴン博士の顔を、彼は見てみようともしなかった。

きしむ階段を下りる彼の心には、博士への哀れみがあった。


(了)




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