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前編

見渡す限りの樹海が、地の果てへの雄叫びのようにうねっていた。すでに日は落ち、非常な速足を持つ闇が木々とやがて協定を結ぶ頃だ。

屋根裏部屋の窓から、ラウルはこの樹海を一日中眺めて過ごしていた。二か月前にこの部屋に引っ越してきて以来、彼の視界はいつも変わらぬ木々の波に覆われていた。そこは街から遠く離れ、人家もまばらでただ木々だけが村落を作っている僻地だった。

ラウルがそんなところに住むようになったのは、街の生活に愛想をつかしたからということもあったし、部屋代がただ同然の安さだからでもあった。彼のような貧乏詩人にはそれは大層ありがたいことだった。もっとも詩人というのは名ばかりで、言葉と夢が雲のように通り抜けていくだけの彼の毎日は、人々に言わせれば無為だった。

屋根裏部屋は黴臭く、憂鬱が住み着いていた。けれどもラウルは窓からの眺めがとても気に入った。そして、朝から晩まで歌とも話とも論争ともつかない木々のざわめきを聞いていた。

ここいら一帯は祟られているといううわさがあった。何か邪教めいた薄気味悪さが漂っており、ことに夜になると、悪魔だの物の怪だの吸血鬼と言った存在が途方もなくリアルに感じられてくるのだった。

その不気味さを裏付けるような事実があった。この屋根裏部屋には以前、ザリーニという男が住んでいたのだが、三か月ほど前に突然、失踪したのである。どこへ行ったのか、そして生きているのか死んだのか、誰にも分らない。

ザリーニはラウルの顔見知り程度の知人で、アルコール中毒者だった。ザリーニの所持品が何もかもそのままになっている部屋を見まわし、ラウルは友人の身に一体何が起こったのかと考えた。すでに二か月がたち、この部屋はもうすっかりラウルのものだ。ラウルの呼吸になじみ、彼の習慣に染まり、彼のシガレットの味を覚えた部屋だ。

棚にはブランデーやジンの壜があったが、ラウルは酒を飲まないので、酒精は部屋から追い払われていた。彼の失踪の謎がわかるかもしれないと思って、ザリーニのノートや本などを調べてみたが、何も手掛かりはなかった。おそらくザリーニは酒におぼれた毎日を送っていたのだろう。


夜というもう一つの個性に照らされ、木々は浮かび上がっていた。

そこには神秘なものへの変貌の空間があった。

ラウルは息をひそめて、鬱蒼たる木々の群れを見守っていた。彼は昼間の絵に描いたような木々よりも、常識の及ばない何ものかに変身する夜の木々のほうが好きだった。

夜の樹林は彼の体内に注射液のように興奮を注ぐ。もはや形という柵では囲えなくなった木々は、闇の中の無法者となり、呪文のように暴れ始める。木々の世界に言葉も時間も音もたてずに沈む。

彼は突然、あっと叫んだ。溶け合った闇と木々の一点に、灯りが揺らめいたのだ。何の灯りだろう。木々が自ら身をくねらせて風の相手をするたびに、ちらちらと見える灯り。まるで難破船の断末魔の灯りのようだ。

これまでラウルは、この窓から見える眺めの中に人家があるとは思っていなかった。木々の鎖を解き放つ夜の中に灯りがちらついたことは、一度もなかったのである。少なくとも彼が眺めている間には。しかし今、闇の片隅に囚われの姫君のように光っているあの灯りは、家の灯りであるに違いない。

何を思いついたのか、彼は窓際を離れると机の引き出しを開け、中から何かを取り出した。再び窓へと歩み寄った彼の手には、双眼鏡があった。二、三日前、ザリーニの残していった上着のポケットの中に見つけたものだった。どこまで見渡しても木々ばかりなのだから使う必要もないと思っていたのだったが、今、それはあの灯りの正体を突き止めるのに最適なものだった。

灯りはやはり、人家から出ているのだった。闇に飲まれた古い館(闇から生まれたかのようだ)四角い窓、闇と同系色のカーテン、そして……。ラウルは驚きのあまり双眼鏡から目を離した。すると灯りは再び遠ざかり、小指の先で消せるほどの小さな点となった。

闇の遠近のわからぬどこかを、コウモリがかすめ過ぎた。

もう一度双眼鏡に目を当てて彼は見た。よそよそしい灯りの窓の陰に、かろうじて形を保っているものを。それは、そのいぶし銀色の筒先を、まっすぐに彼の方に向けていた。

そんな馬鹿な!

彼の神経に不快な思いが侵入してきた。木々の陰に身を隠して今まで彼の目に留まりもしなかった館の窓辺に望遠鏡が据えられ、しかもその筒先がまっすぐに彼の方に向けられていようとは!彼ののどに胃液のように苦々しいものがこみ上げた。

彼のいる屋根裏部には、日中でもランプが灯っていた。それは部屋が薄暗いからだったが、そのランプの灯りは今、夜の闇の中で生命力を増し、彼の部屋を煌々と照らし出していた。

彼は急いでランプを吹き消したが、すでに手遅れであることは疑いなかった。この二か月の間、この部屋はカーテンも鎧戸もなく全くの無防備のまま、闇の中に自らの姿をさらしていたのである。木々の陰に館があるなどとは露知らず。あの窓辺の望遠鏡は、夜行性動物のような目を開いてずっと彼の部屋を見つめていたのだろうか。屋根裏の貧乏詩人の中身のない一日を観察していたのだろうか。

ラウルがランプを消して間もなく、館の灯りは2、3度点滅して消えた。彼はその灯りを憎んだ。灯りの中の異端者のような、好ましくない灯り。

闇が彼を彼自身の想いの中に押し込めた。彼は目を閉ざし、安心できるものだけを脳裏に導き入れようとした。しかし、あの望遠鏡が深い眼窩の底に不快な視線を忍ばせて、彼の方へ首を伸ばしてくるのだ。彼を見世物にし、彼の無為をからかおうと…。

侮辱だ、ひどい侮辱だ、と彼は呟いた。彼は自分のこれまでの生活を反芻してみた。窓辺の椅子に腰をかけ、木々の波間に意識を落として、空想の馭者に鞭打たせるのだった。空想には翼が映え、自由奔放に駆け回る。彼はそれを「空想の放牧」と呼んでいた。空想をその本性のままに広げるには、多くの時間と空間が必要なのである。

街にいた時には時間も空間も他人によって邪魔されて、思うように「空想の放牧」ができなかったが、ここに来てからは邪魔するものもなく、彼の空想は一日中檻を離れて駆け回っていたのだった。空想にふけっている彼の様子は、はたから見れば呆けた感じがするに違いない。もしあの望遠鏡がそんな彼の様子を見ていたのであれば。

侮辱だ!

ラウルは目を見開いて叫んだ。屋根裏部屋全体がそれに同調し闇に向かって叫びを放とうとしたが、虚空に居座った闇には所詮歯が立たない。

夜の木々はその間も、夜特有の成長を続けていた。


「じゃあ、あの館のことを知っているんですね?」

ラウルは耄碌して耳の遠くなった老人に向かって声を張り上げた。その老人は、彼が間借りしている家の主人だった。たった一人でこんな僻地の古びた家に住み、屋根裏を貸しているのだった。息子が時々街から来るという話だが、この二か月というもの、息子どころか誰一人としてこの老人のところに訪ねてこなかった。

老人の話は、もう一度頭の中で組み立て直してみないと訳が分からなかった。その話によると、あの館には奇妙な博士が住んでいるということだった。名はゴルゴンといい、人々に怖れられていて、誰もあの館に寄り付こうとしないそうだ。不気味な奥深さを持つ樹林の魔性と神秘とが、その博士のところから流れてくるとでもいうようだった。

ゴルゴン博士は、魔術師だの錬金術師だのと噂されていた。博士の館へ入った者は、二度とそこから出てこられないということだった。以前、無鉄砲な若者が、博士の化けの皮を剥いでやると息巻いて館へ入っていったが、そのまま戻ってこなかったらしい。

老人はゴルゴン博士の名を口にするのさえ怖いらしく、哀れなくらい震え上がっていた。この地方では、迷信が鬱蒼たる木々の力を借りて支配者のように君臨している。ラウルの旺盛な空想力は、迷信に尻込みはしなかった。彼は、迷信の源であるゴルゴン博士の館に興味を持った。


昼の日差しの中の樹海へと、ラウルは双眼鏡を向けた。陽光の明るさをかなり損なっている木々は、投げやりに風に身を任せていた。ゴルゴン博士の館は、双眼鏡の中にどっしりと納まった。それは石造の古い館で、壁はまるでそうなることを望んだかのように、一面蔦に蔽いつくされていた。そして、屋根はそっくり木の葉と同じ色だった。

なるほど、それで館のあることに今まで気が付かなかったのかと、ラウルは呟いた。

窓辺にはやはり望遠鏡があった。部屋の奥の方は薄暗くて何も見えず、望遠鏡だけが部屋から独立して外を眺めているように見えた。ゴルゴン博士はあの部屋の奥に蠢いているのか、それとも樹林の中を自分の庭のように歩き回っているのか。

この地方の人々の迷信と恐怖の対象になっているゴルゴン博士とザリーニの失踪とが、何か関係しているように彼には思われた。失踪した日、ザリーニは激昂しているようだったと、さっきの老人は言っていた。ザリーニのポケットにあった双眼鏡…。彼もまた自分と同じものを見たのだとすれば、とラウルは考えた。


(続く)


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