作者による解説 in 2021
この脚本を書いたのは、中学3年終わりから高校1年にかけてのことだ(気が付けばもう10年近く経っている…)。この脚本の公開には非常に強い葛藤があった。予ねてより公開を求める声は多々あり喜ぶ人がいるだろう反面、同じぐらい不愉快になった方もおられるだろう。利用規約抵触だと物言いがついて事前警告すらもなく削除されるかもしれない。とはいえ永久封印で検証すらされないというのに抵抗を覚えるのも事実で、ひとまず衆目に晒してみることとしよう。当時の状況その他諸々を率直に書けば、後はなるようになるだけである。
(なおこの解説文を手直ししている2021年11月現在、2018年10月に脚本を『なろう』に公開してから丸3年が経過するも批判・警告・脅迫・抗議・ほか運営判断による予告なしの削除等といった事態はこの間、一切発生していない)
改めて経緯を紹介すると、本作は自主怪獣映画「レドラ」シリーズ完結編として企画され2009年に制作が開始、約1年後に制作中止となった「レドラ3 THE RIVIVING MIND」の脚本として書かれたものである。制作中止までに完成していた映像約1時間分(脚本的には全体の半分程度)はYouTubeにて公開されている。
《完成分の映像集》
https://www.youtube.com/watch?v=6Yqb25A1SwU&t=0s&index=2&list=PLD13FFD147AB0C941
過去資料を発掘したところ、最初のあらすじ執筆が2008年4月、完成形になったのが同年11月だった模様。脚本第1稿完成が2009年の1月初旬でそこから修正かけつつ映像化を開始、2010年5月に制作中止であるから、丸2年がかりのプロジェクトだった。それまでの作品はどんな長編も企画・脚本・映像化に半年以上かけたことが無かったため、単純計算でも過去作品の4倍近い時間と労力をかけて作っていたことが判る。
本作が制作中止となった理由は多々あるが、主たるものを挙げると、
①主役のレドラが活躍する場面の撮影を後回しにしてしまったこと。
②劇中で扱った問題が高校生が取り組むには重たく複雑すぎたこと。
③どんな展開にしても黒幕の救済シーンがご都合主義にしか思えなかったこと。
……などで破綻をきたしてしまったことがある。
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<①主役のレドラが活躍する場面の撮影を後回しにしてしまったこと>
完成済みシーンを見ればご理解いただけるだろうが、主役怪獣レドラの活躍場面は最後までほぼ一切形になっていない(絵コンテは完成済み)。これは実物のレゴブロックを操作するだけの特撮表現に限界を感じており、怪獣同士のバトルシーンのみ、当時協力関係にあった十歳ほど年上のクリエイターの方にCGで担当して貰う予定になっていたからだ。実際、御覧の通りモデル自体はかなり高クオリティであり公開済みシーンのひとつ『UFOの攻撃』等を観れば、完成度もおのずと想像できるだろう。
ところが、本人は予ねてより自身の技術に納得していなかったらしい。今でも嫌という程よく覚えているが2010年の2月頃(制作中止発表の3ヶ月前)に突然『新たなる門出』と題したメールが届き、要約すれば「クオリティアップ修行に入るから当面は自分で頑張って下さい」ということだった。事実上いきなり投げ出されてしまい、途方に暮れる羽目となったのだ。新たなる門出て…。
同じCGソフトを使っていたためCGモデル自体は一式丸ごと送って貰えたが、所詮一般向けPCでは複雑なモデルもモーションもフリーズ連発でほぼ動かせず、そもそもレゴ撮影のシーンのみでスケジュールが破綻気味だったため「こりゃとても無理だ」と早々に挫折。主役が活躍する重要なシーンを丸投げしていた自分にも非はあるのだが、この一件は相当堪えることになった。
なお翌年以降のリメイク版でも、この唐突な『新たなる門出』現象は際限なく繰り返されていく…。
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<②劇中で扱った問題が高校生が取り組むには重たく複雑すぎたこと>
題材が過度に重たい上に政治的、という難点は開始当初から足を引っ張っていた。そもそも何故こんな内容かというと、動機は単純で『日本にばかり怪獣が出る理由は?』→『怪獣作った奴が何かしら日本に怨みがあるからでは?』→『この際自分が小中学校で目撃した醜い人間の姿をあらかた詰め込んでしまえ』という発想のリレーからだった。安直な…。
実際やってみれば想像だにしなかった重たさで苦戦する羽目に。たとえば作中における「人種差別」描写。脚本の末尾に短期間で5~6稿重ねているような記述があるが、実際は撮影やアフレコ毎にシーン単位で状況や台詞の変更が繰り返されており、それらも含めると実際はこの数倍書き直していたと思われる。作中前半だけでさえそれだから、物語を進めれば進めるほど無理に無理が重なってくる始末。
政治問題が絡んでくるシーンも、あくまで「中学三年当時の自分から見えていたもの」で、今見るとニュースや教科書の内容をそのまま真に受けた印象の部分も多い。早い話かなり左側に偏ってる印象である(場面次第で真逆のケースもあるが)。今思えばネット社会に未熟な学生のよくあるやらかしだが、当時は政治問題で世間が騒いでいる内容にブログで何か意見を書くと、その度に右側の人達がわらわらと集まって来てタコ殴りにされることが多く、事の真偽はともかく率直に言って当時この手の集団に全く良い印象がなかった。
一方で同時期、自分の大好きだった某怪獣映画が『自衛隊が主役級の活躍をした』だけで公開すらもされないうちから誹謗中傷された事件を知って左側にも反感が芽生えており、もう政治が絡むと頭に血がのぼって会話の成立しなくなる人達が尽くみんな嫌いだった。
ところが自分の見聞きしたことを手あたり次第物語に組み込んだら、結果的に『左翼超大作!』みたくなってしまい、政治主張のための作品のつもりが一切なかった(少なくとももっと素朴なことを描いていたハズだった)自分としては、時間が経つ程違和感の拭えないものとなっていってしまった。
シチュエーション自体も無理があり、第一稿の時点から『この話が成り立つなら、世界中でいじめを動機にしたテロが頻発しているハズでは?』と言われていた。そもそも未来からUFO型タイムマシンで日本滅亡を企む存在がやってくるのは明らかに『ゴジラVSキングギドラ』の丸パクリだ(苦笑) あの映画はオカルトネタを全開にした(しかも日本が今とは比じゃないほど豊かだった時代の)エンタメ映画だからそれでも成立したが、こっちは題材が重すぎて破綻をきたしたらアウトなのだ。
リメイク版小説『真・烈怒龍』やスランプ期の小説群全般にいえるが、この時期の自分は何かというと人物の背景事情に「いじめ問題」ばかり持ち出している。知っている世界が狭くてそれ以外引き出しが無かった証左とも言えるけが、見方を変えれば10代後半の人間にはそれだけ重大問題だったとも言える。
当時よく創作の相談していた人たちの中に30代の評論家系のオジサンがいて、自分も過去にいじめられたことを引き合いに出し「現実に絶望するのは視野が狭い証拠です!」などと口癖のように言っていた(何なら商業作品のキャッチコピーにまで難癖つけていた)が、正直そんな上から目線の正論で解決するなら誰もこんなに苦しまないだろうと思う。共感を求めて吐露した相手に尤もらしい理屈ばかりぶって押さえつけ片付けてしまうのは、単なる自己満足ではないのか(後から思えばだが、このオジサンは何かというと『未熟で視野の狭い若者を年長者がパニッシュする』話ばかり好んで作っていたように思う。完全にオジサンの自己満足説教癖である)。
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迷走を極めていたこの脚本だが、具体的には第1稿完成直後から計3人に意見を求めて度々調整を繰り返していた。一人は件の評論家系オジサン、もう一人は例のCG担当の人、そして最後の一人は「レドラ2」制作中に仲良くなった同級生男子・仮称Mくん。社会人ふたりに同世代ひとり、年代的には十代・二十代・三十代からそれぞれ一人ずつで人間的タイプも違うから、意見を集める相手としてはバランスが取れていた…と最近まで思っていた。
だが実のところ、この「同級生男子Mくん」の言動も結構自分にダメージを与えていた。
本作の話をするたび言ってきたことだが、中三当時、自分の周囲には日常的な光景としていじめが存在していた。中でも恒常的だったのが、とあるふたりの知的障碍者である同級生へのいじめ。
比較的重度の子と、比較的軽度の子がいて、後者の子などは会話が普通に成立するぶん感情の起伏が激しいのを口実に頻繁にいじめっ子たちが暴力の標的にすることを正当化していた。誰がどう見ても穏当なやり取りでないから担任や学年主任が頻繁に仲裁したり、学級会の議題になったりしていた。主犯格は明確だったから、教師陣が名指しで非難することさえもあった。ところがそれでもひたすら繰り返され続けた。
因縁をつける→怒る→それを理由に暴力を振るう→仲裁→別の因縁をつける→怒る→それを理由に暴力を振るう→仲裁→また別の因縁をつける→怒る→それを理由に暴力を振るう…
これが半永久的にループする。結局どんな理由を訊いてそれを取り除いたところで、彼らは手を替え品を替え標的を煽り立て、次から次へと新しい「理由」をひねり出しては何が何でも面白半分で暴力を振るい続ける。年がら年中それをやっている。頭がおかしいとしか思えなかった。振り返ってみれば理由など最初から存在しないのではないか。一体何が楽しいのかまるで理解出来なかった。そういう疑問が、本作の会話劇等に反映されている。
先程自虐も込めて本作を『左翼超大作』と書いたが、実際小学校時代に延々いじめられて過ごしてきた人間が、中学へ上がったら今度は周囲でこんな光景ばかり目の当たりにし、そんな矢先に「日本人は閉鎖的で差別的だ!」という主張を目の当りにしてどう反論の材料を見出せばよかったのか? 少なくとも、実際に周囲が理解不能なバケモノまみれだった自分には見出すことが出来なかった。
今俯瞰的に振り返っても尚理解しがたいのだから、当時の自分に解決策など見いだせたハズもない。いくら身近とはいえ、俯瞰できない事物をテーマにしてしまった時点で詰んでいたようなものだ。
こうした流れである時「部落差別」を扱った授業に触れ(確か道徳の授業中に啓発アニメを視聴したのだと記憶している)、そこで知った話に憤慨してこれまた作中に組み込もうとした訳だが、これに至ってはある意味人種差別以上にセンシティブすぎたため、制作中止した後にまで更なるトラブルを誘発する羽目になっていく…。
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<③どんな展開にしても黒幕の救済シーンがご都合主義にしか思えなかったこと>
こうした経緯を経て辿り着いたのがこの結論。そもそも本作のみならず『レドラ』で本来やりたかったこととは、自分がカッコいいと思うヒーロー=怪獣の姿を描くことだった。何を考えてるか分からないけど、ひたすら弱い存在の盾になって身を投げ出しボロボロになり続けるような、そんな存在。尚且つ前年の作品では「人間性=心の宿ったものなら、人もロボットも関係なく守る」という一定の行動原理が決まっており、ここまでなら素朴だが良質のファンタジーで終われた。
ところが自分の周囲に実際にいた人間、見聞きした物事、その大半が人間味を感じないバケモノめいた奴ばかりだったことから、何を以て人間と動物を隔てるの?とか、心無い人間(=端的に言うと人をリンチしてゲラゲラ笑ってる連中)まで人間扱いする必要あるの?などの根源的な疑問に繋がってしまった。
勿論こういう問いは商業作品でも時々描かれるし、それに対してヒーローがポジティブな返答をするのが定番パターンな訳だが、自分の失敗はそれに対し回答を持たないまま作ってしまったことだ。正確には自分なりの回答をしようと(=結論ありきで作ろうと)努めてはいるが、現実世界で解決出来なかった問題を組み込みすぎた所為で、自分自身が「嘘くさい」と感じ始めてしまった。
作中ラストでは「巨大な光の翼でジェームズを包み込み、穏やかな気持ちにさせて昇天させる」という描き方だが、自分で書いておきながらこの当時の心境としては、これだけ生々しくやっておいて今更こんなファンタジーな手段で解決できて堪るか!というものだった。
なお後年、大学でウルトラシリーズ好きの友人に本作の完成済み映像を見せる機会があったのだが、黒幕の回想扱いで描いた主観カットの「いじめシーン」を観て真っ先に興奮気味の彼に言われたのが「君は絶対に新マンの『怪獣使いと少年』を観るべきだよ!」だった(昭和ウルトラは当時ほぼ未見だったので)。
自分は、現実世界で見聞きするも解決手段を見つけられなかった問題をそのままぶち込んでおいて、ファンタジーな手段で解決しようとする嘘が恥ずかしくなってしまった。少なくともこの結末を死守するなら、描く問題自体もファンタジーな事物(架空設定のマイノリティなど)に設定するか、少なくとも自分が解決手段を俯瞰的に示せるものにすべきだった。しかし当時の僕にはその線引きが出来なかったばかりでなく、醜い人々の描写はあくまでも主役(あるいは人間賛歌的なメインテーマ)を引き立たせるための従属物で、本来の目的が「主役怪獣の活躍を描きたい」だということに気付くことさえも出来なかった。それらが最大の失敗だ。
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話は戻るが、例の知的障碍者の子をいじめる集団の中に、本作の脚本にも意見を求めた同級生男子のMくんがいた。そう、笑えることに反差別・反いじめを掲げるこの作品に積極的に関わってくれていた友人が、寄りにも寄って僕が一番嫌悪する行為に積極的に関わっていた張本人だった。彼とはSFアニメ好きという部分で仲良くなった経緯があるので、そもそも人間性へのこだわりなんて持ってなかったのかもしれないが。
忘れられない出来事がある。本作の脚本第1稿だったか完成目前のあらすじだったか定かでないが、完成が近づいたシナリオをMくんに送って意見を求めたところ「このままじゃ、いじめが無くならないってことを示唆してるなぁ」などと割と真面目な返信が来て、想いが伝わったのかなと安心したその翌日、学校ではいつも通りの挑発→口実を作って蹴り飛ばすという一連のアクションにMもヘラヘラ笑いながら参加していて、「おまえ昨日俺に言った台詞なんだったんだよ!?」と愕然とさせられた。同時に「俺が作ってるドラマなんか何の意味もねーじゃねーか!」と非常に悔しさというか強い無力感を覚えたのを記憶している。
この『現実に対するフィクションの無力さ』というのは、その後も別の体験で繰り返し補強されることになってしまうのだが、それについては語り出すとまた長くなるため、別のアーカイブの解説文を参照されたし。
(本作の脚本修正を振り返ると結局、幅広い人間に意見を求めたつもりでいて、①説教癖のある自己満足ハラスメントおじさん、②心の旅に出てしまい職務を投げ出しまくる逃避癖の人、③陰険で執拗ないじめ加害者なのに当事者意識皆無な同級生、という酷すぎるラインナップだったのだ。こんな具合では完成するものも完成するまい。まあ②の人に関してだけは別側面では大恩人だったりするし、本作破綻後真っ先に心配してくれた人だったりするのだけれど。やっぱり再三の投げ出しについては文句を言いたくなってくる)
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とにかくこうした有形無形問わない無理の山積によって「もう無理だ!」となり、制作中止発表をしたのが2010年5月のこと。当時発表を出した直後、一人で非常に泣いた記憶がある。不出来とはいえ当時の自分なりに全精力傾けてやっていたのだろう。間の悪いことにこの時期を境目に高校のクラス内でのいじめや家庭内での母親からの虐待などが表面化・本格化し、その影響なのか視界は色褪せるわ味覚は弱るわ、挙句に幻聴が聞こえ出すわでガチの精神ズタズタ状態に陥ってそれが数年に渡って続いていく羽目となる。
ある意味その前哨戦ともいえる出来事があった。本作にまつわるエピソードのオチである。
制作中止発表から3日後、既に紹介した完成済み映像集をまとめてYouTubeに公開した。しばらくは何も起きなかったが、約2週間後に次の様な書き込みが当時のサイトの掲示板にあった。既にちょっとだけ触れたが、「部落差別」を描いたシーンへの物言いだ。
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絶対にいけません 投稿者:レドラファン 投稿日:2010/05/28(Fri) 14:29 No.788
レドラ3の制作が中止になったなんて・・・・・・・。
というよりも学校で何か言われたんじゃないですか?そうでしょ?
それにしても「団地の片隅で」っていう動画は本当によくないですよ。ああいったことを動画にしてアップしていること自体が差別を助長していますしデリケートな問題をレゴでやるなんて許せません。本当に怒りしか沸いてこない。あの動画と関連の記事をメールで一斉送信させていただきました。ああいうことは本来ならばちゃんとした状態でなければ触れてはいけないことなのです。本名や身分を明らかにした上で触れるならともかく。
今後はしっかりと考えた上で行動してください。
Re: 絶対にいけません レドラファン - 2010/05/30(Sun) 23:27 No.794
そうですか。わかりました。
しかしああいった問題を匿名で責任を取りきれない状態で
インターネットにアップロードすることが問題なのです。
媒体など問題ではありません。小説ならば作家としての地位や名誉を責任の対象としますし、実写なら顔や発言がそのまま責任の対象になります。しかしあなたの作品はどうですか?何かを責任の対象にしていますか?言っては悪いけどあの問題は簡単な動機で扱っていけない問題なんですよ?
この国の歴史や文化が厚く重なった問題なのです。あなたの行った行為は差別を助長していることにお気づきですか?
それからメールはあなたに送信したわけではなく関係各者に送信いたしました。
Re: 絶対にいけません レドラファン - 2010/05/31(Mon) 16:25 No.796
あなたは責任を請け負うと言っているのか、責任など請け負わないいちいち文句を言うな、と言っているのかわかりません。シビアと言われますが「いじめ」や「荒し」などという問題と同和問題を一緒に考えておられますがそれは大間違いです。ネット等で諸問題について調べることをお勧めします。解放同盟や解放連合など知ってますか?
それが「作風」というなら別にいいです。同和問題を取り扱っている作家や著名人は多数いますがどれも非常にデリケート且つ慎重に扱っていますよ。社会派を気取るのもいいですがほどほどということを忘れないことです。
あなたの動画を関係者に見せたところ「あまりよくない」と言っておられました。あなたは差別助長ではないと言われますが、この現実はどう受け止めますか?2ちゃんでも話題ですよ。
Re: 絶対にいけません レドラファン - 2010/05/31(Mon) 22:40 No.799
では責任はおとりになるということでよろしいのですね。
ああいった内容のものを公開しているということはそれなりのアクションがあるということも考えておいたほうがいいでしょう。世の中いい人ばかりではないですから。
私ならあの動画だけでも削除しますがね。
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後にも先にも本作に対して明確に批判的なコメントがあったのはこの一件のみなのだが、このたった一件が個人的には7~8年近く引きずり続けるトラウマとなってしまった。ある程度、俯瞰的に見られるようになったのは本当にごく最近のことである。
「複雑な問題を軽率に扱っている!」という言い分は、正論だと思う。当時の認識としては『生まれた土地を理由に迫害が起きるなんて』という純粋な憤慨が最初にあり、それがいじめ加害者の掲げる『根拠』が四六時中変遷することへの不可解さとミックスされて、「いったん標的を定めたら加害者にとって本当は理由なんて何でも構わないんじゃないの?」という問いかけの一部になっている。
状況を余計にややこしくしたのは、脚本上では『差別が行われる場面』の後に『差別の起源について言及する場面』を挿入しバランスを取るよう構成しているのに、実際に公開されたのが前者のシーンのみだったことだ。それが、差別の根っこも知らずに言及するな、という批判を誘発してしまった可能性がある。
実のところ本作には、撮影・アフレコ・編集まで終えて完成状態にしたにも拘わらずお蔵入りさせた未公開映像が14分近くある。黒幕Drジェームズが主人公に向かって日本人全般を罵倒するシーン、主人公が故郷の飲み屋で知人と差別やいじめ問題について会話するシーン、そしてこの批判投書があった後にカットした「部落差別」シーンの計3つだ。要は政治的になってしまいそうなシーンを大概自主封印しているのだ(10年経ってもデータ自体は手元に残っているが)。
作中で「部落差別の原型を作ったのは徳川家康」と語る場面があるが、これは当時学校で習った知識として『江戸時代に封建制度が確立し、穢多非人という身分が農民の下に作られた。それが部落差別の原型』というものがあり、それに基づいている。改めて調べ直すといわゆる『穢れ』概念も絡む宗教的な偏見・迷信も含んだ差別ということだったので、劇中の言及も今見ると一面的ではある(海外の事例等でいえばインドで悪名高い『カースト差別』が比較的近い印象を受ける)が、この『起源言及シーン』があるか無いかでは、批判されたシーンの印象も少しぐらい変わっていたのではないだろうか。結局のところ、部落差別というのは大雑把に他の問題とくくって一般化・普遍化して語るのが難しい、特有の問題だったのだ。その意味では確かに作中の使い方はあまりに乱暴だし、批判を呼ぶ可能性は元々極めて高かったといえる。
しかし当時の公開・非公開の判断基準としては、『差別シーン』は少なくとも加害者側が直後に怪獣にむごたらしく殺される形で制裁されているから大丈夫だろう…という理由で公開され、『起源言及シーン』は政治性が強い上にひげ面のオッサンたちが飲み屋で繰り広げる会話ではないだろう…という理由で非公開になっている。思えば気にすることがズレている。けれど当時は本当に、大真面目にそう考えてのことだった。
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このような訳で基本的にはこちらの落ち度なのだが、全面的に向こうの主張に納得できたのか?といえば正直そうでもない。7~8年近くもこの件を引きずってしまったのは、向こうの主張の仕方にもそれ相応にモヤモヤする部分が満載だったからである。
例えば『レドラファン』という名義や「動画と関連の記事をメールで一斉送信」などの諸々の表現に顕著だが、結局この批判者は何処の誰さんで、何をどうしたのか、その後ろ盾とか背後関係といった何もかもについての具体的説明一切が、ぬけ落ちているか一貫性を欠いているのである。もっとハッキリ言えば、怒りと義憤が先走るあまり本人の中だけで話が完結・納得してしまっていて、こっちとのコミュニケーションが成立していない。この批判者の発言で一貫して伝わったのは、①同和問題への言及が勉強不足かつ差別助長で許されない。②『関係者』に連絡した。この二点だけである。
①に関しては先述した通りなのでもはや反論すべくもない。確かに自分には反省すべき点があった。けれども②の『関係者』とは具体的に何処の誰なのか?当事者団体なのか?社会運動家なのか?仮にいずれかとして名前は?アドレスは?そうした説明は皆無だった。要は批判者さんが何処の誰で何を後ろ盾にこんな強い態度に出ているのか、それすらも終始不明だった。
あまりゴチャゴチャ反論ばかりすると居直ってると思われてしまうかもしれないが、実は当時自分のサイトはトップページに堂々とメールアドレスを公開していて、何かトラブル等が起きればそこ宛に暴言や嫌がらせメールが来るような事態も日常茶飯事だった(匿名云々と批判されているがメールを一通やり取りすれば自分の本名がすぐ分かってしまうような有様だった)。
また動画公開からこのコメントが届くまでには2週間近くのタイムラグがあったのだが、SNSでの炎上などが本格化していなかった時代とはいえ、あのシーンがそれほど倫理的にヤバい場面と大勢に認識されたのであれば、動画のコメント欄なり自分のメールアドレスなりに、もっと正式な抗議か、より大量の批判が殺到しておかしくなかったのではないか。だがそうしたことは起きなかった。削除までを含めると大体3~4週間表に出ていたことになるが、後にも先にも批判はこの一件のみであった(繰り返すが、この解説文を手直ししている2021年11月現在、2018年10月に脚本を『なろう』に公開してから丸3年が経過するも批判・警告・脅迫・抗議・ほか運営判断による予告なしの削除等といった事態は一切発生していない)。
正直『扱い方に問題点があった』のは自分から見ても間違いないと思う。一方で(母数の問題もあるだろうが)それほどに深刻かつ重大で直ちに対処すべき問題だ、とどの程度の人間が認識したのかについては議論の余地はあると思う。実際、この批判者さん以外は当時の動画にせよ、この脚本にせよ現実として、今日まで誰からも何らのアクションもアクセスも発生してないのだから。そもそも、ちゃんとした根拠と後ろ盾の持ち主が「2ちゃんでも話題」なんて脅し方をするのだろうか?
だが結果として、当時の自分は疲れ切ってしまっており二、三度やり取りしたらそれ以上戦う気力も起きなくなり「該当シーンだけ削除すれば問題ないんですか?」との問いかけにも返事すらなく、何もかもに嫌気が差した自分はそこだけを削除し再アップしてそれっきりおしまいとなった。
主語が大きく匿名性の極度に高い個人から殆んど一方的に糾弾・断罪されるのみならず、存在すら曖昧なやたら大きい背後関係をチラつかされ「逆らったらどんな目に遭っても保証できない」とでもいう脅しに屈するかたちで作品の一部を削除させられる、という経験は半ば自業自得の側面があったとはいえ、当時10代半ばの自分にとっては凄まじいトラウマとなった。
(ただしこうした反論が出てくる点から見ても、自分にとっては何処かで正当化したいという考えが当事者に寄り添う使命よりも上回ってしまっているのは想像に難くなく、身近に当事者もいないのに学校の授業で知って憤慨した程度の動機で言及した背景を思えばどの道、自分に扱う資格のある問題ではなかったということだし、義憤か正義感あたりから脅迫まがいの態度へと発展していった本件の批判者と本質的には大差がないのだろう。)
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…等々、こうした数々の事情により「レドラ3」完全版は脚本レベルですら制作中止後10年に渡って封印されることになったのである。早い話が何から何までトラウマだったのだ。ファンの方は知りたくなかった真相も知ってしまったかもしれません。色々と申し訳ない。
最後に第五部分として掲載されている歌詞は、本作の主題歌として自分が当時作詞したもの。あまりど直球というか臭いフレーズのオンパレードがこっ恥ずかしく(端的に言って小学生のポエムである)人前に晒していなかったのだが、改めて読み返すと本作制作時の感情が一番シンプルに表出されている気がして、いい機会なので公開状態にした。制作スタッフに作曲の出来る人物がおり、彼に頼んで作って貰ったメロディーはYouTubeの再生リストの中にも入っている。
歌唱は女声を想定していたが、当時女友達が一人もいなかったため未だに実際に歌われたことはない…初音ミクとかが使えたら良かったかもしれない。なおメロディーだけは、作曲した本人がピアノの演奏会で課題に流用したとのこと。
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2023.12追記
本シナリオを公に掲載し続ける意味はなんだろうか?と時々ぶり返したように考え込むときがある。執筆は中高生時代で15年前、全文掲載したのが5年前、その間『トラブル』は15年前ただ一件のみで不完全な内容に基づくもの。学生時代の作品かつ商業物ではない、ただ一件のトラブルは人権倫理を巡るもので安易な黙殺は憚られる、だが警告通報を主張したのは背景不明瞭な一個人、正論であるが殆んど頭ごなし。批判する側もされる側も具体性(当事者性)が不明瞭な状態で云々される『責任』とは誰に対する何を要求するものなのか……。
あくまで今思えばだが、本シナリオは中高生には解決不可能な課題に(しかも実質単身)取り組んだ結果書かれたいわば道徳の作文・感想文・私小説で、しかも本来の位置づけは特撮怪獣映画(それもブロック玩具による自主制作モーションアニメ)のドラマ部分でしかないから、目的が途中からよく分からなくなって傍目に支離滅裂になってしまったのだ。
加えて本作中の『差別』はつまり、下品で露悪的な暴言暴力を見境なく一個人に浴びせかける行為、かつ行為を続けるため理由自体が無限にでっち上げられ続ける(提示された解決策=ゴールポストがひたすら動き回る)法則持ちという、執筆当時自分の生活環境と社会に実在したグロテスクな光景をほぼそのまま再現したものがその定義だった。
だが批判者の論理はつまり、厳密な事実と異なる言説を広めた=差別への加担という定義で、しかもシナリオの位置づけが上記通りだから「こんなおふざけによくも軽々しく使いやがって!」とぼくを差別者認定したのだろう。前提そのものが全く噛み合っていなかったのだ。
後に色々調べた身で思うと、確かに本作の『差別』は解像度がやや低いと言わざるを得ない。しかし劇中描写の大半は、制作当時実際に目撃した心痛極まるあらゆる光景のミキシングビルドであって、鬱状態に陥るほど自分を追い詰めて作っていた関係上「面白半分で悪ふざけしていた」訳では決してないことだけは明言しておきたい。繰り返すように解像度は低いけど(具体的名称を色々出した割にオンリーワンでなくワンオブゼムという扱いなのがそれを象徴しているように思う)。
結局本作最大の失敗は、単に解像度が低いということ以上に、その描写がシナリオ上ではどのような位置づけなのか、全体像から見てどのような意味を持つのか、整理整頓出来ない状態で進めたうえ、15年前の発表当初は制作中止になったドラマパートを部分的にだけ開示するという、そもそも誤解の生じやすい形態で見せてしまったことである。全体で見た時に意味を生じるグロテスクなシーンを、全体像を開示せず完成済みだったからとグロテスクなシーンだけ見せたら、露悪趣味の悪ふざけだと認識されるのは無理からぬことである。
一番最初の問いに戻るが、本シナリオ掲載の意味はつまり、中高生当時周囲にこういう問題や命題があって必死に解決法を模索したものの何ひとつ前向きな結論を出せなかったばかりか願いとは真逆のレッテル張りまでされて精神を病むに至った二重三重の敗北と絶望の記録であって、自分にとっては『シナリオの勉強を始めるに至った最大のキッカケ』であり、他の方々にとっては『こうした状況に陥ってはいけない』として貰うための反面教師、というのが結論である。
だから今後も本シナリオはなるべく公の場に残してはおきたい一方で、万が一にも本作で『差別』や社会問題の何がしかを知った気になることだけは、おやめになって頂きたいと言っておかねばならない。興味関心を持った方は本を読むなり、報道番組を見るなり、身近な当事者を探し話を聞くなりすることを、強く推奨する。
本作で分かるのはただ目の前にあるという理由で、整理整頓も出来ないまま、解決不能な命題に取り組んで無理をした結果、中高生時代の自分があらゆる意味でズタボロになって終わった、という事実ただそれだけである(商業デビュー未満のうちに予め書いておく)。