ターボばばあと冬の空
電車を待ちながら吐く息が白くなる頃、駅のホームから見える景色はいつも薄曇りのような灰色に変わる。
不思議なもんだ――、と思う。
たとえ空に雲ひとつない日だって、夏のように晴れ渡ったりしない。雪の粒子がそこらじゅうにばらまかれたみたいに曖昧に、ぼやけた色彩で空は瞳に届く。温度、湿度、透明度――、目には見えない何かが、確かに目に映る形で景色を変えている。
冬が、近付いていた。
ついこの間に長袖を着始めたばかりだったっていうのに、すぐにブレザーやセーターが必要になってくる。マフラーと手袋の順番待ちも、そう遠くはない。
雨が降りゃあいいのに。
身を切るような冷たい風が吹く。電車が止まり、前に並んでいた人から順に、その扉をくぐっていく。俺もエナメルバッグを肩に担ぎなおして、一歩、続いて前に進む。
――じくり。
染みのように、膝に痛みが広がる。
顔を顰めたのも一瞬。体重を乗せて、もう一歩。痛みは余韻だけ残して、扉は閉まり、電車は走り出す。
もう一度、改めて思う。
冬が、近付いていた。
「なー! 長渡、お前この話知ってる!?」
「あ? 何の話だよ」
朝っぱらから眠いなあ、とあくびを噛み殺そうとしたとき、絶妙なタイミングで勝永が話しかけてきたから、微妙に消化不良なまま眠気が口の奥に溜まった。八時二十分。遅い電車で登校するやつらも揃い始めて、教室は段々音量を上げていく。五番乗りくらいで教室に入ったときには冴え渡っていた朝の冷気も、生徒の体温で段々と柔らかく溶けていく。
勝永はひょい、と俺の机の上に座った。いや、訂正する。ひょい、というより、どっしょい、という感じだった。高校二年にもなればそのくらいの重量感が生まれてくる。その腰をべしっと叩いて、
「汚えケツを乗せんな」
「あっひんっ」
「汚え声も出すな」
朝から一気に生きる気力を削られた。なんだってこいつはこんなにアホなんだ、と悲しい気分になってくる。悲しくなってはくるが、思い直す。人間誰だってちょっとした悩みくらいは抱えているはずだ。どれだけ勝永がアホに見えてももしかしてもしかすれば、万が一、『この話』とやらが深刻な話という可能性だってあるのかもしれなくもない。
「で、何の話だよ」
「ターボばばあ!」
アホはアホだった。
「ター……、何だって?」
「え、マジ? 長渡、ターボばばあ知らねえの? おっくれってるー、ぷすすー」
わざとらしく口元に手を当てて、ご丁寧に頬を膨らませてからぷすー、と空気を抜く勝永。
もう一発ひっぱたいてやろうかと思ったが、もう一発ひっぱたいたらもう一回汚い声が出てくる気がしたので、すんでで抑えた。そして俺が自分の暴力性を抑え込んでいる間にも文明は発展し、勝永は調子に乗り、ドヤ顔でそのターボばばあとか言う珍妙な存在について講釈を垂れ始める。
「ターボばばあが出たんだってよ、西峠で」
「西峠?」
「あそこだよあそこ。……えーっとほら、中学駅伝とかやるとこなんだけど」
「あー、何となくわかった。コンビニから上がるとこだろ」
「そうそう! なんだ知ってんじゃん。って言っても今はあそこのコンビニ潰れたんだけどな」
「マジで。しばらく行ってなかったから知らんかったわ」
「マジマジ。俺も昨日行って初めて知ってさ。あのへん全然明かりないからチョー真っ暗だしビビったわ。街灯のほかに公衆電話くらいしかねえし」
「逆に公衆電話は生きてんのかよ。最近見ねえのに」
「あれじゃね? 遭難用じゃね?」
「遭難してもそこまで来れりゃあとはどうとでもなんだろ。むしろもっと上の方に置いとくべきじゃねえのか」
「確かに……。じゃあなんであそこに置きっぱなしになってんだろ。ミステリーだぜ……」
うーん、と考え込み始める勝永。
ここまででターボばばあとやらに関する情報は目撃地のみ。他ゼロ。
「って、違うそうじゃなくて! ターボばばあの話だって言ってんじゃん!」
「したけりゃしろよ」
「ちべたい! もっと興味持って!」
「オッケー興味津々」
「ぜ、全然心込もってねえ……」
がっくりと勝永がうなだれる。
逆にどうしてこの話題で興味を惹けると思ったのだろうか。どちらかというと勝永のその思考プロセスの方に興味が湧いてくる。
というか話しているうちに思い出してきた。
ターボばばあ。
小学生の頃に読んだ怪談の本とかで見かけた記憶がある。
「てかそれアレだろ。ダッシュで追っかけてくるばばあのやつ」
「えっ、なんで知ってんの」
「結構有名な話だろ、それ」
車で走っていると、その横をダッシュで並走してくるばばあがいる。
細かいところはさすがに忘れてしまったけれど、そんな感じの話だったはずだ。
……あれ、ジェットばばあだっけ?
なーんだ、と勝永は残念そうに両手を広げて天を仰ぐ。
「折角たまには長渡に教える側に回れると思ったのに、知ってんのかー……。にしても怖えよなターボばばあ。追い越されたら足取られるとか理不尽すぎ」
「は?」
「え?」
顔を見合わせる。
「……足を取られる? そんな話だったか?」
「そういう話だろ?」
「いや、俺が知ってるのと違う話かもしんねえ。それどんな話なんだ」
マジ?と嬉しそうな顔。
「えーっと、俺が聞いたのはー、夜に西峠で走ってると、後ろからターボばばあが走ってきて、勝負仕掛けてくんだって。で、負けると足取られて走れなくなるって話」
――走れなくなる。
じくり、と膝に痛みが広がる。
「……なんだそりゃ。夜中に西峠走るやつなんかいねえだろ。真っ暗だぞ」
「……言われてみりゃそうなんだけどさ。でもほら、いろいろあんじゃねえの。それこそ駅伝のれんしゅ――げっ」
言葉を途中で切り上げた勝永は、突然ぴょん、と机から飛び降りる。その途中で腰の骨を机の角にぶつけて「おごっ」と声を出す。それから床に屈み込んで、教室の入口から身を隠すように机の影に身体を丸めた。
一連の奇行を見届けた後、教室の扉に目をやる。するとそこには髭面で万年ジャージの学年主任兼生徒指導が立っている。
「かーつーなーがー」
「い、いませーん」
「こっち来い」
有無を言わさぬ声色。怯えたウサギのように立ち上がる勝永は、呼び出しもそのはず、ブレザーの下にド派手なオレンジ色のフードパーカーを着込んでいる。
「長渡ちゃん先輩……」
捨てられた子犬のような目をしている。
俺は親指をグッと立ててやった。
「よかったな。一限の数学はサボれるぞ」
「そんな~~~~」
とぼとぼと破滅への道を歩み始める勝永。
がんばれ勝永。おしゃれは我慢だ。
「あ」
「あ」
意図したわけではないが、声がハモってしまった。学校前のバス停。俺が後からやってくる形で、向こうは顔だけ横に、こちらに向けて、大型犬のようなたれ目を見開いていた。
「……よう」
「ひ、ひさしぶり」
そいつの名前を俺は知っている。大崎。中学からの同級生で、それから――。
大崎の前をすり抜けて時刻表を見た。現在時刻が五時十五分。次のバスは五時二十三分。そんなに待つほどの時間じゃない。素直に大崎の隣に並んだ。
いつもより学校を出る時間が遅くなったのは、二者面談があったからだ。ちょっとした進路調査で、進学希望先を答えるだけで終わる簡素なものだったのだけれど、順番待ちの関係で結構時間がかかってしまった。
おかげで東の空から上り始めた夜が、西の端にまで届こうとしていた。
すっかり暗い。
ついこの間までは、いつまで経っても太陽が上ったままだったような気さえもしたのに。
「……げ、元気?」
「ん? あ、ああ……」
突然大崎から声をかけられて驚いた。そういえばこいつ、沈黙に耐えられないタイプだった。
そんなに気を遣わなくてもいいのに。
「まあ、それなりにな。そっちはどうなんだ」
「俺も……、まあ、それなりにかな……」
少しだけ、大崎とは逆側に首を曲げると、部活の大会記録を知らせる横断幕が張ってある。
「謙遜すんなよ。新人戦、いいとこまで行ったんだろ」
「あ、うん。知ってたんだ」
「おめでとう。頑張れよ」
「…………うん。ありがと」
次の沈黙が解ける前に、バスが大きな音を立てて目の前に止まった。ティン、と大崎が乗車券を取るのに続いて、俺も乗り込む。
時間が外れているからか、中はかなり空いていた。大崎が座ったのを見届けて、遠くもなければ近くもない、そんな席に座り込む。プシュー、と音を立てて扉が閉まり、バスが走り出した。
携帯にイヤホンを差し込んで、音楽を聴く。
窓の外で流れる景色と、身体に伝わる座席の振動だけが、自分が今移動しているという事実を知らせる。
夕日を失った空はやっぱりどこかぼやけた色彩で夜を迎えている。どことなく息苦しいような気がして、座席の上でごそごそと、座りの良い位置を探した。
学校から駅までは、自転車で二十分、バスだと三十分かかる。というのも、バスの運転ルートが大回りになっているからだ。順番としては、学校、博物館前、病院前、それから駅前で、実際のところ病院前の道は、自転車で通う生徒ならまず寄り道にしかならないような経路だ。
博物館を通り過ぎて、病院へとバスは走り出す。メインの道路から外れた道になるから、段々と人波も、街並みも穏やかに、影だけを残すようになる。
病院では誰も降りなかった。
代わりに、その次の次で、降車のボタンが赤く光った。イヤホン越しにも『次、止まります』の音声が聞こえてくる。何の気なしに車内を見回すと、大崎がわたわたと、運転席の近くの料金表示と、自分の財布との間で視線を何度も往復させていた。
知らんふりも可哀想だろう、と思い、席を立つ。つり革を持ちながら、大崎の背中に話しかける。
「なんだよ。小銭ないのか」
「わっ」
飛び上がらんばかりに驚いた大崎。幸い、財布から家出する金はなかった。
振り向くと大崎は、すがるような目でこっちを見てくる。
「ご、ごめん、長渡。次で降りるならお金いくら?」
ああ、それで困ってんのか、と納得する。
滅多にバスに乗らないなら料金表の見方もわからないだろう。
「お前さっき乗車券取ってただろ」
「じょうしゃけん」
「あの切符みたいなやつ」
「あ、うん!」
言って、大崎は慌てながらポケットをとにかくまさぐる。上ジャージの左ポケットから、ややよれたそれが出てきた。ん、と手のひらを出すと、大崎がその上に乗車券を乗せる。俺はそれと料金表示を見比べて言う。
「百六十円」
大崎は安堵の息をつき、
「さんきゅ。助かったよ」
言うと、バスが止まる前から立ち上がって料金箱の前まで歩みを進める。よっぽど急いでいるらしい。
俺はまた元の席に戻るのも億劫だったので、すぐ近くの席に、場所を変えてもう一度座った。駅まではまだ十分弱かかる。
それにしても、大崎のやつ、なんでこんなところで降りるんだか。
あたりは一面闇の中だ。大崎は俺と同じ中学出身だし、引っ越したわけでもなければこのへんに家があるなんてこともないだろう。
止まったバスから見える中には特段足を止めるべきものも見えず、強いて言うなら駅に行っても間違いなく見つかるだろう公衆電話がぽつんと置いてあるくらい――。
「あ」
立ち上がる。すみません、降ります、と声をかけて扉を開けたままにしてもらう。区間内なら定期でパスできる。ポケットから取り出したそれを運転手に見せて、慌ててステップを降りる。
「長渡……?」
降りた先では、ランニングシューズを履いた大崎が、驚いた顔で俺を見ていた。
決定的に俺の足が壊れたのは、中学二年の冬だった。
子供の頃から走るのが好きだった。
わけを聞かれても、結局のところよくわからない。単にあの、苦しみを通り越してハイになるあの感覚が好きだったのかもしれないし、一番になれるのが好きだったのかもしれないし、あるいは風を切るあの速度が好きだったなんて、ロマンチックな理由かもしれない。
走るのが好きで、走るのが得意な子供だった。自然、中学では陸上部に入った。
すぐに始まった成長期で身体はぐんぐんでかくなって、記録もどんどん伸びていった。二年の夏には県大会の出場ラインまで届いて、秋の新人戦では県大会入賞。タイムの伸びも勢いがついていて、あとは三年の夏、地方大会でどこまでいけるのか。それを見据えて、毎日練習を積んでいた。
そしてそのまま、冬になって、足に力が入らなくなった。
予兆はあった。だけど気付かなかった。
ずっと成長痛だと思っていたそれが、故障のサインだった。身長が伸び切るまでなんて待ってられない。そう思って、痛みを押して足を動かした。
気付いたときには、もう遅かった。
安静期間と言われた一ヶ月は、簡単に三ヶ月に伸びた。春が来て、夏が来た。エントリーの締め切りの前に、顧問に頼み込んで無理に一本だけ、タイムを計ってもらった。入部してから初めて計ったあのタイムより、ずっと遅かった。結局、出場リストに俺の名前は載らなかった。
部活を引退して、受験勉強の合間を見て、それでも少しずつ、回復のために運動を続けた。
ようやく元通りになったと思えたのが、受験の終わった頃。もう思う存分走れなくなった日から一年が経っていた。
全力で、一本を走った。
そのとき、足を、膝を、腰を。
恐る恐る使う自分に気が付いた。
走り終えて、ただ悲しかった。
高校では、入部届も出さなかった。
消えたはずの痛みが、今でも離れない。
「弟がさ、中学で陸上やってるんだよ。俺と同じ1500mでさ」
隣を歩く大崎の手元には、ごつい懐中電灯が握られている。
それでも冬の夜、山沿いの道を歩くには心もとない。寄ってくる羽虫を避けるために、手元にタオルを巻いているのもあるから、仕方のないことだろう。
「冬の学対駅伝があるからさ。それで弟も駆り出されて……。やっぱり一番きついとこは陸部が走らされるんだよね、相変わらず」
「……ま、そりゃそうだな」
「うん。で、結構真面目なやつだからさ。やるからにはきっちり試走してメニューを組んでおこうと思ったみたいで、この間、部活が終わった後に父さんに連れてきてもらったんだって。昔の俺たちみたいに、ここに」
――西峠に。
バス停と公衆電話のあったふもとからもう二十分近く歩いている。実際にはほんの小さな、峠と言われてもピンと来ないような山道だ。もうそろそろ最高地点に、峠に着いてもおかしくないのだが、まだその姿は見えてこない。
大崎が、ゆっくり歩いているからでもあるだろう。おそらくは、俺の足を気にかけて。
「しばらくひとりで練習してたらしいんだ。父さんはそれをライトを点けた車の中から時々見てて……、ふと気付くと弟が道の真ん中で倒れてた。慌てて助けに行ったら、弟がこう言うんだ。
『足が動かない。おばあさんに取られた』って」
チー、チー、と秋虫の声が聞こえる。
それはかえって、静寂の記号だった。
「……それ、信じてんのか」
「弟の言うこと、兄貴が信じなくてどうするのさ」
あんまりきっぱり言うもんだから、面食らった。
だけど、大崎は一瞬置いて。
「……なんてね。そんなにできた兄貴じゃないよ、俺。正直言って半信半疑がいいところ。だけどさ、もしちょっとでも可能性があるんなら」
取り返してやらなくちゃいけないだろ、と。
大崎は言った。
俺は黙って、その横を歩いていた。
「ねえ、長渡」
「……おう」
「…………いや、なんでもない」
「……そうか」
大崎が懐中電灯を軽く上向かせる。光る円の、半分が消えた。
峠だ。
かち、と電灯のスイッチが切られる。
「うお」
「わ。暗いね、これ」
普通の暗さじゃなかった。
峠まで目測で100m。それほど遠い距離じゃない。だけどその、100m先に設置された街灯の光は、俺たちの立つ場所まで届かない。眼下に見える街の光もまばらなばかりで、自分の手のひらの形はわかっても、生命線は見て取れない。そのくらいの視界しかなかった。
どっ、と音がした。
大崎がバッグを道路に降ろした。それから上着も脱いで、その上に被せる。
長い足で、深く伸脚をしながら大崎が言う。
「あのさ、ひとつ、頼んでもいいかな」
「言うだけ言ってみろよ」
「もし俺が走り負けて動けなくなったらさ、そのときは救急車呼んでくれないかな」
――ひっでえヤツ。
――よりにもよって、それを俺に言うのかよ。
「……ごめん、ダメかな」
「考えとく」
「ごめん、ありがと」
ジャンプを三回。足踏み十回。
ふっ、と強く息を吐いて。
「よし、やるよ」
たったっ、と軽く駆けて大崎は100mほど下った。
それから、ジョグのペースで走り出す。
直後。
「なっ――、大崎、来てるぞ!」
本当に来た。
大崎の後ろから本当に老婆が走ってきた。
正確に言うと、それが本当に老婆かはわからない。あまりの暗闇に、姿かたちをはっきりと見ることはできないからだ。
だがその二足走行する矮躯は、確かに老婆のそれを彷彿とさせる。
それが高速で、背後から大崎に迫りつつある。
大崎は一瞬、背後に視線を送った。それから走りのフォームに力が入る。
全力のフォームだ。
俺のよく知っていた、中学の頃のそれじゃない。
筋力がついた。足が伸びた。身体のバランスが変わった。
速くなっていた。
あの頃よりも、格段に。
だけど。
「ぅあ――!」
「大崎!」
後ろから追いついた黒い影が、大崎の身体をすり抜けた。
そして一歩、二歩、バランスを崩した大崎はそれでも前に進もうとするが、一瞬のうちに力が抜ける。黒い影はみるみるうちに大崎を突き放し、峠の向こうへと消える。
大崎は倒れ込んだ。
咄嗟の判断なのだろう、背中側から。
「おい!」
大崎の下に駆け寄る。空を仰ぐような恰好で、大崎は自分の足に手を伸ばしている。
「ちょっと、さ。速すぎじゃない、あれ……? ていうか、ほんとにいたんだね、あんなの……」
「言ってる場合か! 車来たら死ぬぞ!」
大崎の背中側から手を差し込んで、肩を貸す。そなまま起き上がらせようとするけれど、足の側に動く気配がない。
「ごめん、動かないや……。引きずってくれないかな」
「~~! しょうがねえヤツだな! 上手くバランス取れよ!」
「へ? ちょ――」
肩に差し込んでいた腕を下ろして背中の真ん中に。それからもう片方の腕を足の下に差し込む。
「ぉおらッ! ――ってッ」
腰で思いっきり持ち上げる。
じくり、と痛みが刺すのを無視して、そのまま道路脇に大崎を寄せ降ろす。
「おッも……! お前無駄にでかくなりやがって……、痩せろ!」
「いやごめ――、え、今の何?」
「……陸部が足引きずれとか言ってんじゃねえよ。一点ものなんだぞ、そいつは」
「いや、でも、」
「お前、倒れ込むとき足庇ったろ。つんのめったままだと膝打つもんな」
言うと、一瞬大崎は息を詰まらせる。
「まだ使うんだろ。大事に取っとけ」
「長渡、ごめ――」
「謝んな」
大崎の言葉を途中で遮る。
それから、少しだけ気持ちを落ち着けて。
「お前が謝ることじゃねえ。そんかし、次はそこで見てろ」
「見てろ、って」
「次は俺が走る番だ」
ブレザーとシャツを脱げば上の恰好はまあまあ整った。問題は下――。大崎のヤツから引っこ抜いてやろうかと思ったが、聞けばこいつ、替えのランウェアをもう一着持ち歩いてるらしい。そういやいっつも鞄をパンパンにするようなヤツだったな、と思いながらそいつを借りた。フリーサイズだし合わないことはない。靴はちょうどよかった。今日は体育が外授業だったから、ランシューで登校していた。急ごしらえにしちゃあ上等なそろいになった。
身体の準備するにしても迂闊に走ったりしてターボばばあを呼び出すのは困る。
だけど、走らずに身体を温める方法なんか、いくらでも知っていた。
「ねえ、長渡」
「ん?」
「怪我は……」
「もう治った」
端的に、事実だけ告げてやる。
が、それだけじゃ納得してない様子だったから、言葉を繋いだ。
「高校上がる前にはもう完治してたんだよ。陸部に入らなかったのは単に痛むからだ」
「痛むって、それ治ってないんじゃ」
「治ってんだよ。治ってんのに、痛えんだ」
ずっと、そうだった。特に冬が近付くと。
治ったはずの、足が痛む。どこも悪くないはずなのに、ふとした拍子に痛みが走る。
骨が傷ついているわけでも、腱が伸びているわけでもない。
それは、痛みの名残だった。
あの日、唐突に膝が抜けたあの感覚。忘れられない。何かのきっかけで、また同じことがあるんじゃないかと、身体が怯えている。
だから、本気で走れなかった。
また壊れるんじゃないかと、体重も、速度も、力も、何ひとつ全力で乗せることができなかった。
そして、今も変わらない。
腿上げも、跳躍も、薄氷の上でするみたいに。いつなくしてもいいように。
未だに、怯えている。
だけど。
「――っし。行くか」
「待てよ、長渡」
「あん?」
「その……」
大崎は言いにくそうに。
「――いいよ、走らなくて。折角治ったんだから」
「ついさっきまで故障すらしてなかったお前がそれを言うのかよ」
「それは……、俺には、走る理由があったから」
「なら俺にも走る理由がある」
準備は整った。
だが俺は大崎とは違う。ジョグをして呼び出して途中から勝負――、なんてことはしない。
100m。
最初のあの地点に、立って叫ぶ。
「おい! 勝負だ、出てこい!」
自分で言ってから、なんだそりゃ、と笑ってしまうような言い草。大崎は呆気に取られた顔をしている。
だけど、本当に来た。
ついさっき、大崎を追い抜かした黒い影が、足音もなく走ってくる。
そして、俺の隣で止まった。
ここがスタートライン。100mの距離だ。
「大崎、合図は頼む。それ再生すりゃいいから」
指さしたのは大崎の横に、上着と一緒に投げた携帯。スタート音声が入っている。
「ま、待てって! 冗談じゃないんだぞ! 本当に負けたら足が動かなくなるんだ! 長渡、お前また――」
「いいんだよ」
スタートラインに屈み込む。地面に手をついて、久しぶりのスタートポジションを確認する。
上り坂だ。競技コースとは勝手が違う。だが坂道ダッシュだって死ぬほどやった。染みついたフォームを細かく調節しながら、ベストの形を模索する。頭を前に。体重を前に。腰を上げて、胸を張る。傾斜を計算に入れながら、
「いいんだよ、別にそれで。それならそれで、諦めもつく」
隣に立つ影を見る。
こうして間近で見ても、それが実際に何であるのかはわからない。ターボばばあ、なんて呼び名も、結局それらしさ以外の理由があってついたわけじゃないらしい。
大崎を見る。
少しばかりの逆光が、表情を隠した。
「…………」
沈黙の中、小さな光が動く。大崎の手元。
雑音とともに、声が聞こえる。
――On your marks.
膝をつき、手を見る。
隣に動く気配はない。
――Set.
腰を高く。視線は先へ。
動きを止める。
――――!
「――――!!」
電子音。爆発。
蹴り出した足。ストライドを大きく。腰を前へ。腕を前に。
三年ぶりの、完璧なスタート。
不思議なもんで、ブランクが長けりゃ長いほど、最初の一歩が速くなる。失った時間を埋めようと、そんな無駄な努力をするみたいに。
飛び出た。視界に影の姿はない。
上り坂はパワーが必要になる。だから平地よりずっと倒れ込むみたいに前傾を強くする。三年の間、トレーニングを積まなくても勝手に足は長く、太くなった。衰えらしい衰えは、トレーニングを積み続けたもう一人の自分とでも比べない限りは、感じることはない。前傾を続けながら、少しづつ目線と身体が起き上がっていく。
二十歩前後。視線が、上体が起きる。
肩を柔らかく、ストライドをさらに広げていく。
トップスピード。
ここが最終地点だ。
これ以上は上がらない。後はこのまま、上がらない速度を、下げないように保ち続けていくだけで、
――ぞわ、と。
脊髄に、毒を流されたような悪寒が走る。
覚えのある感覚だ。ここまででの怖気を感じたことはないが、幾度も、競走の中で感じた寒気。
迫っている。
姿が見えずともわかるのは知っていた。が、音が聞こえずともわかるとは知らなかった。
これは、そうだ。
抜き去られるときの――、
「――――ぁ、が」
どちらが速かったのか、わからなかった。
黒い影が、目の前に躍り出るのが先か。
それとも、膝が抜けるのが先か。
「ぃ、ぎッ――!」
無理矢理接地すると、足裏からの衝撃がダイレクトに足に溜まる。膝が、腰が軋む。
失われたはずの痛みが、氷のように関節にぶち刺さる。
「が、ク――」
二歩、三歩。
木の枝みたいになった足は柔らかさの欠片もなく、そのまま骨を逆側にへし折るように、乱暴に、身体を支える。
――負ける。
今が何歩目なんだか、一瞬で吹っ飛んだ。
起き上がった身体はフォームを崩した。トップスピードは目も当てられない。影の背中はほんの一瞬の間に遠ざかる。
峠までの距離は短い。
「長渡ぉ!」
不思議と、大崎の声がはっきり聞こえる。
――捨てられるもんなら、捨てちまえばいいと思った。
最初に勝永からこの話を聞いたとき、そう思った。
中途半端な足だ、と何度も思った。
走れないわけじゃねえ。だけど思いっきり走れるわけでもねえ。
今でもたまに、戯れに走ろうとすることがある。そのたび、悪寒を理由に、足を止める。
また壊れるのが怖い。
それでも縋っている。
走んのが好きか?
ならぶっ壊れないよう大事にしながら、記録を求めず、楽しんで走ればいい。
俺にはそれができない。
一番になれねえのが怖いのか?
だけどわかってるはずだ。こんだけ長いブランク抱えて、今更トップになれるタマじゃねえ。三年間その場で足踏みして、何をどうしたらレースに勝てるってんだ。
怖いも怖くねえもねえ。当たり前の結果をどうして恐れることがある?
苛々するんだ。
足が痛むたびに。疼くたびに。走れと震えるたびに。
走る理由も、走らない理由も中途半端な自分自身が。
あの日みたいに曖昧な空の色が。
――雨が降りゃあいいのに。
――中途半端なもんは、いっそ全部捨てちまえればいいのに。
負けるつもりだった。
負けて、もう一回諦めるつもりだった。
失われてるもんを、もう一度、未練ごと跡形もなく消してやるつもりだった。
だからこんな風に、抜き去られるのも予想していたことで。
なのになんで、足は前に出るんだよ。
「ぅおオおおおおお!!」
馬鹿みてえにでけえ声が出たのは、意図したわけでもなくて、勝手に肺が動いただけだった。
咆哮。
崩れ落ちる足を、地面にぶっ刺すみてえに突き立てる。足を動かす力が湧かねえ。額を道路でぶち割るつもりで身体を倒す。もがくように振り回す手は、それだけで空気を引っ張って前に進むつもりだった。
何のために走る。
フォームも、ペースも崩れた。足に力も入らねえ。逆転の目はねえ。完走して努力賞でももらうつもりか? んなもんに何の価値がある。捨てるつもりで走ったんじゃなかったのか。何を求めてる。何を捨てたがってる。
――もし俺が走り負けて動けなくなったらさ、そのときは救急車呼んでくれないかな。
答えは、単純だった。
求めてるもんも、捨ててえもんも、頭ん中に存在してなかった。
ただ、俺はムカついてるだけだ。
あのとき大崎は、どうして俺に走れと言わなかった? 自分が負けたときは仇を取ってくれと、どうしてそう言わなかった?
決まってた。わかってた。知っていた。その理由。期待されない理由。気遣われる理由。
そして、それすらどうだっていい。
ムカつく。
苛々する。
腹が立つ。
ぶん殴ってやりてえ。
暴れてやりてえ。
何もかも全部ぶっ壊しちまいてえ。
爆発しそうだ。
抑えらんねえ。
衝動も。激情も。葛藤も。
悲観も。諦念も。苦痛も。
我慢ならねえんだよ。
本気になって何が悪いんだ。
短距離走者が、
「そこは……」
――本気で走って、何が悪いんだ。
「100mは俺の距離だ――――!」
もう、どんなフォームで走ればいいのか。どんなピッチが、どんなストライドが、どんなペースがいいのかわからない。
自分の速度も、状態も、冷静に見る時間はない。
それでも、たった数秒を。
誰よりも速く駆け抜けたい。
だから、俺は選んだ。
「、がぁッ――――!」
最も痛い走り方。
あの日の痛みを、最も強く再現する走り方。
単純な話だ。
あの日のフォーム。俺が一番速かったころのフォーム。
俺を壊した、あの形。
痛みだけが、それを教えてくれる。
三年間、俺を苦しめ続けた痛みだけが。
俺だけの痛みが、俺の速度を教えてくれる。
がむしゃらに、手足を動かす。痛みだけを、速さだけを求めて動く。
自分の体格に合ったフォームかなんてわからない。考える暇もない。
「ぉ、お、オ――――」
加速。トップスピードに乗るなんて今更できるわけがない。
加速。どこまでも速く、いつまでも速く。
加速。届かないとしても。力が入らないとしても。
そんなのどうだってよかった。
無様で何が悪い。
みっともなくて何が悪い。
目の前の背中を追い越したいと思って、何が――
「と、ど、けェえ!」
肩と頭を前に出す。
一ミリでもいい。たとえ他のヤツに、誰一人にわからなくたっていい。それでも俺は、この影を。俺の目の前に立つヤツを。俺の前を走るヤツを――
影に触れる。
たった一瞬。
山道の最高点。最後の峠。
俺は。
もう一歩を、迷わなかった。
「は――――」
今、こうして。
目の前の影を。
重なった影を。
突き抜けて。
追い越して。
視界から消し去って。
そうして俺は。
「――やべ」
下り坂を止まれず、ごろごろと転がっていった。
「長渡!」
大崎の声で目を覚ました。
ってことは、今まで意識を失ってたってことだ、と気付いて、今更恐怖が湧いてきた。
頭打ってねえよな、と身体を起こそうとして、
「っづぅ……!」
マジの痛みが来た。
今日までみたいな幻痛じゃない。普通に痛みだ。肉体的な。腰と、膝。後ついでに全身諸々。手をついて立ち上がろうとして、そのときアスファルトの硬さにビビる。こんなとこで思いっきりコケたら死んでもおかしくねえぞ。
「長渡!」
もう一度、大崎の声がして、峠の向こうから強い明かりがやってくる。あまりの強さに目が眩む。懐中電灯を向けられていた。見つかった泥棒みてえな気分になる。
「大丈夫かっ?」
大崎が坂を下ってくるのに合わせて、何とか身体を起こしきる。全身がズキズキ痛む。背もたれなしじゃ上体を支えるのがきつくて、結局また仰向けに倒れ込んだ。
「おまっ、ボロボロじゃ、」
「どうなった」
近寄って、俺の姿を見て慌てる大崎に、尋ねる。戸惑ったように一拍開く。
「どうって」
「夢中だったから見てねえんだ。どっちが勝った」
聞くと、大崎はかちり、と電灯のスイッチを聞いた。急に消えた光で、目が慣れない。が、それでもわかった。呆れてる雰囲気がする。
「……長渡の勝ちだよ。ありがとな」
「そうか」
その言葉を目を瞑って、拳を握りこんで、噛みしめる。
「勝ったか」
感傷に、浸りたくもなる。
「長渡、お前、それ……」
恐る恐る、大崎が言う。最初は何のことかと思ったが、すぐに察する。
「ああ、これな。見た目よりたぶんひどいぞ。また当分走れそうにないな。下まで肩貸してくれ」
「そりゃ貸すけど……。でもお前、こんな」
「言っとくがな」
心配性で、苦労性のヤツの言葉を、途中で遮る。
「お前のおかげではあっても、お前のせいじゃあ、絶対にねえ。俺は今、最ッ高に清々しい気分だ」
返事はない。
仕方ねえか、と思う。
片方だけ良い気分になっちまって申し訳ねえ、とは思うが、自分の気持ちを正しく相手に理解させるなんて、難しくてできやしない。
足を取り戻したんだから、それでチャラにでもしてもらうしかない。
「だー、っしょ……」
億劫ながら、身体を起こす。さっきよりは多少マシになった。
「大崎、肩貸してくれ」
「……うん」
「よい、しょっと」
がっくがくの膝で、何とか立つ。こりゃ痛みだけじゃなくて疲労の部分も大きそうだ、と思う。歩いてるうちに多少はマシになることを祈るしかない。
一歩、二歩。
ついさっき一瞬で駆け抜けた距離を、ゆっくりと、何歩もかけて上っていく。
スウ、と冬の香りを含んだ風が吹いた。
体温の下がるような感覚で、汗をかいていたことに気が付いた。
痛む身体を引きずって、少しずつ、峠に向かって歩いていく。
坂の向こうに、夜空が見える。
冬の気配の夜空は黒く濃い。
だけど青く瞬く星の光が、その黒すらもぼやかしてしまう。
明るいんだか暗いんだか、やっぱり結局、どこかはっきりしない空を見上げながら。
吐いた息だけ、いつも通り真っ白で。
「なあ、大崎」
「ん?」
「速かったろ」
そう言って横を向いたとき、大崎は驚いた顔をしていたから。
たぶん、俺はいい顔で笑ってたんじゃないかと思う。