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流刑地にて

作者: もりのまいご

彼女はもうずっと、死にたいと考えていた。家族とでも・友人とでも、誰と話していても、たとえ笑顔で和やかな会話の中でも、半年前に別れを告げて自分の許を去った恋人の事がたえず胸に去来し、頭脳を圧迫した。

時間や人のそぞろ歩きは、彼女に無関心であるかのように、彼女の横をさらさらと、あるいは、さっと、通り過ぎていく。彼女もそれに異論はない。考えすぎる事も、自棄になる事も、なかった。(内心ではオズの魔法使いの出だしよろしく感情が竜巻のように荒れ狂っていたけれど。)それを表面に出さないでいるすべを知らない歳でもない、というより、出そうとしても全部出るわけじゃない。子供だましさ、浮き世なんて。

しかしながら、彼女はもう自分が以前とは違って、損なわれ、取り戻したいと仮に思ってももう元に戻れない抜き差しならぬ状況に来てしまったのだということを気に病んでいた。自分がすでに、まともでないこと、おかしくなっても優しい言葉を必要とあらば他者にかけてやれること、何が欲しいかわからないけれど、ただ欲しがって、無音の悲鳴が体中に響いている事をいつまでも心にしまったままにしておけないだろうということ、つまり、彼との別れ自体よりも、その周辺によってもたらされたあれこれをとても気にしていた。そしてそれは時間がたってもどうにもならないのだということを再確認させられるたびに、苦しんだ。彼女は、自分がまともであろうと、おかしかろうと、もう興味をすっかり失くしていた。

いまさら、と考えた。今、仮に彼が戻ってきたのだとしても、元通りになるわけじゃない。


彼女に別れを告げた彼は、すっかり元の軌道に乗って、暮らしていた。新しく恋人もできたらしい。(今回も相手の女性が年上のようだ。)どうしたら諦められるのかとばかり考えては、自分や、彼や、普段意識しないけど替えのきかない何かを破壊する衝動と戦って疲れてきたことを思うと、今はとてもしずかな気持ちだ。子守唄ごしに別れを考えているような。もし、会おうと言われても、今は会ってもいいし、会わなくてもいい。もう時間が経ち過ぎたというせいもある。何人も、時間には諦観するし、抵抗できない。


駅の片隅に忘れられた荷物みたいに残されたのは、彼との思い出というより、先述の、別れの周辺によって損なわれた自分自身だけだった。愛が終わる事も知っていた、予感もあった。以前の自分の日記(彼と出会ってまだ1カ月と経たない頃の日記だ)にこう書いてある、「私たちが別れるときはきっと彼から別れを告げるだろう」。彼がいなくなる事はわかっていた。なら、なぜ自分がこんなに損なわれているのか。出会い損ない、人生の出会いはそれしかないと聞いた事がある。別れる前に、彼に訊ねた。「あなたは人生で出会い損なったと思う事はある?」彼は、ない、と答えた、「あなたとも出会えたわけだしね。」いとしい日々。

それだけ。それを抱きしめて生きていくのが、今の彼と私の間にある、唯一の愛情じゃないか、仮に別れというものにも、愛情の交換ややりとりの介入があるとすれば、そう言っていい。彼女はそう考えた。けれど、彼女はすでにいい女を演じるほどのプライドはとっくに、彼の完全無比な、想像力のない完全無比な(潔癖と言っていい)態度や物腰に吸い上げられて、なくなっていた。彼と一所にいたいなら、プライドも知性も捨てるように言われてきた気がして、彼女はそのとおりにふるまってきた。「流刑地に一緒に行こう」、こういうことを彼との恋愛で命じられていた気がして。そしてそこへ黙ってついて行くことこそ、彼女の彼への愛を証明するただひとつの手段だと思っていた。同じような事を彼も承知していると考えた。違っていたけれど。彼は、22歳だ。流刑地に行くには、若すぎる。

「あなたのやりかたによっては、俺もあなたの思い通りだったな。」こういって、彼女の許を去った。彼女は悔しがって、同じ事を私も考えていたから、と彼に伝えた。あなたにもっと大事にされていたなら、私の方こそ。私には彼しかいないと思っていたのに。


「あなたは?」と、彼は訊き返した、「あなたは、俺が犯罪者になったら、どうする?」

彼女は即答した、迷いも留保もなく。「あなたにずっとついて行って、一緒に逃げる」

「俺に自首するのをすすめたりはしないの?」

「あなたが罪を犯す時は、おそらく真面目な顔をして人を殺すだろうから、よっぽどだと思う。そういう局面のあなたに自首をすすめたところでなんのたしにもならないから、それならあなたと一所に逃げる事にどこまでも付き合っていきたい」

彼が、静に呆れつつも、ふーん、と感心するような声を出した。内心では、彼女のそういう愛情を理解しなかった。

彼はよく、よい将来の可能性について、これまでの恋愛を振り返る時に考えた。俺が、これまでの女性ひとたちと別れてきたのは、よい将来の可能性の小ささに挫けたからだ。自身が別れを決定するときはたいていそれが理由だった。


「そう、歳をとって年金で暮らすようになっても自転車二人乗りしているような、お年寄りの夫婦?」しずかな愛情がいいよね、と彼が言った時に、彼女が返した言葉。

「いや、そういうのではなくて・・・・・・」彼が言葉を濁した。

「流刑地?」彼女が口火を切った、「どちらにも罪があって、誰かを好きだと言う事は勝てない戦にひたすら息切らし、身を焦がすようなものだと二人とも諦めているけれど、それでも一緒にいずにいられないような?」彼女は自身の理想を織り交ぜて、彼を察するように言った。

彼は、わからない、と言った。それきり、その話は消えて、新しいとりとめのない会話をした。


私には流刑地しかなかったのかもしれない、と彼女は考えた。おそらく、彼と別れず一緒にいても流刑地だし、彼と別れた今も、流刑地だ。彼を殺さない限り、流刑地というパラドックスがあった。けど、彼を殺そうと殺すまいと、その前に彼女自身がとっくに再起不能で死んでいたんだ。それでも、彼と一所にいずにいられないほどだった。「抜き差しならぬ」状態。自分にはこういうことが一体いつまで繰り返されるのだろう。彼はたしかに彼女を殺したのだった。それでいて、彼自身は、自分は殺していない、すくなくとも、償っている(あるいは報いている)と考えていた、確信すらしていた。


「あなたと一所にいて、僕はよい将来の可能性の小ささに挫けたのです」

彼女は、もう少しだけ頑張ろう、と言って彼に追いすがった。ねえ、人には誰かを愛さずにいられないというだけで罪だという聖書の頃からのテーゼがあるのよ。だから、愛し始めたその日から、ふたりは流刑地を目指しているの。今、私たちはそこにたどり着いただけ、ここから始まるのよ。

「ごめんなさい、僕はもう疲れたのです」


あなたと死ねたら、あなたと誓えたら。

あなたとしずかに、この場所で。

彼女は、ひとりになって、今も、そう思う事がある。


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