そのさん。
朝食に用意された一枚のトーストとサラダを食べ終え、いつも通り七時半に家を出て、僕は学校へ向かう。先程駆け抜けた閑静な住宅街を今度は歩き、駅を目指した。とすれば割りとすぐに駅に併設する商業施設が見える。
どの方向を見渡しても遠目に住宅街が臨める風景。マンションや戸建ての差はあれど、それらの内多くの住人の生活を一手に引き受ける商業施設は、スーパーから娯楽施設まで揃っている為、当前の事ながらとても大きい。その搬入口でさえスーパーが一軒建つんじゃないかと言う程で、その上に掛かる石橋も中々に巨大だ。
僕はその石橋を渡り、やがて駅の二階に辿り着く。この駅のプラットホームは地下で、改札は一階。二階は連絡通路で、定期券の販売所と定食屋などの小さな店舗しかない。当然の事ながら階段を降りなければいけない訳だ。しかし僕は自然とその階段の手前で足を止め、辺りをキョロキョロと見渡してみるに至る。
早朝の駅とは混み合うものだ。ましてやここがホームタウンと呼ばれる場所なら尚更で、加えて地下鉄の路線ではそこそこ大きな街だとすれば混雑度合いは結構なもの。向かいの壁が見えなくなる程ではないけど、視界の中に一〇人は必ず収まると言う具合。僕は目に留まる人の顔を一瞥していく訳だが、目的の人物は見当たらない。
言うまでもないけど、亮君を捜している訳で……。
制服のポケットからスマートフォンを取り出す。側面の電源ボタンを一回押してみれば、時刻は七時三五分を僅かに過ぎたぐらい。
「わりぃ、純。待たせた」
と、すればそんな声がかかる。スマートフォンに落としていた視線を上げれば、僕がやって来たのとは反対側にある出入口から駆け足気味にやって来る亮君の姿が目に留まった。ちらりちらりと通行人から視線を受けつつも、僕はあまり気にせずに左手を肩の高さに挙げて返す。
今日も今日とて亮君は平常運行。夏服になって詰襟ではなくなったけども、ワイシャツの襟首はやはり大きく開け放たれていた。ついでにネクタイも大きく垂れているのだから、だらしないったらありゃしない。紺のスラックスに半袖ワイシャツ、ネクタイに学生鞄ときて、全然学生っぽく見えないって言うのはある種の才能かもしれない。もうホストかコスプレって言われた方が頷ける。
見てくれはイケメンなんだけどなぁ。眉毛は無いし、目付きは悪いし、浮かべている笑顔は凶悪犯みたいだし。人相の悪さに定評がある僕でも、彼よりマシだろうね。こんなんだからイケメンなのに彼女出来ないんだよ。
なんて思うけど、勿論口にしない。したら殴られる。代わりに朝は忙しいらしい彼を労っておく事にした。
「またお兄さん起こすのに手間取った?」
僕が笑顔でそう問えば、彼は「そうそう」なんて溢しながら、疲れ果てたと言わんばかりの表情を浮かべて見せる。笑って返しつつも、心の底からお疲れ様と溢しておいた。
亮君の名前は亮次。まあ予定調和宜しく亮太って名前のお兄さんが居て、社会人なのに遅刻ばっかりしてるそうだ。加えて寝起きが凶悪らしいから、起こせるのは亮君だけらしくて、毎朝苦労してるそうな。
今朝の苦労話を聞かされながら、僕は彼と肩を並べて階段を降りる。緑色の改札機に定期券を通し、だだっ広い空間に笑い声を響かせながら過ぎて、やがてプラットホームへ降りた。
気立ては良いし、腕っぷしも強い。そんなステータスを持つ亮君だけど、愚痴っぽさや話の長さがその好印象をぶち壊すと言うご愛敬っぷり。電車が来るまでお兄さんの話をしたかと思えば、混み合う電車に乗れば乗ったで今度は可笑しな話をし始めた。
「今朝の帰り道に清子と出会してよ」
今朝の帰り道……と言えば、聞こえこそ可笑しなものになるけど、言わずとランニングの話だと分かる。だけど『清子』と言う名前を不躾に出されて、僕は小首を傾げた。誰だっけ……。
すると訝し気な僕の表情に気付いたらしい彼は、呆れたように肩を竦めた。
「鷲塚だよ鷲塚。鷲塚 清子。俺の幼馴染みでお前のクラスメイト」
苗字を聞いて僕はハッとする。ああ! と返せば、人の名前を覚えるのが苦手だなと呆れた口調で続けられた。すかさず僕は違う違うと答える。
「二次キャラの名前ならすぐに覚えるんだけど、今まで三次元に興味なかったんだって」
……うわぁ。
満員電車に同乗するサラリーマンやOL。他校の生徒らしき人達から、何だか冷たい視線を感じた。しかし向かい合う亮君は、僕の言葉に細い目を更に細めてからケラケラと笑い始める。
「ほんっとお前おもしれぇわ。何だよ三次元に興味なかったって」
言わんとする事はごもっともだ。その三次元の住人の癖に、と揶揄する彼の言葉は至極的を得ているだろう。しかし侮るなかれ、僕は三次元女子じゃあ深月さんにしか興味がない。……まだ内緒だから言わないけど。
まあまあ、と彼を宥めて、話したがっていた事の続きを促して話を戻す。すると彼は途端に表情を曇らせて、面倒臭そうに溢した。
「清子の奴が遊びに連れてけって言う訳さ」
そこから彼の長い愚痴が始まる。
先ず、鷲塚さんは僕のうろ覚えな印象で言えば深月さんと仲が良い。亮君より色が濃いウェーブがかった金髪をしていた気がする。容姿も確か、亮君的に不本意ながらクラスメイトでぶっちぎりの一位を確保する美女だったかな。……僕の中では深月さんが一位だけど。
何せその彼女が早朝から亮君を待ち伏せしていたらしい。朝っぱらからコンビニに行った帰りで、それ自体は事のついでらしかったんだけど、幼馴染みな亮君の姿を見付けるなり『遊びに行きたいけど金がない。デートしてやるから金を出せ』と言ってきたそうだ。
なんたる悪女。傍若無人っぷり。
……ではなく。
幼馴染み同士だから許される軽口なんだとか。鷲塚さんの性格は亮君以外にはかなり良くて、男子から人気もあるとは何処かで聞いた気もするし。しかし問題はその内容が本気であり、なんでも繁華街に新しく出来た商業施設に行きたいと駄々をこねている事。今は彼氏がいないからと、デートと言う建前でそこに連れてけと言ってきたそうだ。
「鷲塚さんと亮君って、付き合ったりとか好きあったりとかはしないの?」
「ねえよそんなもん。清子は見掛け以外カスだカス」
駅の改札を抜けながら僕があっけらかんと問い掛ければ、亮君は大声でそう叫ぶ。一々振り向いてくる通行人の視線は気にならないのか、彼は鞄を肩掛けにして、後頭部の後ろで手を組み、飄々とした様子だった。
と、その背後へ突進してくるひとつの影。
僕は慌てて身を引いて、彼から一歩距離をとった。
「誰がカスじゃコラー!」
見事な跳び膝蹴りと共に、鷲塚さん参上。無防備な背中へもろに食らった亮君は、「ふごぉっ」と声を上げながら前へ数歩たたらを踏み、つんのめるかのような体勢で勢い良く振り返る。
「せ、清子!? なんでてめえがこんな時間に!」
「朝早く起きたからだよ!」
白いブラウスを突き出す豊満な胸の前で、半袖で剥き出しになっている華奢な腕を組み、モノクロチェック柄のプリーツスカートを揺らして仁王立ち。怒り心頭と言った様子の彼女だけど、女子にしては高い方な身長で憮然と佇む姿は様になるし、その顔も確かに美人ではあると思う。
眉は綺麗に整えられていて、睫毛が長く、二重瞼。加えて目はパッチリとしていて、鼻筋は少し高め。唇は鮮やかな紅色で、それを引き立てる肌は白くて窪みやシミのひとつさえ無い。綿毛のような金髪は長くて、腰までの長さ。学校に着いたら縛るつもりらしいと左腕に巻いてあるシュシュが主張しているのも、女子力のひとつだと昔ギャルゲで見た事がある気がする。
まがう事無き美女。しかし僕の胸は高鳴りのひとつさえ反応を示さなかった。
「あ、柴田居たんだ。おはー」
「あ、うん。お、おはよう」
亮君を蹴り飛ばしてから僕に気付くって、ある意味凄いよね。さっきまで彼が喋ってたのを独り言だとでも思っていたのかな? だとしたら彼女も相当凄い才能があるよね。
僕に気さくな風で話し掛けてくる彼女に、そんな風な感想を持つ。吃ってしまうのは慣れない人と話す時の僕の癖だから仕方ない。別に彼女を意識したりしている訳じゃ無い。
「てめえこのクソアマ。埋めるぞコラァ」
「やってみろゲス。女子に暴力振るったって亮太兄に言いつけてやんだから」
「お前の方がゲスじゃねえか!」
朝っぱらから公衆の面前で言い争う二人。
どちらからともなく歩み寄っては、お互いにお互いの胸へ指を差し、額を合わせるかのような勢いで顔を突き合わせている。その形相と言えば、正しく他人に口出しをさせない雰囲気を醸し出していた。ぐぬぬぬぬぬと唸り合っている様は似た者同士。幼馴染みと言うより、双子の兄妹か姉弟に見えるから不思議だ。
僕は亮君の最後の言葉に圧倒的同意をしたくなるんだけど、まあ口出すとややこしくなりそうだし、溜め息混じりに見守る事にした。
と、すれば――。
「清子ぉー。朝っぱらから夫婦喧嘩止めよー。あまりのウザさに吐き気催すから」
ふわりと駆け抜けたシトラスの香り。
ハッとして横を見れば、僕の隣には小さな影。つまらなさそうに前方を見詰めるセミロングのボブカットを見た瞬間、僕の胸はドキリと音を立てて、ハッとして振り向いた直後にビクッと身体を跳ねさせると言う、我ながら可笑しな反応をしてしまった。
今日も今日とて少し癖っている毛束感のあるふんわりとした髪型。つまらなさそうに見ているのにくりっとしているような瞳。別に鮮やかな色を着けていないのに、官能的に見えてしまう平たい唇。
ヒロインには絶対に向いていない彼女の姿。しかしその横顔を上から見た瞬間に、僕の心臓の鼓動は急激な加速を果たす。白いブラウスの下に僅かに透けて映る水色の線は、線はぁぁあっ!!
「ふ、夫婦喧嘩!? はあ?」
「陽菜ぁ。止めてよこんなゲス野郎と」
深月 陽菜。僕が嫁にしたい女子一位の彼女。二位以下はいない。いたとしても全員深月さんだ。
その彼女に早朝から毒を吐かれた二人は、揃いも揃って反論を口にする。けども彼女は全く聞いていない様子で、僕へチラリと視線を向けてきた。
僅かに合った視線の意図は即座に汲めない。そしてやはりそんな僕の様子も知ったこっちゃない風で、彼女は更に毒を盛った。
「夫婦じゃないなら傷害罪と侮辱罪とか言うんじゃない? とりあえず警察呼んどく? 丁度ここに警察官の息子居るんだし」
「……え? え、ええあああ、あ、あれ? 僕?」
憮然と言い放つ深月さん。親指を立てたグーで僕を示して、実に気だるげな姿だった。
う、うわぁぁああ。僕の事警察官の息子って知ってた!? あれ、あれれ? なんか知られるような事はあったっけ。あ、あった気がするけど、頭が混乱して訳が分からないよ!? て言うか深月さんにネタにされた。いやっふぉぉおおい!!
脳内で巻き起こる歓喜の嵐。思わず目に見えている彼女の姿が、神々しいばかりの後光がさしているようにさえ見えた。今の感動を態度にて表せと言われれば、今すぐ泣いてわめいて万歳を三唱したい。もっとやって良いのなら今すぐ『深月教』と言う教えを開いて、今まさに彼女へ反論を並べている二人に開祖として七日七晩にも及ぶ説法を説いてやりたい。その意は『深月さんは可愛い!』それに尽きる。
と、そんな気持ち悪い事を考え、感極まる僕の前で、彼女は「ほら、行くよ」と鷲塚さんの腕を引いて行ってしまう。ハッとした頃には彼女の後ろ姿は遠くなっていって、僕は今すぐにでも通報されそうだと自覚出来る程の気持ち悪いにやけ顔を披露していた。
「――ったく。朝から酷い目見たわ」
立ち上がる亮君。蹴られた背中が痛かったのか、左手で擦りながら僕へ向き直ってくる。そして僕の顔を見た瞬間、すぐに気だるそうな表情が無へと変わる……。
あ、ヤバい。にやけ顔見られた。
と、ハッとして直すも時既に遅し。亮君は哀れむように目を細め、溜め息混じりのげんなりとした風な表情で、僕の肩へ手を置いた。そしてしっかりと二度頷いてから口を開く。
「……悪い事は言わねえ。清子はやめとけ」
「あ、大丈夫。鷲塚さんに興味ないから」
即座の返答。我ながら極めて端的かつ、的確だった。
僕のドキドキと高鳴る胸の音の正体は察したようだけど、その対象を彼は汲み間違えた様子。そして尚、僕の可笑しな表情についてじゃあ深月さんの事なのかと言及してこないあたり、彼は『深月教』に入ったとしても出世は望めなさそうだ。