そのいち。
黒髪ツインテールの女の子が泣いていた。蹲って膝を抱えて、えんえんと声を挙げていた。顔は見えないけど、何となく誰かは分かる。そして彼女の前にはもう一人女の子が居て、こちらは仁王立ち宜しく両手を腰に当てて毅然とした風に立っていた。仁王立ちをしている子は僕に背を向けているけど、こちらもパッと見た後ろ姿だけで誰か分かった。
辺りは真っ暗闇。二人の髪も同じ色なのに、それが判別出来るくらいの暗さ。現実的な暗闇じゃない。そう、ここは夢の世界なんだ。僕はすぐに理解した。
『……この無能!』
深月さんは辛辣にそう言う。宛て先は僕なのか、蹲っている女の子なのか、果たして見当がつかない。だけど彼女の声を聞いた女の子は、わあと声を挙げて更に泣き声を大きく響かせる。
やがて女の子は顔を挙げた。
大きなぱっちりと開いた二重瞼に宿る大きな瞳。桜色に染まる頬は泣き顔の名残なんだと思わせるけど、彼女は声を挙げて泣いていたにしては目尻に大粒の雫を残していた。小振りな鼻筋に、鮮やかな色を着けている唇。華奢で可愛らしい姿は、なんだか平べったい印象があった。
それもその筈だ。その女の子は『それ』と言われて然るべき存在。決して三次元には居ない存在。
そう、二次元に居る僕の嫁だったキャラクター。
彼女は叫ぶように言った。
『私を捨てちゃうの!? こんな酷い事言う女の子が良いの!? 三次元じゃないとダメなの!?』
彼女の目は間違いなく僕を見詰めていた。前に立つ深月さんではなく、確かに僕を責め立てた言葉だった。
僕は何かを答えようとした。
だけどそれを口にするより早く、景色は白ばんでいって――。
僕は朧気に霞む景色を忘れていきながら、目を開く。ピピピピと言う軽やかな電子音が僕の意識を呼び起こしていき、それに伴うように、開いた視界に映る景色は鮮明になっていく。先ず僕の目が捉えたのは、先程見ていた気がする『元・僕の嫁』な女の子のポスターだった。
「……朝?」
薄暗い自室に放った言葉はこれっぽっちも響く事は無く。代わりに目覚まし時計の電子音だけが喧しく騒ぎ立てていた。
パチパチと目を瞬かせる。すると既視感を感じる天井のポスターがより一層鮮明に映って、やがてそれがハッキリと見えた頃になると、僕はゆっくりと身を起こした。その最中一度身体を捻り、筋肉質で幾らか脂肪が落ちた手を伸ばす。
止めた丸い置き時計は四時半を示していた。
どうやら寝坊はしなかったらしい。僕はひとつ頷いてから掛け布団を跳ね除けた。そして少し前よりは幾らか動かすのに気だるさが無くなった足を床へ降ろし、よっと声を漏らして立ち上がる。
四月の頃とは少しばかり様変わりをしたこの部屋。『姿見』と呼ばれる全身を映す鏡が机と本棚の間に立ててあり、ベッドの下を占拠していた使えなくなった二次元のアダルト本が全て破棄され、新たにダンベル等のトレーニンググッズが置かれている。相も変わらずオタク気質はあるものの、年頃の男子の部屋に少しは近付いただろうか。
僕は見慣れ始めたそんな自室を歩き、姿見の前に立った。置いた当初は見るのも嫌だった僕の体型だったけど、最近は少しばかりマシになったと言える。
出ていた腹はまだ少しばかり名残があるものの『着膨れ』で済む程になったし、顎回りに付いていた肉は殆んど落ちた。腕や足は未だ丸さが残るけど四月の頃と比べると見るも明らかに隆々としている。それもそうだ。もうあれから『三ヶ月』の月日を経た。少しは様になってくれないと困ってしまう。……まあまだ『ぽっちゃり』な見た目ではあるんだけど。
見てくれは相も変わらぬぼっちゃんカットの髪型が祟って、どう見てもオタクとイケてる男子を両立しているような人とは比べられないものの、それでも一見して『キモオタ』と揶揄される程じゃないと思う。むしろそうあって欲しい。
顔付きはどうだろう? 相も変わらず人相が悪いとは自覚してるんだけど、エラを厚く見せていた肉が無くなったから幾らかスッキリはしたと思う。まだ目の下には分厚い肉が残っているけど、輪郭が変われば印象も大きく変わるって母さんが言っていたし、少しは違うんじゃないかな。まあ弛んではいないものの、顎下の皮を摘まめばびよんと伸びるあたり、結構痩せた実感はある。自分じゃ毎日見てるから、気が付けばって言う感じなんだけどね。
一頻り姿見で自分の姿を確認し、僕はよしと頷いて鏡の前で足を肩幅に開く。僅かに膝を曲げて、両手を骨盤のすぐ前に差し出した。そして息をゆっくりと吸い込みながらその手を腰元へ上げ、「ふっ」と吐く息と共にへその下へ力を込め、拳をギュッと握りしめた。
僕の脳が一気に活性化する。一瞬で身体に熱が込み上げ、寝ぼけ眼だったらしい瞳がキリッと正された。亮君に教えて貰った空手の作法のひとつであり、呼吸法でもあるらしい。これを毎朝やる事によって最近は寝覚めがとても素早くなった。
僕はその後すぐに箪笥を開け、大分ダボダボに感じるようになったジャージを取り上げた。寝間着はさっさと脱ぎ去り、それを着込む。同じく取り上げた靴下も履いた。
袖をまくりあげて、学習机の上で充電器を差されたまま沈黙しているスマートフォンとイヤホンを取り上げる。言うまでもなくそれはすぐに接続され、音楽プレーヤーを起動し、イヤホンは耳に装着、スマートフォンはズボンのポケットへ入れた。
さあ、行こう。
僕は部屋を出て、まだ暗い廊下を駆けるように降りていく。既に明かりが点っているリビングの扉を開き、顔だけ覗かせた。
「おはよ」
「おはよう、純也」
「おはよう」
僕より早く起きてリビングでくつろいでいた両親に挨拶。今日も早いなと言う父さんの言葉に笑顔で答え、僕は行ってきますと返して扉を閉めた。踵を返せばすぐに玄関へ向かい、端に綺麗な形で並んでいる靴達からランニング用として買った黒いスニーカーを取り上げ、穿いた。
トントンと爪先で床を打ち、靴の履き心地を正しながら家の扉の取手を握る。ゆっくりと開けながら、僕はポケットのスマートフォンの側面を何度か押して音楽の音量を上げた。次第に僕の耳はアップテンポな音楽に支配されて、気分も昂ってくると言うもの。
よしと頷いて、僕は走り出した。
早朝と言うにもまだ早い時間帯。薄暗い住宅街に漂う冷ややかな空気を鼻から胸一杯に吸い込み、タンタンタンと刻み良く跳ねる身体に合わせて何度かに分けながら息を吐き出していく。決して走り込みと言うような過酷なものではなく、単純なランニングだった。
最近は毎朝一時間以上やっている。途中で何度も休憩を挟むけど、漸く毎日走れるようになった。それこそ始めた当初は筋肉痛のせいでとてもじゃないけど毎日は無理だったのに、人間の身体って凄いね。色々適応していくし、やればやる程変わっていく。
今じゃこのランニングは日課みたいになっていて、起床時間を二時間以上早めたのに眠気は然程感じない。動かす手足も寝起きだと言うのに、僕の意思にとても従順だ。つまるところ大分慣れてきていた。
まあ、僕一人で走るのだったら、多分ここまでなるより早く辞めちゃってただろうけどね。
目の前に広がる塀が列なる景色を、ゆっくりとしたペースで駆け抜ける。流れていく景色に視線をやりながら、昨日と変わった所を探す。大事なのは楽しむ事だから。とすれば僕はすぐに目を見開いた。
……あー、家の前の通りの端っこの家。垣根の手入れしたっぽいなあ。前は素敵なマッチョがポージングしてるような生垣に見えて、ちょっと面白かったのに。
まあもう七月だし。これから伸びてきちゃうもんね。そりゃあ垣根の手入れくらいするよ。
そう言えば最近は随分暖かくなった。まだ夏日が頻発するような気温ではないけど、それでもそろそろ夏物のジャージを用意しないととは思う。学校の制服だって我ながらいつの間にか夏服に変わってるし。
そういや、深月さんの夏服可愛かったなぁ。思わずガン見しちゃって『何か着いてる?』って聞かれた記憶が……。
僕は音楽に合わせて足を動かす。目新しいものを探しながら歩を進め、見当たらなければ僕が愛してやまない深月さんの姿を思い起こす。以前は彼女の姿を思い起こすのは自らへの叱咤激励だったけど、最近じゃ御褒美にさえなってたりする。
相も変わらず三次元な彼女からは辛辣に言われているし、それは確かに快くは思えないんだけどね。でも、僕は確かに彼女に恋をしていて、今じゃ二次元でも三次元でも彼女より可愛いと思える子なんていないとさえ思えるぐらい。
…………。
……ほんと、僕は気持ち悪い奴だな!
そうは思うものの、可愛いものは可愛いから仕方ない。そうも思う。事実僕は深月さんの妄想でもしなくちゃ欲情出来ないし、彼女以外の女の子には次元を問わずこれっぽっちも欲情しない。当然だ。主張するだけして構わないのなら、僕は事実を無視して『深月さんは僕の嫁!』って叫びたいぐらいだし。
最近はよく見てるから彼女の仕草をすぐに思い起こせる。例えば疲れがちなのか授業中は凄く眠たそうで、それでも決して寝ないでノートをちゃんととっている。だけど出てしまうのが欠伸で、彼女はそれをしちゃうと頬を真っ赤に染めながら両手で口を押さえて、『見られてないよね?』って辺りを視線で窺うんだ。もう可愛くてたまんないね!
あとは彼女の毒舌だけど、決して人の直せる所以外は言わないとか。主に甘ったれた考えを否定してるとか。何だかんだ優しくって、口ばっかり毒を吐くのに、本当に困った人がいたら真っ先に手を伸ばすタイプだとか。気付けばギャップ萌えしてる僕がいた。
あ、でもツンデレではないご様子。毒舌なだけでツンツンしてない。デブでオタクで無能と揶揄した僕にだって、話し掛ける機会があれば普通に接してくれる。……まあまだまともな会話した事ないけどね。
しかしどうやら僕は知れば知る程彼女を好きになっていくようで、惚れ直しの輪廻をしていたりする訳だ。
亮君曰くの『クラス女子美人ランキング』のトップテン入りをしてなかったのだけは、弱気な僕もグーで彼を殴ってやろうかと思ったよ。むしろ深月さんが一位だろと思うものの、まあ贔屓目なんだろうし、彼の戯れ言はスルーしたけど。
最近は本当に色々な事が変わり始めてとても楽しい。前は進藤君なんて呼んでいた彼も、今じゃ亮君と呼ぶ。彼も僕の事は純と呼ぶし、いかにも友達らしくなった。応じて僕のコミュ障だと思っていた吃り癖だって彼に対しては幾らか和らいでいて、実は人慣れしていないだけだったんだろうとか思っている。未だ慣れない人と話す時はすんごい吃るんだけどね。
それもこれも誰のおかげだろうと考えれば、深月さんなんだよね。彼女に恋をして、彼女の辛辣な言葉でぶっ刺されてなければ、多分今頃も僕はデブで気持ち悪い無能なオタクから脱却のだの字も志していないに違いない。
そして僕の決意を助けてくれた父さん。感謝してもしきれないし、返す恩は空手を頑張って何かを残せたらいいなと思ってる。まあ、亮君が僕と付き合いを始めてから脱ヤンキーを本当にし始めたらしくて、父さんはそれだけで恩返しになってるとか言ってるけどね。
「……ふう」
思案を浮かべながら走っていれば、いつの間にか休憩の定位置まで来ていた。僕は早朝の誰もいないように見える公園で走るのを止め、ゆっくりとしたウォーキングに切り替える。身体は既に汗だくで、ぐっしょりとジャージを濡らしているけど、まあまだまだ走り始めたばかりだ。気にしちゃいられない。
あまり広すぎず、かといって狭すぎず。住宅街の外れにあるこの公園は、グラウンドがあれば遊具があり、砂場やベンチ、公衆トイレや自動販売機等もあるようなもの。毎日夕方には幼い子供が遊んでいるし、花見の季節には露店が並び、祭りの季節には手持ち花火を楽しむ家族が訪れる、そんな少し広めな憩いの場所と言ったところだ。
僕は大きな遊具がある区画と砂場が広がる区画に挟まれた石畳の道を進み、やがて見えた自動販売機でスポーツドリンクを購入。ここに至って早鐘を打っていた心臓が落ち着いたのを確認し、スポーツドリンクで乾いた喉を潤しながら『待つ』。
「おう!」
……と、思ったけど、今日は早かったみたい。スポーツドリンクに口を着けながらポケットに手を入れ、スマートフォンの音量を下げていた頃。僕は然程待つ事もなくそんな声を聞いた。
視線を向ければ遠目に僕の唯一の友達の姿。進藤 亮次、その人だ。見掛けは相も変わらぬ金色のハリネズミ姿で、目付きは悪いし、ガタイは良いし、本当にろくでもなさそうな容姿。だけど彼は毎朝の日課だったランニングに僕を連れて行ってくれるような配慮をしてくれるし、実はとても優しい人だった。以前と比べると僕に接する態度も柔らかく、優しいものになってるし。
ついでに次補導されたら拘置所だからって、この三ヶ月で不良行為は辞めたらしい。タバコもバイクも窃盗も僕の固定観念がやってたように思わせていただけで、その実やってなかったから深夜徘徊を辞めただけだけどね。まあ、一応脱ヤンキーは見掛け以外完了したそうな。
僕はイヤホンを外してからスマートフォンを取り出し、音楽プレーヤーをオフにしてイヤホンごとポケットへ仕舞い直す。そして遠目から片手を挙げて駆け寄ってくる、紺のジャージ姿の元ヤンキーにおはようと笑いかけた。
「おう。おはよ」
そう言って亮君はにやりと人相の悪い笑みを浮かべた。時間は五時を過ぎている筈で、辺りは既に登り始めた陽射しが明るく照らしている。早朝には決して似合う顔ではないけど、言えば怒るから言わない。
「今来たとこか?」
「うん。時間もまだ早いよね?」
僕に倣うようにスポーツドリンクを購入する亮君。僕の質問には「あれ? マジで?」なんて言葉で答えて、彼は取り上げたペットボトルをさっさと開栓した。
僕はポケットからスマートフォンを取り出す。二次元の女の子が待受画面になっているそれを戸惑いすらなく彼へ見せれば、何時もより一〇分近く早い五時五分の時刻に眉を潜めていた。
「出る時間ミスったか……。配分ミスってねえとは思うんだが」
そう言って唸る亮君。僕はクスリと笑って返した。
「まあ、早いなら良いじゃん。そろそろ僕も休憩五分で走れると思うし」
すると彼は少し目を見開いて、やがて呆れたように肩を竦めて返してくる。
「言ったな? トレーニングメニュー増やすぞ?」
「一割増しくらいなら全然余裕だよ」
「ハッ。生意気言うようになったじゃねえか」
笑いながら肘で腕を小突かれた。以前の僕なら大袈裟に痛いと思っていただろうけど、既に僕の腕はある程度の筋肉が付いている。軽く小突かれた程度じゃ然程痛くもない。
まあそれもそうだろう。亮君が定めた僕の訓練メニューは今やとんでもなくハード。一割増しでも実は結構な回数が増える。
腕立て伏せ、腹筋は一〇〇回ずつ。背筋とスクワットは二〇〇回ずつ。加えて体幹と呼ばれる身体の軸を安定させる部位を鍛えるらしい訓練と、足を真横に一文字に開こうと頑張る股割りも相応の数と時間をこなす。これを一日三セットやり続けられるようになった今、身体の筋肉は亮君曰くある程度完成してるそうな。
始めは『三ヶ月ありゃ変わる』と言った彼の弁を嘘っぱちだと思ったけど、やればやる分だけ出来るようになるし、始めは腕立て伏せ五回で根を上げていたのがそれこそ嘘のようだ。
『知ってっか? 人間の細胞ってやつは三ヶ月ありゃ全身一新されてるんだぜ? つまり三ヶ月後のお前は別人なんだよ』
とか言っていた四月の彼。その言葉を僕はもう疑っていない。