全
「あれ、ちょっと待てよ......」
原付きバイクで走行中、男はある事にふと気付いた。
バイクを止め、上着とズボンのポケットを両手で弄る。
「やっぱりか......財布忘れてる」
男は深い溜め息を吐き、がっくりと肩を落とした。
バイクを引き、路肩から歩道へと歩く。
「腹減ってんだよ......飯食おうと思ってたのに......」
俺って目的を失うと無性に脱力を感じるんだよね。
「参ったな」
男がバイクにまたがろうとした時だった、前方から子供の泣き叫ぶ声が聞こえた。
「ああ......誰か!誰か!」
母親らしき女性が、子供の横で混乱するように声を張り上げている。
泣き叫ぶ子供は自転車と共に横転している。
「どうした?」
すぐに男は駆け寄って行った。
そこには5歳くらいの子供が、自転車のチェーン部分に脚を挟み、悶える姿があった。
「あの......これ......どうしたら......?」
今にも泣き出しそうな若い母親。
「おお、これは厄介だな。とりあえずチェーンを切断するしかなさそうだ」
「でも、あの......どうやって......?」
「心配するな」
男はバイクのシートをパカリと開き、ある物を取り出した。
「このブッといハサミなら鉄も切れる」
男は鉄切りハサミみを取り出すと、すぐに子供の元へ向かった。
「おい少年。お兄さんが来たからもう大丈夫だ。それから動くなよ。動いたら脚まで切っちまうからな」
少年の泣き叫ぶ声で、辺りに人が集まり出していた。
「ああ......ありがとうございます......」
震える声で男に頭を下げる母親。
「良いって。でもさ......ちょっと待ちなよ奥さん」
チェーンに当てたハサミをゆっくりと離した男。
「前の話なんだけどさ。ちょっと聞いてくれる?」
「え?なんでしょうか......」
唖然とした表情を浮かべる母親。
「前にさ、こんな感じの同じような場面に出くわした時があってな、俺、人の命を救ってやった事があるんだよ」
自転車のチェーン部分に挟まった子供の脚は、見る見る黒ずんでいっていた。
「あの時は車のドアガラスをさ、壊して助けてやったんだよ。その時は凄く感謝されたよ」
「あの、早くしてもらえませんか?」
徐々に苛立ってくる母親。
「その後でさ、命の恩人の俺にだよ?そいつらがさ、俺にドアガラスの弁償を請求してきやがったんだよ」
「あの!そんな弁償しろなんて言いません!とにかくすぐにお願いします!」
声を荒げた母親。
それに比例するかのように子供も泣き声をヒートアップさせる。
「それを聞いて安心したよ」
男はニヤリと笑い、ハサミを手にしチェーンに刃を当てる。
「でもちょっと待てよ......」
再度ハサミから手を放した男。
「いい加減にしてください!お願いします!子供を......子供を......」
目から涙を零す母親。
「所詮、口約束だからさ、後からなんとでも言えるよな?」
母親は唇を噛み締め男を睨んだ。
「そう怖い顔するなよ。つまりはさ、あんた自分で切れよ」
それを聞いた母親はすぐにハサミを手に取った。
「コウちゃん、今助けてあげるからね!」
「ちょっと待った」
ハサミを手にした母親の腕を掴んだ男。
「これ俺の道具だよな?」
「は?」
「前払いでいいかな?」
男は爽やかにニコリと笑った。
「どんな物にでもレンタル料って発生する世の中だよ?こういう工具は尚更だよ?なんてったって今時CD1枚レンタルするのだって......」
「いくら!?いくらなの!?」
男の言葉を遮った母親は、大粒の涙を流しながら声を荒げた。
「非常時だから高いよ。10秒100円でいい?」
すぐに財布から万札を取り出した母親は、投げるようにそれを男に渡した。
「待っててね......コウちゃん、すぐ助けるね......」
「ちょっと待った」
男は更に母親の腕を掴んだ。
「なに!?あんたなんなの!?頭おかしいの!?」
絶叫に近い母親の叫び。
ざわめく周囲の人々。
「念のために俺が切ってないって言える為にさ、動画撮っていいな?」
「勝手に撮れよ!」
「じゃ、携帯貸しな」
「は?」
「いや、財布も携帯も忘れてきちまってさ」
母親は投げ付けるように携帯を渡す。
「なんなのあんた.....絶対頭おかしいよ......」
「俺か?俺の名前は全。全部の全と書いて全さ」
男はキラリと白い歯を覗かせ笑顔を見せた。
「って聞いてねえか。おう、それじゃ撮るぞ。待て待て、まだ切るなよ。この携帯って動画の画面ってどうやってやるんだ?」
母親は男の言葉を無視し、チェーンにガチャガチャとハサミを入れる。
「おう、やっと動画開けたぞ。そんじゃ撮るよ。おいおい、メールきてるけど読もうか?」
「き......切れない......切れないよ......」
背後に集まった人々の顔を見渡し、泣きながら助けを懇願する母親。
その顔は涙と鼻水で化粧が黒く落ちてしまっていた。
顔を背ける人々。
中には逃げ出すように歩き出す人間もいた。
「おいおい、それじゃ切れねえよ。鉄を切るコツは小さく刃を入れてチマチマ切るんだよ」
「うるさい!あんた一体なんなの!?それでも人間なの!?」
「人間?そう人間さ」
男は必死にハサミを使う母親を見て笑い、そして周りの人間達をゆっくりと見渡した。
「そうだよなぁ、てめえら人間はとことん人間を助けねえ生き物なんだよな。てめえの事しか頭にねえもんなぁ。よく分かってるよ」
チェーンを切断し終わった母親に男は優しく声を掛けた。
「悪いのは誰だ?俺も含めて人間だろ?だったら、助けなんて呼んでも仕方ねえよな?」
顔を涙でぐしゃぐしゃにした母親は、その顔で男を睨んだ。
「いいぞ、その顔。だがこの連中は何も感じない」
そう母親に促した男は静かにバイクにまたがった。
「泣いても叫んでも応えがないこんな世の中なら、解放させてみるか」
鋭い目付きで周りを見渡した男。
辺りの人々はそんな男の目線から目を逸らした。
「救急車くらい呼んでやれよ。とことん屑しかいないもんだな」
そう呟いた男は勢いよくバイクで走り出した。
気付けば陽も沈みかけている。
黄昏を眺め浴びる向い風が頬を抜けていく。
冬を感じる冷たさと痛さを手と顔で感じながら、男はニヤリと笑った。
「飯代儲けだぜ」