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二人の憲兵が僕の家の扉を激しく叩いた。
「反革命的人物の引渡しを要求する」
応対に出た母に向かって、彼等は抑揚のない声で言って、強引に家に押し入ってきた。 母は悲鳴のような声を上げて、彼等を止めようとしたが、彼等は母を突き飛ばして、部屋中をひっくり返し始めた。
僕は二階にいて、階段から様子を見ていたが、彼等が僕を捜しているのだという事が分かると、僕はとても恐ろしくなった。
今まで逮捕された村人は、ほとんどこうして連れ去られたのだ。彼等は僕を捕えるつもりなのだ。そして、労働のできない僕は処刑されるのだろうか。
憲兵の一人が二階へ登って来た。僕は慌てて自分の部屋のクローゼットに入り、床板の隙間から天井裏に隠れた。僕は憲兵が寝室にいるのを確認して、通気孔からキッチンに降りて、裏口から外へ出た。
外には見張りの憲兵がいて、僕の姿を見つけると大きな声を上げた。僕は慌てて路地を走り、送電溝の入り口の石盤を開けて、そこに潜り込んだ。送電溝には各家庭への送電線が埋め込まれた細いトンネルで、大人が這ってしか入れない大きさしかなく、村中に迷路の様に張り巡らされていた。僕はその中を夢中で走った。送電溝は何度か枝別れした後、村の外れで行き止まりになった。
僕は石盤の隙間から外を見た。そこは村の南の井戸で、夕食時の為、村の女達が何人か水を汲みに集まり、話をしているようだった。 僕は石盤を少しずらして、様子をうかがい、すぐにエレーナの姿を見つけた。
「エレーナ!」
僕は送電溝を飛び出して、驚いた様子の女達に目もくれず、エレーナに駆け寄った。
「どうしたの」
僕の慌てた様子を見て、エレーナは不思議そうな顔をした。
「話している時間はないんだ。一緒に来てくれ。僕は奴等に殺されるかもしれない」
遠くで激しい軍用犬の鳴き声がしていた。 時間がなかった。
*
「行こう」
僕はエレーナの手を引いて青々と伸びた小麦畑の中に駆け込んだ。小麦畑には風が吹いていて、一面ざわざわという音を上げる。僕はその度、追っ手の物音の様に思い、更に速度を上げて走った。
僕は南の森を目指した。あそこに入れば隠れる場所はあるし、高台になっているので見晴らしもきく。
その後はさらに南を目指したほうがいいのだろうか。南には政府の開拓地総督府があり、革命軍の勢力がまだ及んでいないかもしれないと言う話を父から聞いた。もちろん確証は無かったし、未開拓の砂漠地帯を横切る行程は、村を一度も出た事のない僕には苦難の旅になるだろう。
それともどこかの森に潜伏するべきなのだろうか。
どちらにせよ、僕の前途には絶望的な困難が待ち受けているようだった。
しかし、僕は僕の小さな手の先を通じて、エレーナの手の暖かさを感じていた。エレーナが息を切らしながら懸命に僕の手を握っているのだ。
エレーナは僕の逃避行の唯一の、そして強力な希望だった。彼女の存在は僕に、未知の世界を目指して旅立つ勇気を与えてくれるようだった。彼女がいれば僕は苦難の行程をどんな事をしてでも乗り切れると思った。
僕は彼女がいる限り、どれだけでも強くなるつもりだった。
僕は走りながら、彼女の手を強く握り締めた。
*
「ちょっと待って」
小麦畑の真ん中で、エレーナは僕の手を振り払い、立ち止まった。
「どういう事なの」
息を切らしたエレーナの声は少し僕を非難しているようだった。
僕は憲兵が僕の家を捜索した事、僕は逮捕されて殺されてしまうかもしれない事をエレーナに話した。
「それで?」
エレーナは明らかに不機嫌な調子で僕に言うと、その場にしゃがみ込んだ。僕は戸惑った。
「だから、一緒に逃げて欲しいと…」
「きっと私は足手まといになるわ」
エレーナは僕を見ずに言った。
「いや、そんな事ないよ。君がいてくれないと僕はそんな旅には耐えられない。僕は君と一緒に彼等のいない土地に行って二人で暮らすんだ」
エレーナはしばらく何も言わなかった。僕は続けた。
「僕は君の為ならどんな事でもするよ。きっと君の為なら誰より強くなれるし、それに…」
「やめて」
エレーナは短く口をはさんだ。そしてもう一度ゆっくりと同じ言葉を繰り返した。
「正直言って迷惑よ。そんな事言われても困るの」
「でも、君はずっと一緒にいたいと言ってくれたじゃないか」
エレーナは頭を抱えた。
「あの時はあの時よ。状況が違うわよ。それに、こんなのって…」
「迷惑、なのかい?」
僕はなるべく何も考えないようにして、エレーナに聞いた。
「あなたと二人で見知らぬ土地で暮らす?」 エレーナは僕を睨みつけた。
「どうして私がそこまでしてあげなくてはいけないの」
「………」
僕は言葉を失った。大きな過ちを犯した事にやっと気づいたのだった。
エレーナは僕を受け入れてくれていた。僕が彼女に甘えるのをエレーナはやさしく許してくれていた。しかし、甘え過ぎてはいけなかったのだ。僕は明らかに要求し過ぎた。
彼女は黙ってうつむいていた。彼女は怒っているのだ。そして、(どうして私にこんな事まで言わせるのよ)と思っているに違いなかった。
「ごめんよ。僕は…」
その後に続ける言葉が見つからず。僕は口を閉ざした。
沈黙を破るようにエレーナが少し軽い調子で言った。
「南に行きなさいよ。きっとまだ政府が管理する土地があるはずよ…。きっとあなたなら大丈夫よ」
「………」
エレーナは立ち上がった。
「奴等にはあなたは別の方角に逃げたと言っておくから」
「エレーナ…」
僕は立ち去ろうとする彼女の背中につぶやいたが、エレーナは振り返る事もなく、聞こえない様子で歩き続けた。
僕は青い麦の中に彼女の姿が消えていくのをじっと眺めていた。
*
僕は一人で南の貯水池へ行った。僕はまた過ちを犯してしまった。今度は随分巧妙に仕組まれていたが、結局は僕をさらに悲しませる、やはり、罠だった。
今回はロマノフを失わなかっただけましかもしれなかったが、どうしようもない悲しみが、僕の小さな体にのしかかるようだった。 僕のようなおかしな人間と一緒に逃げるなんて、誰が考えても望ましいはずがなかったのだ。
きっとエレーナでなくても同じ考えを持っただろう。僕はみんなと違うのだ。僕はみんなとの距離を知っておくべきだったのだ。
革命軍のせいではなく、僕は最初から一人ぼっちになる運命で生まれて来たのだ。
それを、僕だけが忘れていた。
僕はまるっきりの馬鹿なのだ。
なんの取り柄もない、おかしな姿をした、まるっきりの馬鹿なのだ。
*
僕はまた声を出さずに泣いた。涙は次から次へとめどなく流れてきた。