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それからしばらくの間、僕は部屋でクリスからもらった書物を眺めて過ごした。
ロマノフを失い、クリスのやって来ない僕の生活は単調そのものだった。僕は一日中の退屈の為、憂鬱で無気力になって行く自分を感じていたが、どうしようもなかった。
ある日、僕を訪ねて来たジョンが僕にある提案をした。ジョンは僕に学校に来る様に勧めてくれたのだ。ジョンは学級委員をしているそうで、先生に僕の事を話した所、本人が望むならそうした方がいいと言ったという事だった。
そのとき、僕は曖昧にうなずいだけだったが、その話に正直かなりの興味をかきたてられた。
ジョンが帰った後、僕はキッチンでシチューを作っている母の所へ行った。
「僕、学校に行ってみようと思うんだけど」 母は作っている手を止めた。
「学校?」
「今日、ジョンが言ってくれたんた」
母は喜んでいたようだが、少し不安気な表情を浮かべた。
「とても、いいアイデアだと思うわ。でも、あなたは今まで、一度も大勢の子供達の中に入った事はないし、それにあなたは…」
そこまで言って母は口ごもった。
逆に僕は口に出してしまった事で、随分不安が和らいでしまった。
「だからこそ挑戦が必要だと思うんだ」
僕の力強い言葉に母は目を丸くした。
「あなたがそんな事言うのは初めてだわ」
それからの母はとても上機嫌だった。母も他の子供と違う、家に閉じ籠もりっきりの僕を持って、ひけ目を感じながら生きていたに違いない。僕が人並みに社会に溶け込んでいく事をきっと心の中で望んでいただろう。
僕もなんだかとても嬉しい気分になった。 帰って来た父はさらに喜んで、倉庫にある地球製の年代物ワインを持ってこさせた。
夕食では神に祈りを捧げた後、僕のコップにもワインが少し注がれ、乾杯が交わされた。
僕もその赤紫の液体を少し口に含んでみた。甘いような苦いような不思議な味がした。
「実は、僕にできるかどうか少し不安があるんだ」
僕が言うと父は大きくうなずいた。
「何でも、最初の挑戦と言うのは不安が付き物だよ。おまえはとても優秀だとクリスも言っていたじゃないか。きっとうまく行くさ。そう信じる事が一番大切だよ」
食卓はとても明るい雰囲気だった。ワインのせいも手伝ってか、とてもいい気分だった。
その日、僕は少し興奮した気分で寝床についた。なかなか寝付けなかった。僕は今日のいい気分を思いだしながら、閉じられたカーテンの隙間から差し込む、人工太陽の光がつくる小さな日溜まりを眺めていた。
*
翌日、学校の先生が我が家にやってきた。
「私は五年生のクラスを担当しているアンソニーと申します」
五十ぐらいの銀髮のスコットランド紳士は母に礼儀正しく挨拶をした後、僕の方を見た。
彼は小柄ながらがっちりした体格をしている。彼の閉じられた口もとや、まっすぐ僕をみつめる目からは強固な意思を感じさせた。
「君は一度も学校に通った事がないんだね」
「そうです」
僕が緊張ぎみに答えるのを見て、彼は表情を崩して言った。
「君にとっては新しい挑戦だろう。心配しなくても大丈夫だよ。意思と努力があれば、必ず道は開けるものだからね」
彼の笑顔に僕も安心感を持った。
一同はテーブルについた。アンソニー先生は、紅茶を一口飲みティーカップをテーブルに戻した。
「もちろん学校は一年生から始めるものですが、ジョン君から、彼はずっと家庭教師によって勉強を学んでいたと聞きました。彼の年齢なら普通は私のクラスに編入してもらう事になります。御両親の側に何らかの希望がありましたら、承りますが」
「息子は本当に五年生の授業について行けるのでしょうか?」
母は不安気な様子で聞いた。
「もちろん私共もその点は心配があります。そこで、彼にテストを受けてもらおうと思うのですが」
「そのテストと言うのは…」
「いや、とても基本的なテストです。彼の能力云々ではなく。授業についてこれるだけの知識があるかについて確かめるものです。できれば、今度の土曜日の午後に行おうと思うのですが、いかがでしょうか」
そうして、土曜日に学校でテストを受ける事が決まった。
*
土曜日、母が作ってくれたいつもよりも豪華な昼食を食べた後、僕を迎えに来てくれたジョンと一緒に学校に向かった。
学校は広場を越えた、街の反対側にある。 僕はまだ一度も学校を見た事がなかった。
僕は少し緊張しながらジョンの後、石畳の道を進んだ。背中のリュックにクリスが作ってくれた僕用の鉛筆を背負っていたが、その重さを全然感じなかった。
「ここが学校だよ」
ジョンが言った。僕は学校を見上げた。
芝生の丘の上に白い木造の二階建て校舎が建っていた。そのなだらかな緑のスロープの中に一筋の石畳が一直線に続いている。
先を進むジョンについて、僕も学校へのゆるやかな坂道を歩んだ。心地良い風が僕の頬に触れ、所々に咲いた黄色や白や紫の花々が、まるで僕を歓迎しているようだった。
学校が近づくにつれ、僕の胸は不安に高鳴った。これからここで行われるテストについて、そして、その後に始まる新しい日常について。
後悔する事はないだろうか。
僕は引き返したい気分になったが、その決断を下す事ができず、校舎の中に進んだ。
ジョンが教室の扉を開けると、窓際でアンソニー先生が一人の女生徒と何か話していた。 「やあ、待っていたよ」
アンソニー先生は僕に微笑みかけ、そう言った。僕の注意は彼よりも傍らにいるブロンドの少女に向けられた。色白でほっそりした彼女は青く澄んだ瞳で僕に微笑み掛けた。
「彼女はエレーナさんで、ジョン君と一緒にこのクラスの学級委員をしてもらっている。今日は君のテストの手伝いをしてもらう事になっている」
「あなたが私達のクラスの仲間になる事を祈っているわ」
彼女は綺麗な笑顔でそう言った。僕は今までにそんな素敵な笑顔を見た事がなかった。
「ジョン君、今日はもういい。ありがとう」
先生が扉の所で立っていたジョンに言った。
「それじゃ、がんばれよ」
ジョンは僕に手を振った。
「うん、ありがとう」
僕が言うと彼は教室を去って行った。
*
「さあ、テストを始めよう。席についてくれたまえ」
僕は先生が指示した一番前の机によじ登った。
先生は僕の机の上に一枚の紙を置き、黒板に算数の問題を書き始めた。
「この問題を三十分で…」
先生が黒板に全ての問題を書き終わるのと、僕の解答が終わるのはほぼ同時だった。
「先生、できました」
唐突に僕が答えたので、先生は目を丸くし、僕の答案を拾い上げた。
「君は家庭教師から数学を習っていたのかね」
「ええ、数学と生物と物理と歴史と文法と哲学と…」
先生は僕の机に答案をもどし、眼鏡を外した。
「全て正解だ。特に五番の答え方は上級学校で習う方法だよ。おめでとう合格だ。後の試験はもういい」
アンソニー先生は笑顔で僕に右手を差し出した。僕は両手でその手を握った。
「ありがとうございます」
僕はアンソニー先生にそう言った。とても誇らしい気分だった。
「エレーナさん。彼を家まで送って行ってもらえるかね」
「ええ、構いません」
エレーナは僕が机から下りるのを手伝ってくれた。彼女の手は軟らかく、肌は透き通るように白かった。
*
「あなたって頭がいいのね」
エレーナは陽射しを避ける為に白い日傘を差し、白いつやのある素材で出来た手袋をしていた。
「別に頭がいいとかそういう事じゃないよ、知っている事を答えただけだよ」
「あなたって、面白いわ」
エレーナは笑った。僕には彼女の笑いの意味が分らなかった。
「僕は他の子供の事をよく知らないけど、別に面白いとは思わないよ」
そういうとエレーナはクスクスと笑った。 「そういう所が面白いのよ」
僕はエレーナを見た。エレーナは相変わらず笑っていたが、僕はどうしていいか分からずに、うつむいてしまった。