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 その頃の僕にとって最も大きな悩みは、日曜日の午前に教会へ行かねばならない事であった。

 教会では僕を異端審問に掛けた飲んだくれの牧師がつまらない演説を聞かしたり、神に祈ったり、神を称える歌を歌ったりした。僕の宗教観はともかくとして、多くの人間の中に出かけると言う行為が僕をとても憂鬱な気分にしたのだ。

 敬虔なキリスト教徒である父と母は、僕に特別に作ったよそ行きの服を着せ、毎週僕を教会に連れ出した。

 道中、母の腕に抱かれた僕は、何度もいやだと言ったが、決まって父は困った顔をして僕に言った。

 「そんな事を言う物じゃない。おまえだって神に守られているんだ。感謝しなくてはいけない」

 本当に神がいるなら、僕は日常の安全よりもむしろ、人々の僕に対する冷ややかな視線からの庇護を願っていた。

 日常生活の大半に於いて、その願いは適えられた。ただし、日曜の朝を除いて。

 教会での僕は机の上に座らせられ、否応なしに人々の好奇と嘲笑の目に晒されなくてはならなかった。

 大人達は、もちろん、僕を受け入れた事になっていたし、偽善ではあれ、めぐまれない子供を、ましてや教会に於いて、差別するべきではないと考えていた。

 しかし、彼等が時に、僕の出生を母の業病のせいだと噂し、哀れみの冷ややかな視線で僕らを見ている事は明らかだった。

 子供達はもっと露骨に僕をおかしな目で見た。僕を怪訝な目で覗き、小さな声で隣の子供に何か囁いているのを見る度、僕はいつも消えてしまいたいと願った。神が僕の庇護の代償としてこの様な罰を求めているなら、それはとても理不尽な事に思えた。

 僕は何度もその事を父に言ったが、父は黙って首を振るだけだった。

   *

 ある日、僕が窓から外を眺めていると、一人の少年が下から除いているのに気付いた。

 「なにか用」

 僕の問いには答えずに、少年は一方的な調子で言った。

 「おまえ、俺達の仲間に入れてやってもいいんだぜ」

 「どういう事?」

 「仲間が南の貯水池にいるんだ。おまえを仲間にしてやってもいいと言っている」

 僕は床に座っていたロマノフを見た。ロマノフは少し疑い深い目で僕を見ている。

 僕は少し考えたが、窓の下の少年にそこで待っている様に頼んで、部屋を出て階段を降りた。ロマノフも心配気な顔で僕についてきた。

 「なあ、おまえは学校に行かないのか」

 南の貯水池がある森に続く道を歩きながら少年は聞いた。

 「学校?」

 「ああ、そうさ。普通の子供達はみんな学校へ行くんだ」

 「そこで何をするの」

 「勉強をしたり、色々さ」

 「勉強は家でしてるけど、学校って楽しい所?」

 「友達がいるからね。楽しいよ」

 もし普通の子供のように学校に行けたら楽しいかもしれないと、僕は考えた。

   *

 鬱蒼と木が茂った湿った森の中に貯水池はある。森には空気を合成して水を作る装置があって、一年中じめじめとしていた。

 水や汚れる事が嫌いなロマノフは、今までこの場所に入りるのを嫌っていたが、僕を心配してか、今日は森の奥へ続く山道を登り僕の後をついてきた。

 「連れて来たぜ」

 貯水池のほとりには三人の少年が待っていて、そのうちの大柄な一人が僕の前にやって来た。

 「僕を仲間にしてくれるの?」

 僕は聞いたが、彼は答えずに一人の背の低い、すばしっこそうな少年に何かを合図をした。

 「ただで仲間にする訳にはいかねえんだ」 少年は木の小さな棒を持って、貯水池の端にあるコンクリートの取水口の上に立った。 貯水池の真ん中には小さな細い塔が立っていて、その塔の一番上に向けて用水路の取水口から電力供給用の金属製のパイプが伸びていた。

 少年は棒を持ってそのパイプを登って行く。

 「あいつがこれから塔の上にあの棒を置いてくる。あれを取って来たら、仲間にしてやるよ」

 「あそこに登るの?」

 僕が言うと彼は口を歪めて笑った。

 「怖じ気づいたのか、勇気のない奴は仲間になれないんだぜ」

 「ここにいるみんなは、それをやったの」 彼等は歪んだ笑顔でお互いに目配せをした。

 しばらくの沈黙の後、彼は言った。

 「ああ、みんなやったんだぜ」

 用水路の取水口には大量の水が流れ、パイプの下で大きな渦を巻いている。かなり危険である事は明らかだった。

 小柄な少年は塔の上に棒を刺してパイプをするすると下りてくる。

 「さあ、やるのかやらないのか、決めな」

 彼は僕に催促するように言った。

 僕は木の影で事の成り行きを見守っていたロマノフを見た。ロマノフは僕の挑戦には反対なようだった。

 僕は迷ったが、この事が僕の人生を一気に好転させる出来事になりそうな気がしていた。

 ここで僕の勇気を示す事で彼等は僕を対等に扱ってくれるだろう。もう、人々の視線に怯える必要がなくなるかもしれないと言う誘惑は、どんな危険と引き替えであったとしてもとても禁じ得るものではなかった。

 「分かった。やるよ」

 彼等は一瞬とまどった顔をした。

 「やめるなら、今のうちだぜ」

 僕は取水口に向かって歩いた。僕の心臓は高鳴っていた。ロマノフは心配そうに僕の後をついてきた。その後ろから少年達もぞろぞろとやってくる。

 僕はパイプの前に立った。取水口はまるで地獄への入り口と入った様相で、ごうごうと大きな渦を巻いていた。

 僕はパイプを掴んだ。腕に金属の冷たい感触が触れる。僕は意を決してそれを登り始めた。僕はなるべく下を見ないようにして、ただ頂上を目指した。下で少年達が何かを言っていたが、僕の耳には届かなかった。

 取水口の低い唸りが、ゆっくりした、それでいて力強い水流の存在を示していた。

 水流が僕を飲み込もうと下で待ち受けている事をなるべく頭の隅に追いやった。

 そして、僕は少し上だけを目指して登り続けた。僕は希望を信じた。掴んだ金属のパイプだけがそれを僕に保障してくれるのだと自分に言い聞かせた。僕の緊張した腕は果てしなく同じ動作を繰り返し、頂上は限り無く遠く感じた。

 僕はあまりに緊張していたので、自分がこれ以上登る必要がない事を確認した時、それが頂上だと考えるまでは少し時間がかかった。 僕は塔の上に立って辺りを見回した。水分観測の為の塔らしく、その狭い頂上部には色々な観測器具らしいものが置かれてあった。 それほど高い塔ではなかったが、塔の上からは南の貯水池が一望出来た。少年達とロマノフは取水口の上から僕の様子を固唾を飲んで見ている。

 「やったんだ」

 僕は小さく呟いた。そう口に出すと、僕の小さな体の隅々まで震えが来るようだった。

 なるべく興奮しないように、僕は自分のすべき事を冷静に思い出した。

 僕は観測器具の間に刺された小さな木の棒を抜いて脇に抱え、元の場所へ下りようとパイプに手を伸ばす。そして、僕はもう一度高みから少年達を見下ろした。少年達は少し驚いたように僕を見ている。ロマノフはまだ心配そうに僕を見ていた。

 僕は英雄になったのかもしれないと思った。

 だとしたら、僕はこの契約の棒を持って自らを解放する、自由の英雄なのだ。


 突然の風が唸りを上げたのは、僕が片足を上げた瞬間だった。

 突然の事態に、不安定な態勢だった僕の体がぐらついた。僕は近くのパイプを掴もうと手を伸ばしたが、風が僕の足もとをすくった。あっと思った時には遅く、僕の体は宙に浮き、水流が渦を巻く水面に引き込まれて行く。

 「助けてくれ」

 水面に落ちた僕の体は水流に揉みくちゃにされ、何か大きな力で引き寄せられた。

 「なんてこったい」

 「俺は知らねえぜ」

 少年達が口々に叫んでいるのが途切れ途切に聞こえる。僕の体が大きな力で取水口に吸い込まれて行くのが分かる。このトンネルは村まで続いていて、落ちればもう助からないだろう。僕は必死に抵抗を続けたが、僕の小さな手はあまりに無力だった。僕の体が取水口に吸い込まれる。

 『もうだめだ』と僕が思った瞬間。後ろから大きな固まりが僕の体を押し戻すのを感じた。僕は夢中で目の前にある棒にしがみついた。

 それは取水口にひっかかった木の棒で、しばらくして、人の手が僕を掴んで引き上げるのを感じた。

 「ごめんよ。こんなつもりじゃなかったんだ」

 しばらく気を失っていたのか、気が付くと僕を家に迎えに来た少年が僕を覗き込んで言った。彼のほか、辺りに人影はなかった。

 「大丈夫かい。僕はもう君が死んだのかと思ったよ」

 少年は今にも泣きそうな様子で言った。

 「心配しないで、僕は大丈夫だよ。それよりロマノフはどうしたの」

 「ロマノフ?」

 「そうさ、僕と一緒にいた猫さ」

    *

 その日、ロマノフは見つからなかった。

 翌朝、用水路の出口で溺れて死んでいるロマノフが発見された。

 水嫌いのロマノフは、僕を助ける為に自らの命を顧みず、貯水池に飛び込んだのだ。

 「ロマノフも年だからな、足でも滑らして用水路に落ちたのだろう」

 庭にロマノフの墓を掘りながら父は言った。 僕は冷たくなったロマノフの腕を握っていた。

 僕は事件の真相を父には話さなかった。

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