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ケルベロスの屍を、片足で踏み付けるようにして悪魔が立っていた。流れ落ちたケルベロスの青い血が、地面を伝って湖へと流れている。血は音を立てながら凍った湖面を溶かし、白い湯気を上げていた。
「悪魔はそれほど邪悪な物じゃない」悪魔は唇を歪めて僕に笑いかけた。「神なんて者がいるのかどうかは知らないが、もしいるなら、おそらく俺は奴の意思で造られたに違いない」
「神の意思?」
「そうだ。この世には快楽よりも、苦痛の方が遥かに必要とされるものだ。人は常に自ら不幸への道を選ぶ」
「僕は」僕は悪魔を見上げる。「僕は今、あえて君に反論する気はないよ」
悪魔は大きな声を上げて笑った。
「世界には罰が満ちている。それが必要とされるからだ」
「そして、それを司るのが君だ」
「…おまえは理解が速いな」
「僕が天使になるとしたら」僕は悪魔に聞いた。「それは罰なのかい」
「そうだ」悪魔は答えた。「おまえもおれも罪にまみれている。だから、それぞれの方法でそれを他の者になすり付けるのだ」
「………」
僕はうなだれた。悪魔が僕に手を差し出す。
「さあもういいだろう。これ以上、俺の邪魔はするな。さあ、おとなしく家に帰るんだ」
僕はうなずいて悪魔の方に歩み寄った。
悪魔は僕の体を掴み、稲妻と共に僕を天空へ放り投げた。僕の体は空気に溶け、風と共に空を舞った。
*
その時、政府軍は太陽の届かない極寒の惑星に追われていた。
それでも、圧倒的な生産力を誇り物量に勝る革命軍は、政府軍をこの宇宙から抹殺せんとするかのように、さらに攻勢を強めていた。 もう目と鼻の先に迫った革命軍を前に、政府軍の指令部はある決断を迫られた。月の前線基地を失った時から検討され続けたその最終作戦は、戦局を大逆転させうるものだったが、同時に失うものが余りに多すぎた。
政府軍の提督は連日各国の代表を集め、作戦行動の是非を議論した。しかし、それ以外に取り得る起死回生策などありそうもなく、そして、そうしているうちにも革命軍は確実に政府軍基地に迫っていた。
裁決に於いて賛成したのはごく少数の国にすぎなかったが、他の国は敢えて反対する事もなく、多くは裁決を棄権すると言う態度を取った。
そして作戦は決行される事になった。
*
惑星軌道上では作戦遂行の時間を稼ぐ為の行動が取られた。政府軍はありったけの戦力をかき集め、革命軍の前線隊に中央から対した。革命軍はそれを、政府軍が最後の戦いに出たものと考え、付近の戦力を集中して一気に政府軍の殱滅を計った。
激しい戦火の中、高速戦艦に守られた三機の大型ミサイル母艦が、包囲網をかいくぐるようにして密かに基地を出航した。
艦隊は発見されないように小さな隊列を組み、最大速度で革命軍のレーダー網を破り、一路開拓星を目指す航路を取った。
失敗の許されない作戦だった。作戦に参加した兵士の中でも、作戦の実際の目的を知る者はほとんどいなかった。
燃料タンクを増設して、推力の強化を計るべく改造された九機のミサイルは、その代わりに弾頭部分に火薬をまったく積んでいない代物だった。
*
僕は大地を渡る風に乗り、湖面に波を立て、平原の草木を揺らした。僕は遥かな地平線を眺めながら村を目指した。
南の太陽はこれから起こる事を知らないように軋みを上げて、開拓地の上空を回っていた。放置された麦畑は荒れ果て、黄色く伸びた雑草が風になびいていた。
そして、僕はつつましい農家の二階に置かれた、青い小瓶に戻ってきた。
僕は空を眺めた。暗い窓辺には相変わらず日が差さなかった。僕は空を眺めた。やがて赤い炎に包まれるであろう、北の空を眺めた。 *
(帰って来たのね)
彼女は僕を優しく迎えてくれた。
「僕は一人で帰って来たよ」
僕が言うと彼女は僕を包み込むようにした。
(仕方がないの。あなたのせいじゃないわ。忘れなさい)
「悪魔が言ったよ。僕は罰として天使になるんだって」
彼女はそれについては答えなかった。
(何も考えては駄目。忘れなさい。あなたは何でも考え過ぎるのよ)
僕の目から涙が溢れた。声を上げて泣く僕を、彼女は優しく撫でてくれた。
*
政府軍のミサイル艦隊は開拓地の人工太陽を追尾する軌道に乗った。三隻のミサイル艦は戦艦から離れ、太陽に限界まで接近していく。
ミサイル艦は九門の発射管を開き、あらかじめ計算された地点に向かう。艦は三角形に隊列を組み直し、同時にミサイルを発射した。 ミサイルは巨大な炎を吐き出し、軌道を修正しながら太陽の目標地点に向かう。ミサイル艦隊は、すぐに太陽から距離を取るべく向きを変え、全力で開拓星から離脱した。
ミサイルが太陽に突き刺さった。
太陽からは巨大な火柱が上がったが、ミサイルはそれ以上の炎を上げて、太陽を巨大な推力で押し続けた。
やがて、太陽は本来の軌道を外れ、ゆっくりと北へ向かい始めた。
*
太陽が北の空に消え、しばらくすると北の空が赤く光った。そして、激しい爆風と炎が開拓地を包んだ。
村は爆風に飛ばされ、僕の小瓶は地面に叩き付けらた。そして、激しい炎の中で全ては溶けて蒸発していった。
大爆発の中、僕と彼女はゆっくりと開拓地を離れ、空に登って行く。
激しい光りはやがて収まり、再び宇宙に暗闇と静寂が戻った。
*
僕は天使になった。
僕は彼女を見た。
そこにいたのは、かつて僕を救うために溺れて死んだ、猫のロマノフだった。
「やっぱり、君だったのか…」
ロマノフは目を細くして微笑んだ。
*
上半分が吹き飛び、いびつな形に変形した開拓星は、やがてゆっくりと本来の軌道を離れた。軌道を外れた開拓星は多くの破片を伴って、太陽に向けて航行を始める。太陽の強力な重力に引き寄せられて、星は序々に速度を上げていく。
そして、その進路上には青く輝く緑の惑星。人類の母星である地球があった。二つの星は運命に導かれるように、互いに衝突地点を目指して進んでいく。
*
「これですべては終わるの?」
涙を拭いて僕が聞くと彼女は首を振った。
「終わりなんてないの。すべては永遠と言う物語の一ページに過ぎないのよ」
「ぼ、僕は…」
言葉を捜す僕を彼女が制した。
「何も考えては駄目。すべては忘れるの」
彼女は僕に向けて微笑んだ。
それは、昔、彼女が僕を村外れの教会を見下ろす大木の上に連れて行ってくれた時と、同じ微笑みだった。
僕も同じように微笑みを返した。
「もう、行きましょう」
彼女は僕の手を引いた。
僕達は彼女の導くままに宇宙空間を登って行った。握られた彼女の手はとても暖かく、僕にはとても心地がよかった。




