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僕は都を目指して歩いた。
やがて降り始めた雪は、序々にはげしさを増していき、白い氷盤の上を吹き荒れた。蛇の毒のせいなのか、僕の頭は激しく痛む。
氷盤は都の光を映して白く輝いていた。
城壁に囲まれた巨大建造物郡が、闇の世界に神々しいまでの光を放ち、その姿を明らかにしている。
それは静かに、そして鮮やかに暗黒の世界に金色に浮かび上がっていた。
僕は氷盤の上に降り積もる雪をかき分け、白い息を吐きながら、凍える体を一歩づつ前へ進めた。都に近付くにつれ、僕の頭痛は重く激しくなり、僕は意識を懸命に保たなければならなくなった。
*
僕は苦労の末に城壁に辿り着いた。城壁は高くそびえ、黒い鉄製の門は堅く閉ざされている。僕は試しに拳で門を叩いてみたが、重い響きの感触が手に残っただけだった。
僕は城壁を越える方法を懸命に考えたが、重い頭痛が思考を妨げた。吹雪と寒さが僕から体力を奪っていくようだ。
僕は城壁をよじ登ろうと、白いブロックの壁に手を掛けたが、蓄積された疲労が僕の体が持ち上がるのを妨げた。僕は少し登っただけで、地面に向けてずり落ちる。
何度も繰り返すが、繰り返す度に体が重くなっっていった。このままでは僕は城壁すら越せそうにもない。僕は馬鹿だろうか、都までやってきて何をしているだ。
僕はやがて崩れ落ちた。僕の意識ははっきりしていたが、頭痛の中に思考は沈み込み、雪の中に頬を付け、薄目を明けて風景を見ているだけだった。
このまま僕は死ぬのか、僕は一体こんな所まで何をしに来たのだろうか。僕は自分の無力さを情け無く呪った。雪は僕の体の上に次々と積もっていくが、僕はそれを払う事すらできなくなった。
*
僕の目前に悪魔が現れた。
悪魔は薄笑いを浮かべて僕を見下ろす。
『不様な恰好だな』
僕は目だけ動かして彼を見る。口を開いたが空気が洩れるだけで、声にはならなかった。 『僕は都に行かなくてはならないんだ』
『都へ?』
『僕は村の人々を救うんだ』
悪魔は笑った。
『そのざまで何ができる。ケルベロスの尾に刺された者は、昏睡の末にやがて死に至る。それがおまえの運命だ』
『ぼ、僕は、む、村に返って、天使になる…』
僕は目を閉じた。僕の頭痛は薄れていったが、同時に意識も遠のいていくようだった。
悪魔の笑い声だけが白い脳裏にこだまする。 『おまえは俺の飼い犬を殺した勇者だ。おまえにチャンスを与えてやろう。おまえは自分の目で真実を確かめるがいい』
僕は誰かの手によって抱え上げられるのを感じた。革命軍なら僕を殺すだろう。僕はまずいと感じたが、もはや目覚める事もかなわなかった。僕はそのまま昏睡の彼方に落ちていった。
*
僕は病院らしき場所で目覚めた。僕は白いベットに寝かされ、腕にはチューブにつながった針が刺さっている。チューブの先には青い液体の入った瓶があり、液体の雫が一滴づつチューブに流れている。
僕は周囲を見回した。部屋の中には様々な機材があり、どこかから周期的な電子音が聞こえる。白い壁は緩やかな間接照明に照らされ、窓の外には光る塔が見えた。
僕はゆっくりと体を起こす。
*
「目が覚めたのかい」
僕は背後から声を掛けられた。僕は振り返って声の主を見る。
そこには背の高い男が立っていた。男の頬には大きな傷があり、笑うと口がおかしな形に歪んだ。左目は義眼らしく。右目と違う方向を向いたまま、まったく動かない。
彼は足を引きずりながら、近づいて来た。
「僕だよ。覚えているかい」喋る度に彼の唇の端から唾液の泡がこぼれる。「君と別れたのは随分前だった」
僕は彼の姿をとても恐ろしく感じ、背筋に寒気が走った。
「あ、あの…」
「僕だよ。家庭教師をしていたクリスだよ」
「………」
僕は言葉を失い、彼を見つめる。確かに背格好は似ているようだったが、その痛々しい風貌から彼を思い出すのは困難だった。ただ、潰れた鼻に掛けられた丸い眼鏡が、僅かに彼の面影を残しているようだ。
「久しぶりだね」
「ク、クリス…」
僕の声は驚きと恐怖にうわずった。「生きていたのかい」
「政府軍は要塞の攻防戦で大敗を喫してね。僕は気を失って漂っている所を、革命軍に救われたんだ」
「村では全滅したって聞いたから…」
クリスはよろよろと歩き、僕のベットの横の椅子に腰を下ろした。白衣の下から覗いたクリスの右足が義足である事が分かった。
「運が良かったんだ。助かったのは僕だけだったからね。もっとも、おかげでこんな姿になってしまったがね」
クリスは口から空気を漏らすようにして笑ったが、僕は頬が引きつり、彼に合わして笑う事ができなかった。
「僕はここの人達を助けに…」
言いかけた僕をクリスが制した。
「ここでは余計な事は言わない方がいい。でないと君は反革命分子として殺されてしまう。僕も彼らに洗脳された事になっていて、ここで医師として働いているんだ」
「するとクリスは…」
「心理学の知識が役立ってね。僕が本当に洗脳されていない事を、やつらはまだ知らないんだ。さあ、腕を上げてくれ」
クリスは僕の腕から針を外して、何かの測定器具を腕にあてた。「君の中の毒はもう消えているはずだ。僕はやつらに嘘の報告をして、君の回復にもう一日かかる事にしておくから、君は今夜ここを脱走するんだ」
「もうすぐ、南の太陽がここへ…」
クリスはうなずいた。
「それは僕にも想像がついてる。政府軍の最終作戦として軍の中では随分噂になったんだ。犠牲を覚悟すればかなり効果的な作戦だからね。でも、僕が村の人達にそう言ったって、今の彼らが耳を貸してくれるとは思えない。実の息子の言う事なら君の両親も…」
その時、廊下に人の歩く足音が響いた。
「とにかく、今夜目覚めたらここを出るんだ。表の扉の鍵を開けておくから」
クリスは僕の腕に注射を刺した。麻酔のようなものらしく、僕の意識は序々に薄れていった。
「容疑者の容態はどうだ」
「異常はありません。明日には回復し意識を取り戻すものと思われます」
「明日には裁判が行えそうか」
「可能かと考えます」
廊下でクリスが報告する声が聞こえた。僕は深い眠りに落ちていった。
*
僕は暗闇の中で目覚めた。
廊下の光が扉の隙間から洩れていた。僕はベットから降りて立ち上がり、その光を頼りに部屋の中を進んでいく。
無人の廊下がらんとしていて、両側の白い鉄の扉はどれも堅く閉ざされていた。
僕は廊下の突き当たりの小さな扉がわずかに開かれているのを見つけた。扉は外から吹き込む風によって小さな音を立てている。
あれがクリスの言った扉だろう。
僕は扉から外を覗いた。扉はかなり高い場所にあり、僕は一瞬息を飲んだ。そこからは白い塔と宮殿に続く大通りが見渡せたが、そこには誰もいなかった。
扉の脇には鉄の梯子があり、目の眩むような地上まで続いている。僕は梯子に飛び移り、ゆっくりと下へ降りた。雪は無かったが、冷たい風が鋭い音を立てて、垂直の壁面を駆け抜けた。
僕は飛ばされないように、梯子をしっかり掴んで一歩づつ地面を目指した。
*
地面に降りた時、見回りらしい車がサーチライトで辺りを照らしながら、大通りを走ってきた。僕は慌てて物影に身を隠し、なんとか車をやり過ごした。
僕は大通りを渡って、狭い路地に入る。路地の両側にはアパートのような建物が並んでいて、並んだ扉にはそれぞれ数字が書かれていた。このどこかに父や母や村の人々が住んでいるに違いない。
僕はその部屋を捜して路地を進んだ。