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彼女に礼を言って、僕は岩山に向かった。 池のほとりに広がる緑の台地を登っていくと、目の前に黒い岩肌が現れる。岩山は思ったよりも険しく、大きな岩が幾重にも積み重なっていた。
僕は岩に手を掛けて一歩一歩登り始めたが、時間がかかる割に、なかなか上には進まない。 途中、岩の間にテーブル状の場所があったので、一休みして頂上の方を眺めた。
頂上は黒い雲に覆われ、よくは見えないがここからはかなり遠そうだ。岩山を登り切るのは、小さな僕にはかなり大変な作業になりそうだった。
僕は南の空を眺めた。北の極に近いせいか、南の太陽の位置はかなり低い。明らかに弱々しくなった黄色い光が、池の水に長く反射していた。
まだ沈むまでには時間はありそうだ。
僕は一息ついて、また歩き始めた。荒涼とした岩場にはただ風の音だけが鳴っていて、僕の歩く音以外の物音は全くなかった。山の上空に鳶が一羽、音もなくぐるぐると回わっていた。
*
山の中腹で南の太陽が沈んでいくのが見えた。あたりは薄暗くなり、気温が少しづつ下がっていくのが感じられた。僕は手もとを確認しながら登り続けたが、足場がよく見えず、その速度は恐ろしく遅いものになった。
やがて、周囲は闇に包まれるようになると、気温は予想以上に下がり続けた。
ここから引き返すのは無理だった。
身を切るような冷たい風の中、僕は震えながら上へ進んだ。暗闇の中、僕はかじかむ手で岩を探り、凍える足で上へ登った。
僕は今自分がどこにいるのか分からない。 ただ岩が切り裂く風の音がするだけだった。
凍えた体の疲労はさらに激しなり、動きが序々に鈍くなっていくのが分かる。
僕はどうしようもない恐怖に襲われた。
僕は助けを求めて叫びたくなったが、叫んでも誰も来てくれそうにもなかった。
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どのくらい歩いたか見当もつかないが、とうとう、僕は動けなくなりその場に座り込んでしまった。厳しい寒さに体温が奪われて行くのが分かる。僕は震えながらもなんとか気力を振り絞り、立ち上がろうと思った。
しかし凍えた体は、意思とは逆にどうしようもない睡魔に襲われ、意識が遠くなっていく。
*
僕の遠い意識の中で、前方からランプの光が揺れながら近ずいて来るのを感じた。
やがて、ランプを持った老人が僕の頭を抱え上げ、口に薬草のような物を含ませた。
僕はそのまま眠りに落ちていった。
*
「どうじゃ、気がついたかね」
次に目覚めた時、僕の体は毛布が掛けられ、燃えさかる火のそばに寝かされていた。
火の上には鍋が掛けられ、立派なひげをたくわえた小人の老人が、それをぐつぐつかきまぜている。
「ここは」
「わしの家じゃよ」
ここは洞窟の中らしく、周囲は粗彫りされたようなごつごつした岩肌がむきだしになっていた。天井には通気口らしい穴があり、その周りには黒いすすがこびりついている。
「わしはたまたま薬草を取る為に遠出しすぎてな。途中で日が暮れてしまったのじゃが。おまえさんはわしが通りがからねば凍死しておったぞ」
「あなたは」
「わしはノーム。鉱山に住む精霊じゃ」
老人はそう言って鍋からスープをすくい、深い木の皿に移した。「さあ、食べなさい。体が暖まる」
僕は礼を言ってスープを口に運んだ。スープは薬草らしき草と米を煮込んだ軟らかい粥で、喉を通る時不思議な味がした。
「おまえさんも見たところ、わしらと同じ小人らしいが、こんな所で何をしておった」
「僕は北に行くんだ」
「北へ、のう…」
ノームは難しい顔をした。「何か理由があっての事とは思うが感心はせんのう。わしでも決して峠の向こうには行かんのじゃ」
「僕は南の農村にいたんだけど、村の人がみんな連れて行かれてしまったんだ」
「知っておる。北の極に人間が築こうとしておる都にいったんじゃろ」
「僕は彼等を助けようと思って」
ノームはそれを聞いて首を振った。
「彼等はそれを望んどりゃせん。無駄な事じゃ」
「………」
僕が何も言えずに黙っていると、ノームはそれ以上の事は言わなかった。
「ちょっとこっちに来るんじゃ」
僕が食べ終わったのを見計らって、ノームは僕を洞窟の奥に呼んだ。ノームはランプに火を灯し、洞窟の奥を照らす。
僕らがいたのは巨大な洞窟の横穴だったらしく、奥にはとても大きな空間が広がっていた。
穴の真ん中には二本の鉄のレールがしかれていて、レールは光の届かない場所まで、左右に果てし無く伸びていた。
「北に行くならその恰好では寒かろうて」 ノームは線路の脇に打ち捨てられたトロッコの中に頭を突っ込んで、中身を引っ掻き回している。
「ここは?」
「鉱山じゃ。その昔、人間が奇跡の石を掘り出した」
「これが合うじゃろ」
やがてノームは、一着の毛皮の上着を引っ張り出した。そして、彼はその上着を僕に着せて、満足そうにうなずいた。
「よく合っておる。これを着て行きなさい」 毛皮はずっしりとした感触があったが、その分、きびしい寒さからは充分体を守ってくれそうだった。
「ありがとう。これだと暖かいよ」
僕が礼を言うと、ノームはうなずいた。
ノームはランプを拾い、光を高い天井の方へ向けて照らした。
「この鉱山は、今は使われておらんが、その昔人間が石を掘り出ししておったんじゃ」
ノームはランプの光を絞り、種火だけにした。
暗闇になった洞窟の壁面一面に、小さな赤い光が散らばり、ゆっくりと光の強さを変えながら点滅しているのが見えた。まるでこの洞窟が呼吸をしているかのように、洞窟全体が不安定な光に照らされている。
「これが奇跡の石?」
「そうじゃ、石はそれぞれの光に限り無い力を秘めておる。人はその力をすこしづつ解放してやるだけでいいのじゃ。石の力は今でも南の太陽を動かていて、その力は全く衰えを知らん」
僕はその荘厳な光景にみとれ、洞窟の壁面をいつまでも眺めていた。
*
「峠の先に畑があるが、何があっても彼等と話してはいかん」
翌朝、出発する前に、ノームが僕に警告した。
「彼等って誰なの?」
「行けば分かる。おぞましい場所じゃ。彼等と話すとおまえさんもああなってしまう」
ノームはもう一度僕の目を見て言った。
「よいか。一言も発してはいかんのじゃ」
「分かった。僕は口を利かないよ」
ノームはうなずいた。
「よし、行くんじゃ。昼までには峠を越さんと、凍えてしまう」
僕はノームに礼を言った。ノームのくれた上着は少し重かったが、とても暖かく、岩を登っていると汗ばむくらいだった。
僕は峠を目指して歩いた。
*
岩場を過ぎると広大な氷河が現れた。辺りは常に白い霧に覆われ、吹きすさむ風に乗った雲が、激しく形を変えながら次々と流れて行く。そこは草木一本無く、全く生き物の気配のない荒野だった。
僕は足もとを見ながら、滑らないように一歩づつ歩いていく。
*
僕は昼まえになんとか峠に着いた。
峠の尾根に上に立った時、一時的に雲が晴れ、眼下の世界を見下ろす事ができた。
山の北側は山の影になるせいで、昼間でも真っ暗だった。低いながらも南の太陽が届く池の景色とは、まさに裏と表といった感じだ。
暗い風景の中、北の果てに眩いばかりの明りを点滅させている場所があった。
あれが目指す北の宮に違いなかった。
僕はしばらく眺めていたが、あっと言う間に白い雲に閉ざされ、僕の視界は再び霧の中に奪われた。僕は山を下り、影の世界へ入って行った。
*
ノームの予言した畑が現れた。それはノームの言う通り、確かにおぞましい場所だった。
ノームの言う彼等とは、畑の作物そのものだったのだ。
マンドレイク。地につながれた人間植物。 彼等は頭に大きな花を咲かせ、地中深くまで張った根で栄養を吸い上げて暮らしている。 畑では一面。下半身を地中に埋めた裸の男女が体をくねらせながら、それそれに叫び声を上げていた。
彼等の体は、光の届かないせいか痩せ衰え、枯れ木同然に見えた。
『助けてくれ』『どこに行く』『もうだめた』『水をくれ』『おまえを呪ってやる』…。
断末魔のような叫びや、狂ったような笑い声に混じり、彼等は口々に僕に向けて言葉を発した。僕を捕まえようと手を伸ばし、行く手を遮る者もいる。
それは恐ろしい光景だった。僕は何度も叫びそうになったが、ノームの警告を思い出し、必至に耐えて前へ進んで行く。
彼等のとぎれる事のない悲鳴に、僕の方が狂いそうだ。
悪魔の人参畑。
それは地獄の景色だった。