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僕達は夜明けと共に出発した。朝の平原は淡い霧に包まれ、ケンタウロスのひずめが緑の草に触れる度、玉になった夜露が弾け飛んだ。
やがて二つの太陽がその陽射しをはっきりさせていき、大地の水分が湯気として空中に立ち上ぼっていく。
ライカンスロープの来襲が嘘のように、平原は平和な朝を迎えていた。大地にも空気にも生命の匂いが溢れている。しかし、これだけが平原の真実の姿ではない。この陽射しの裏側には闇があり、闇の世界には闇の世界を支配する法則があるのだ。
やがて、霞みの向こうに淡い山影が映ってきた。
「もうすぐ池だ」
ケンタウロスが叫ぶ。脚もとがぬかるんでいるのか、走るごとに黒い泥のような土が跳ね上がった。
やがて僕の目の前に低木でできた黒い森が見えてきた。
「よし、降りろ」
ケンタウロスは沼の岸辺に立ち止まり。低い姿勢をとって僕を背中から降ろした。
「ここが北の池?」
僕の脚もとの土は十分に水を含み、踏みしめる度に沈むような感触があった。
「そうだ。俺が送ってやれるのもここまでだ」
沼の中には幾つもの草に覆われた島があり、そのずっと先には巨大な岩山が見えた。
「ここを越えていくの?」
「この先に渡し船を出している場所がある。そこまで行って、岩山に連れていってくれるように頼むんだ。あの岩山を越えると北の極が見えるはずだ」
「ありがとう。君がいなければ僕はこんな所まで来れやしなかったよ」
僕はケンタウロスに礼を言った。
「大変なのはこれからだ。岩山の向こうは南の太陽の届かない薄暗い世界だ。この季節じゃもう一つ太陽もほとんど登らない」
「平原が平和になってシルフと住める日が来る事を祈っているよ」
僕は手を差し出した。ケンタウロスは少し照れた表情で僕の手を握った。
「それじゃ、俺は君の旅の目的が果たされる事を祈ろう」
*
僕はケンタウロスと別れ、湿地を歩き出した。冷たい泥水が僕の足の下でうねり、靴の中に入ってきた。僕は不快な感触に嫌悪感を持ちながら、船を探して湿地を進んだ。
「いてえな、この野郎」
足に少し堅いゴムのような感触を感じたと思った瞬間。突然地面がうねりだした。
僕は転んで泥の中に尻もちをついてしまい、服にも体にも黒い泥がついてしまった。
「ひどいな。泥まみれだよ」
「なんだ、おまえは俺の土に文句があるのかよ」
ゴムのようだと思っていたのは、赤い大きなミミズだったらしく、つるりとした頭をもたげて僕の前に立ちはだかった。
「ここの土はみんな俺が耕したんだ。俺の耕した所はいい土になると言って、木や草はみんな喜んでやがる」
「ここは君の畑なの?」
僕は聞いたが、ミミズは馬鹿にしたように首を振った。
「俺達は野菜なんか食わねえ。かわいそうじゃねえか生きてる物を食うなんて。俺はその代わり土を食ってるんだ。なぜかって?。つまり俺はエコロジストだからだ。俺に言わせりゃ、俺以外はみんな野蛮な生物だ。みんな腹がへったら土を食ってればいいんだ。そうだろ?」
僕は土なんか食べれそうもないので、なんと答えていいのか分からなかった。
「フン、まあいい。俺にゃ目がないからよく分からねえが、どうやらおまえはこの土地の者ではないらしいな。俺は目が見えねえ代わりに神は素晴らしい嗅覚を与えて下さったんだ」
ミミズは僕に頭を近づけて、匂いを嗅ぐ仕草をした。僕は薄気味悪くて嫌だったので、彼の体に触れないように体を避けた。
「僕は南の方から来たんだ」
「南からこんな所まで何しに来た?」
「北の極に行こうと思って」
「北の極?」
ミミズは何か考えるように何度も頷いた。
「それで、この池を渡る船を出している所を探しているんだ」
「渡し船?トードの船の事か?」
「知ってるの?」
「ああ、知ってるとも。古い付き合いだ。よし、話をつけてやるからついて来い」
ミミズは方向を変えて進み出した。ミミズは縮んだり伸びたりして進むので、進むのにずいぶん時間がかかった。僕は彼の進むスピードに合わせて歩いた。
歩いている間中、ミミズは僕に土を食べて生きる生活を勧め続けた。罪なく生きる方法であり、宗教的正義に立った哲学だとも言った。悔い改め、贖罪の日々を送るべきだと、そして、僕に北に行くなと忠告した。
「あそこはよくねえ。とんでもなく寒いし、第一、土がまずい。おまえはよっぽど馬鹿か変わり者らしいな」
彼はよどみなく話続けた。僕は彼の講釈を聞かされ続けている間、何も言えず黙っていた。
*
トードは巨大なカエルで、池のほとりの石の上にどっかり腰を落とし、目の前に木の葉で作ったの小さなボートを浮かべていた。
トードはミミズが僕の事を話している間、退屈そうに僕を眺めながら大きなあくびをする。
「分かった。もういい」
ミミズの話が長くなると、トードはいびきのような醜い声で、その話をさえぎった。
「つまり、こいつを北の岸まで連れていけばいいんだろ」
「結論だけ言えばそういう事だ。しかし、こいつは北の極に行こうと行ってるんだぞ。あそこは地獄だ。こいつにそれをよく言ってきかせにゃ…」
「北の極に行こうと地の底に行こうと俺の知った事じゃねえ」
トードはいらいらした様子で喉を膨らますと、一気に空気を吐き出して怒鳴った。「おまえさんの無駄口はたくさんだ。少し黙ってやがれ」
ミミズは不満そうだったがとりあえず口を閉じた。
トードは僕を見下ろすように睨む。
「おまえを北の岸に連れていってやろう。さあ、金を出しな」
「金?」
「ああ、蠅四匹だ」
トードは木の枝の先を見つめると、長い舌を伸ばして枝に止まっていた蠅をからみ取った。
「僕はそんな物持ってないよ」
「それなら、船に乗せる訳にゃいかねえ」
トードがそう言った時、ミミズが耐えられなくなって、またしゃべり出した。
「おまえは何度言っても分からんのか。蠅なんか食うのは止めろってんだ」
「うるせえ。てめえは黙ってやがれ」
トードは前足でミミズの頭を殴り付けた。
「何しやがる。聖職者を殴って罪を重ねる気か」
ミミズも怒ってトードに頭突きを食らわした。トードははずみで岩から転げ落ちる。
「何が聖職者だ。脳もろくにねえくせに、てめえの足りない脳で考える事など、みんな間違いって事よ」
二匹はやがて取っ組み合いのケンカを始めた。僕はトードには悪いと思ったが、トードのボートを借りて池に漕ぎ出した。枝を櫓にして船を進めると、やがて、トードの姿は小さくなって行った。
*
最初、ボートの上にある葉が何なのか分からなかったが、池の真ん中ぐらいまで来たとき、不意にそれは帆ではないかと思い。試しに立ててみた。
大きく広がった薄い木の葉は、池の上を渡る風を拾い、ボートは滑るように水面を走り出した。
風はうまい具合に南から北に吹き。ボートは白波を立てて速度を増していく。北の岩山が黒い岩肌を鮮明にしながらぐんぐんと近ずいて来る。
僕は快適に帆走して、あっと言う間に北の岸に着く事ができた。
僕が岸に上がって北の池を振り返ると、そこには、森とはまた違ったシルフの姿があった。
「君は…」
「私は池のシルフ。森のシルフから手紙が来たものだから」
「手紙が?」
「そうよ。シルフ同志は風で手紙のやりとりができるの。少し探したけど、間にあってよかったわ」
「君が風を吹かしてくれたの?」
僕が聞くと彼女はうなずき、そして、やさしい微笑みを浮かべた。同じシルフでも森で会ったシルフとは、ずいぶん違う親切な感じだった。
ケンタウロスはこのシルフと一緒に暮らした方がよさそうだ。
帰る時に彼と会ったら忠告してやろうと考えた。