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「君は羽があるからいいけど、僕は一歩一歩歩かなくてはならないんだ。君も一度やって見ると分かるよ」
彼女が飛ぶのについて息を切らして坂道を下る。
「我慢してよ、もうすぐ終わりだから」
シルフは相変わらず休む気配もない。苦しくて僕の心臓は破れそうだった。
*
下りの坂を抜けるとやがて森は終わり、見渡す限りの荒野に出た。低い黄色い草が生えているだけで、そこら中に岩のごろごろした土地が遥か地平線まで続いている。
「ここが平原なの?」
僕は岩の上に倒れるように転がる。
「そんな所で休んでいるとあぶないわよ。こっちに来なさいよ」
彼女は呼んだが僕はもう動く事が出来なかった。
「待ってくれよ。僕はもうクタクタで…」 僕がそう言った時、空気を切り裂く音と共に、遥か彼方から金属の柱が飛んできた。
僕は慌てて首を潜める。柱は僕の脇をかすめるようにして岩に突き刺さり、物凄い破壊力で僕のいる岩を砕け飛ばした。
僕もその衝撃で激しく弾き飛ばされる。
激しく地面に叩き付けられた僕は目を回してその場に倒れてしまった。
*
しばらくして、ひずめの音が駆け寄って来るのが聞こえた。
「大丈夫かい?」
倒れている僕の頭上で男の声がする。
顔を上げると、そこには弓を持ったケンタウロスが立っていて、僕にがっちりとした手を差し出していた。
「ああ、何とか。ありがとう」
僕はその手を借りて立ち上がると、服についた埃を払った。
「まったく危ない目にあったよ。何か鉄の棒が空から降ってきて…」僕は彼の肩に担がれた矢の束を見た。まさしく、さっきの鉄の棒だった。「すると、あれは君の?」
「ああ。悪かった」
僕は腹が立った。
「なんだよ。君達は。僕は今までこんな酷い目に会った事はないよ。さっきからシルフも君も…」
「違うのよ。誤解なのよ」シルフが飛んで来て言った。「彼はあなたを助けようとして…」
「助ける?」
「そうよ」
シルフはさっきの矢の方を指差した。
僕が矢を見ると、矢の先にはまだら模様の蛇が刺さっていて、蛇は地面に刺さった矢を抜こうと必至にもがいている。
「あそこは毒蛇の巣だったのよ」
「俺も少し力の加減を間違えたがね」
彼はすまなそうな言った。
「そうか、そう言う事か」
僕はなんだかおさまらない気がしたが、彼に礼を言うしかなかった。
*
「シルフが来てたのか、どうりでいい風が吹くと思った」
「ありがとう」
ケンタウロスが言うとシルフは頬を赤らめてうれしそうにはにかんだ。
「長老から、旅人をあなたの所へ案内するように言われて来たの」
「長老から?」
ケンタウロスは僕の方を見た。
「彼は北に行くのよ」
「北へか…」
「彼を池のほとりまで連れていってあげてって、長老が言ったわ」
ケンタウロスはうなずいた。
「そうか、分かった。おまえを連れていこう」
「ありがとう。助かるよ」
「そんなに遠くないが、今日中に着けるかどうか分からない」そう言ってケンタウロスは僕の顔を覗き込んだ。「ところで、シルフはここまで親切に連れて来てくれたのか?」
僕は首を振った。
「ひどいよ、彼女は。自分は飛べるからってどんどん先に行ってしまって、僕がちょっとでも遅れると龍巻だって…」
「余計な事は言わないの」
シルフが口をはさんで僕を止めた。「余計な事ばかり言うなら、本当にあんたを龍巻で…」
言いかけて彼女は慌てて口をつぐんだ。それを見てケンタウロスは大きな声で笑う。
「相変わらずなんだな、シルフは」
は赤くなってうつむいてしまった。
「あんまり彼が遅いものだから」
シルフを見て、またケンタウロスは楽しそうに笑った。
*
「最近、長老は元気なのかい」
僕が彼の背にまたがる間、彼はシルフに聞いた。
「相変わらず元気よ。でも最近なんだか物思いに耽る事が多いみたい」
「そうか、俺も最近、良くない事を感じるんだ。何か悪い事が起きなければいいが」
僕は彼の背に乗って、弓矢の束をしっかり掴んだ。
「よし、大丈夫か?」
僕はうなずくのを確認して、彼はシルフに言った。
「それじゃ気を付けて帰れよ。あんまり風を起こして森を荒らさないようにな」
「あなたも気を付けて」
シルフは僕らに手を振った。僕もシルフに手を振って別れのあいさつする。
「それじゃ、振り落とされないようにしっかり掴まってろよ」
彼は掛け声と共に走り始めた。
彼の四本の足はすばらしい勢いで大地を蹴り、みるみる空気が加速していく。彼は上機嫌で走り続けたが、僕は恐ろしくて目をつぶって夢中で彼の背に掴まっていた。
*
彼は休む事なく疾走した。岩場、草地、砂丘、湿地。刻々と変化する大地とは関係なく、彼の力強いひずめの音は一定のリズムを刻んでいく。いくつもの小山や谷を越えた頃、南の人工太陽は赤い夕焼けを残して、南の地平線の下に沈み始めた。
彼は南の太陽を眺めながらその足を緩めた。 「もうすぐ、もう一つの太陽も沈んでしまう」
西の空には人工太陽より光の弱いもう一つの太陽が、ゆっくりと地平線に向けて進んでいるのが見えた。彼は平原の一本の木の前に立ち止まり、僕を背中から降ろした。
「ここから池まではそんなに遠くはないのだが、悪いが今日はここまでであきらめてくれ、夜にこれ以上進むのは危険なんだ」
僕は首を振った。
「ありがとう。君がいなければ僕は歩いて来なければ行けなかったんだ。こんなに早く進めた事だけでも感謝しているよ」
僕が言うと彼はうれしそうな表情をした。 「平原の夜は冷える。火を灯して暖を取ろう」
彼と僕は周辺の蒔きを一箇所に集めた。彼は木を擦り合わせる方法で火を起こした。
「いいか、ここでじっとしてろよ」
火が安定するのを確認して、彼は草原に出ていった。そうしている間に太陽は完全に沈んで行き、辺りは闇に包まれた。それは僕の初めて体験する夜だった。火の光の届く範囲以外は濃密な闇の世界が広がり、得体の知れぬ何かが息を潜め、僕を観察しているように感じられた。それはとても不安な時間だった。 しばらくして戻ってきた彼の手には二匹の野うさぎが握られている。彼は手際よくそれを解体して、火に掛ける。
「今夜はこの火のそばを離れるなよ」
彼はうさぎを焼きながら僕に言った。「周囲はとても危険だ」
僕は森を出た時に蛇に襲われたのを思い出した。
「蛇とか毒虫とかがいるの?」
「ああ、確かにそういうのもいる。しかし、最も危険なのは奴等だ」
「奴等?」
「今夜にも現れるかもしれん。奴等は薄汚ないが巧妙で賢い。奴等に捕まればおまえも八つ裂きにされてしまうだろう」
僕にはケンタウロスの言う奴等と言うのがうまく想像できなかった。
「ここにいれば大丈夫なの?」
「ああ、奴等は火を恐れる。しかし、奴等は巧妙だ。十分注意しろ」
僕はうなずいた。彼は言う。
「奴等は闇に潜み、罠を張り、通る者を待ち構える。俺も夜には行動しない。奴等は他のどんな生き物より残忍だ。彼等は闇の支配者だ。最近彼等の力が高まっている。悪い徴候だ」
彼はうさぎの肉を僕に投げてよこす。僕は肉を受け取り、歯で引きちぎるようにして口に入れる。
「君はこの平原の支配者なの」
「誰が言った?」
「シルフが言ったんだよ」
僕が言うと彼は軽く笑った。
「それ程聞こえはよくないさ。この平原の管理者ってぐらいのものだ。俺はまだ若いので、そこまでの力はないんだ」
「シルフとは一緒に住めないの?。彼女はそれを望んでいるようだよ」
僕が言うと彼は少し表情を弛めた。
「ああ、近い将来、できれば彼女を平原に呼びたいと思っているんだ。しかし、その前にこの闇の力をなんとかしないといけない。奴等をコントロールできない限り、彼女を危険な目に合わせる事になる」
平原の夜は更け、僕らは火の前で眠りに落ちていった。
*
僕は闇から響く呻き声で目覚めた。それは大地に響くような低い唸りで、何か邪悪な力に満ちているようだった。
僕は怖くてケンタウロスを見る。ケンタウロスは前足を立てて中腰の姿勢を保ったまま、僕を火の前から動かないように制した。
「来たぞ。気を付けろ」
彼は短く言って周囲に目を光らせた。
呻き声は段々と大きくなって行き、僕達の周囲を取り囲んだ。その声は苦痛の鳴き声のようであり、僕達を嘲笑する悪意に満ちた笑い声のようにも感じられた。
僕は怖くなって彼の言った通り、火のそばから動かなかった。そして、燃えている蒔きを一本掴んで、松明のように前方へ振り翳した。
闇の中に一瞬、目のようなものが光った。と、その瞬間、黒い影が闇から飛び出して来る。
「グオッ」
それは二本の足でよろよろと歩きながら、僕の目の前で短い悲鳴を上げて倒れた。背中にケンタウロスの矢が刺さっている。
黒い毛に覆われた顔の中の、開いたままの瞳が鋭く僕を見すえている。牙の生えた口元には邪悪な笑みが浮かび、だらしなく唾液が溢れている。
ライカンスロープ。僕はクリスの幻想生物辞典を思い出した。ケンタウロスの言う闇の支配者とは狼に憑かれた人間の事だったのだ。 ケンタウロスは威嚇するように闇に向けて矢を放つ。
闇の奥で悲鳴が一つ上がり、地面に倒れる音がした。
やがてしだいに他の声も鎮まっていき、あたりに再び静寂が訪れる。
「どうやら仲間は引き上げたらしい」
ケンタウロスは前足で何かを調べるように、その死体を突いた。
「これは?」
「邪悪な人間が死後、狼に姿を変えて平原をさまようんだ。昔はこんなに多くなかった。が最近はどうもおかしい」
彼は死体から矢を抜き、体を仰向けに返した。口は何かを叫ぶかのように開き、鋭い爪を持つ両手は空を切り裂こうとするように、突き出されたままだった。
黒い毛に覆われた、あまりに醜い姿に、僕は思わず息を飲んだ。