第六話
それからクロは幾つもの町を廻りましたが、それでも友達は見付かりません。
――あぁ、このまま友達なんてできないのかも……。
クロがため息をこぼしながら、ブロック塀の上を歩いていた時でした。何処からか綺麗な歌が聞こえてきました。囁くように小さな歌声は、木々の葉が擦れ合う様に優しく、澄みきった夜空に吸い込まれていく様でした。
――なんて優しい歌なんだろう……。
耳を傾けながら歩いていたクロは、脚を踏み外し、ブロック塀から落ちてしまいました。
「ギャン!痛いっ」
猫らしくなくお尻から落ちてしまったクロが、ジンジンするお尻を舐めていると頭の上から驚いたような声がしました。
「誰、誰か居るの?」
見上げると明かりも付けない真っ暗な二階のベランダからこちらを見下ろす女の子がいました。
まずい、逃げなきゃとクロは慌てて逃げようとしました。また化物と呼ばれるのは嫌でした。
でも、女の子はクロを見ても驚きません。視線は遠くを見ているようで、まるでクロが見えていないみたいでした。
「こ、こんばんは」
クロは思わず返事をしてしまいました。逃げるのはいつでも出来る……。もう少しだけ女の子の様子をみる事にしました。
「こんばんは。あなたは誰? 私の家の庭で何をしているの?」
「……僕はクロ。ちょっと夜の散歩をしていたら、塀から落ちちゃったんだ」
「私はエリカ。クロ、まさか塀の上を歩いてたの? あなたってまるで猫みたい」
クスクス笑うエリカはクロが喋っても驚かず、やっぱりクロが見えていないようでした。
「ねぇ、君は僕が見えないの?」
「……うん。目の病気でね。目の前が真っ暗で何も見えないの」
――目が見えないなんて大変だ。
試しに目を閉じてみると真っ黒で何もわかりません。クロはいつも夜でも平気なので、考えるだけで怖くなります。
「怖くないの?」
「怖いよ。でも仕方ない事だし……」
悲しそうに微笑むエリカを見ると、クロも胸が痛くなりました。
「ねぇ、それよりクロの事教えてよ。どうして塀の上を歩いていたの?」
エリカはさっきの顔が嘘の様な、興味津々の顔で尋ねてきました。
――なんて答えよう。
クロは悩みました。まさか猫だと言う訳にはいきません。
「ぼ、僕はサーカスの見習いなんだ。だから高い所に登るのが大好きなんだ」
「凄い、本当!私サーカスの話聞きたい!」
苦しい言い訳でしたがエリカは楽しそうにはしゃいでいます。その笑顔を見ているとクロもなんだか嬉しくなりました。
「待ってて、今そっちに行くよ」
クロはそう答えると庭の木にするする登って、ベランダ近くの枝に座りました。クロがサーカスの話しをすると、エリカはキラキラと目を輝かしせていました。空中ブランコの話をした時には、両手をギュッと握りしめて、まるで本当にサーカスを見ているようでした。
クロの話が終ると、今度はエリカが歌を歌ってくれました。優しい歌声はとても心地よくクロの耳をくすぐりました。
「私ね、歌が大好き! 歌っているとね、目の前にいろんな景色が広がるの」
そう言って歌うエリカはとても楽しそうでした。
「あのね、クロの話も大好きよ。だって行った事の無いサーカスが見えるもの!」
ニコニコと笑うエリカを見ていると、クロはとても幸せな気持ちになりました。
それからクロは毎日が楽しくて楽しくてたまりませんでした。普通に会話をして、二人で笑いあう。それだけの事がこんなに幸せだなんて思いませんでした。
そんな毎日がどれだけ続いたでしょう。クロがいつも通り庭の木に登ると、とても興奮したエリカがいました。
「エリカ、どうしたの?そんなに喜んで?」
クロが尋ねるとエリカは顔いっぱいに笑顔を浮かべました。
「あのね、あのね、私、手術するの!目が治るの!」
その瞬間クロは頭を思いっきり殴られた気がしました。
「ほ、本当に?よ、よかったじゃないか」
クロは何とか答えましたが、声は震えてしまいました。
――どうしよう、どうしよう……。目が治ったら僕が猫だとバレちゃう……。
「クロはどんな顔してるのかな? 優しい顔、格好良い顔? 今から楽しみ!」
エリカはそんなクロに気付かずにはしゃいでいます。
心から嬉しそうな姿を見たクロは、エリカの幸せを素直に喜べない自分が本当に嫌になりました。
そしてエリカは手術のために入院をしました。
クロは誰もいないベランダを見上げて、エリカを待ちました。まだどうしたらいいか答えは出ないけど、ただ毎日待ち続けました。