第四話
それから数日後。台座の上でクロはいつもの様に喋り出そうとしました。
「っ……」
しかし喉に何かが詰まった様に言葉が出てきません。無数の視線が体を縫い止めるように感じ、クロは体が固まって動けなくなってしまいました。
団長が肘でつっつきますが、それでもクロは動けません。やがて客席からブーイングが上がり始め、それはテント一杯に広がりました。
「ももも……申し訳ありません、きょ、今日は少し調子が悪いみたいです」
団長は慌ててクロを下がらせましたが、それでもブーイングはおさまりませんでした。
「まったくなんて事をしてくれた、これじゃ大損だ!」
団長はテントの裏にくると、顔を真っ赤に染めてクロを怒鳴りました。
「ごめんなさい、でも……。でも、僕やっぱりもう出来ないよ……」
「黙れ、お前はただ俺の言うことを聞いていればいいんだ!」
クロがうつ向いてつぶやくと、団長はツバを飛ばして更に激しく怒鳴りつけます。さすがに少しムッとしたクロは団長を睨みつけて言い返しました。
「どうして? 今まで僕は団長の言うことを聞いてたじゃないか、たまには僕の願いも聞いてよ、友達だろ!」
それを聞いた団長は調教用の鞭を手にすると、クロを叩きはじめました。
「誰が友達だ! 金にならないお前なんかただの化物だ!」
「痛い、痛い、止めてよ! 止めてよ!」
クロがいくら言っても、団長は止めてくれません。鞭がピシリパチリと何度もクロの身体を打ちました。
やがて叩き疲れた団長は、クロを小さな檻にいれると、鍵をガチャリとかけました。
「今日からこの中がお前の寝床だ。逃げようとしてもむだだぞ」
クロは涙で滲む瞳で、立ち去る団長を見つめていました。歪んで見える後ろ姿は蜃気楼のようで、閉じられたドアの音と共に、優しかった団長の思い出も消えてしまいました。
そして翌日、団長は鎖を引っ張ってクロを台座に繋げると、ムチをピシリと鳴らしました。
「いいか、わかってるな、今日こそはちゃんとやるんだ!」
体はまだ火が着いたように熱かったのですが、そんな事を言ったらまた叩かれるに決まってます。クロはうなずくしかありませんでした。
舞台の上、いつも通りのドラムロール。団長の前口上と同時にケースが取り払われると降り注ぐあの視線。
――見ないで、見ないで。見るな……見るな!
うつ向いて喋ろうとしないクロに苛立つように、団長が鎖を引っ張ります。
クロは団長をキッと睨みつけると、客席に向かって叫びました。
「呪われてあれ! 人間ごときが闇の使いである我を捉えるとは……。幾千の不幸が貴様らの上に降り注ぐであろう!」
――人間はなんて酷い生き物なんだろう。人間なんて嫌いだ、大嫌いだ!
恨みのこもった言葉は重く深くテントに響き渡り、一瞬で客席は静かになりました。中には本気で怯えた様子の人もいて、団長は慌てて言いました。
「み、皆さん。ご安心下さい! この鎖は教会の十字架を溶かして作った聖なる鎖です! この鎖に繋がれているうちは、こいつが何を言おうとただの戯言です!」
客席に安堵の声が広がると、それはやがて大きな歓声になり、その日の舞台は今までで一番の大成功になりました。
「クロ。やれば出来るじゃないか!」
団長は舞台の裏に来ると、顔いっぱいの笑顔でクロの頭を撫でました。クロはその手が嫌でたまりませんでしたが、機嫌を損ねるとまたムチで叩かれるので、ただニコニコとされるがままにしていました。やがて満足した団長はガハハと笑いながら出て行きました。
――逃げよう。
夜になり誰もいなくなったテントの中でクロは決心しました。もうこんな所に未練なんてありませんでした。
クロは首と首輪の隙間に後ろ足を突っ込むと、バリバリひっ掻きはじめました。首や爪のつけ根から血が滲むのも構わずに必死に足を動かします。
そしてもう少しで首輪が千切れそうになった所でクロは考えました。今、首輪を外しても檻からは逃げられません。すぐに気がつかれてしまうに決まってます。そうなればまた鞭で叩かれた上、二度と逃げる事は出来ないでしょう。
逃げるチャンスは一つだけでした。クロは傷でバレないように丁寧に血を舐めるとじっと朝を待ちました。
翌日、いつも通りのステージ。クロはケースが被せられると同時に急いで首輪をひっ掻きました。台座がゴロゴロとステージの中央に運ばれて団長の前口上が始まります。早く、早く……必死に足を動かします。そして首輪が千切れると同時にケースが取り払われました。
「皆さんご覧下さい。こちらが、あ、えっ?」
クロは戸惑う団長に目もくれず、一番前の男性客の頭に飛び乗ると大きな声で叫びました。
「我は解き放たれたり! 人間共、覚悟しろ!」
「あひゃあ!」
クロを頭に乗せた男の間抜けな悲鳴をきっかけに、テントの中は大騒ぎになりました。クロが観客の頭から頭に飛び移るたびに、変な悲鳴が上がります。
「ま、まて! 誰か捕まえろ! あぁっ……ええい邪魔だ、退けっ!」
振り返ると団長が追いかけて来ますが。人の波に押されて動けずにいます。
「あは、あはは!」
テントの中はもうグチャグチャでした。クロはテントを飛び出すと、小高い丘に向かって走り出しました。丘に登りテントを見下ろすと人々が転がり溢れて来ます。
「あははは、いい気味だ!」
クロはもう一度笑うと町の外へ歩き出しました。また一人ぼっちになりましたが、あんな所にいるよりマシでした。