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100デシベルの肉切り包丁

作者: 瀬尾 かなで
掲載日:2026/02/20

地下アイドルの、いてもいなくても誰も困らない、数合わせ。


それが私だ。


埃っぽい地下ライブハウス、握手会場の端っこが、私の指定席。


今日も無理やり作った笑顔で、誰とも合わない視線を泳がせるだけの、簡単なお仕事。鏡を見るたび、自分のモブっぷりに乾いた笑いが出る。


「ねえ、その衣装。また背中のチャック、浮いてない? 自己管理くらいしてよ」


私の隣で、誰かが冷たく言った。


同じグループのメンバーだ。彼女は自分の列に並ぶファンに愛嬌を振りまきながら、口の端だけで私を刺す。


「頑張ります」


安いハンドクリームのベタつきが、手のひらでずっと気持ち悪い。


私の前には、誰も並んでいない。


「ダンスのステップ、今日も一人だけズレてた。目立とうとして、わざとやってるの?」


別のメンバーが、鏡越しに軽蔑を投げてくる。グループの輪から、私だけが、油を弾く水みたいに浮いている。


「頑張ります」


パイプ椅子の冷たさが、タイツ越しに太ももの裏へ伝わってくる。


すぐ隣の列。センター、美佳ちゃんのファンが、私を見てニヤニヤと笑った。


「おい、美佳ちゃんの隣に立つの、マジでやめてくんない? 公開処刑すぎて見てられないんだわ」


「頑張ります」


「お前の特典券、メルカリで10円でも売れなかったわ。ゴミ売るのやめてくれるかな」


二人目のファンが、使用済みのティッシュを、私のテーブルに置いていく。


誰も、私の目を見ない。


「頑張ります」


スマホの通知が、ポケットの中で震えた。どうせ、ネット掲示板の晒しスレだ。


「ネット、見た? あんたの家、特定されかかってるよ。自業自得だけど」


メンバーが、楽しそうにささやく。私のプライバシーは、スーパーの特売品よりも安く買い叩かれている。


「頑張ります」


「あんたがいるだけで、グループの格が下がるんだよね。自覚、ある?」


「頑張ります」


「ぶっちゃけ、運営もクビにするタイミング見計らってると思うよ。邪魔なんだよね、ガチで」


「……頑張ります」


喉の奥が、熱い。隣で、美佳ちゃんが甘い声を上げた。彼女の列だけは、途切れることがない。


「ねえ、聞いたよ。あんた、社長と寝て仕事取ろうとしたんだって? 歌が上手いからって、調子乗りすぎ」


彼女は、ファンに手を振りながら、私にだけ聞こえる声で笑った。事実無根。でも、誰も信じない。


「頑張ります」


「もうさ、同じ空気を吸うのも無理。ステージの上で息を吸うの、やめてくれない?」


「頑張ります」


「今日のライブ終わったらさ。そのまま、この世から消えてくれるかな」


真っ赤に塗られた美佳ちゃんの唇が、楽しそうに弧を描く。私は、彼女の完璧な美しさを見つめた。


「……頑張ります」


家についても、地獄が待っているだけだった。スマホには、父親からの短いメール。


『お前のせいで、会社にいられなくなった。どうすんだ、これ』


コンクリートの壁が、ジリジリと私を押しつぶしに来る。


インターホンが、心臓を直接叩くみたいに鳴り響く。そのたびに、首筋の産毛が逆立つ。


玄関を開けると、四人前のピザを抱えた配達員が、また困った顔で立っていた。


続いて届く、頼んだ覚えのない着払いの重い荷物。中身は、真っ黒に汚れた古い雑誌の束。


配達員の、可哀想なものを見る目が、私に刺さる。雨上がりに道端に捨てられた、ボロボロのぬいぐるみを見るような、冷めた同情。


背後から、母親の冷え切った声が降ってくる。


「だから言ったじゃない。アイドルなんてやめなさいって。結局、こうやって人に迷惑をかけるだけなんだから」


彼女は私を助けようともせず、ただ不機嫌そうに溜息を吐いた。


実の娘が壊れていく音よりも、鳴り止まないインターホンの音のほうが不快だと言わんばかりに。


スマホの中では、私の顔をした誰かが、知らない男の人を誘っていた。最新技術を無駄遣いして作られた、精巧な偽物の私。


動画のつなぎ方、テロップの入れ方。確証はないけれど、画面の向こうから、美佳ちゃんのセンスが透けて見えた。


あの子がいつも振りまいている、逃げ場のない甘ったるい悪意。デジタルの壁を越えて、この部屋をジワジワと侵食していく。


私は、キッチンの引き出しを開けた。


昨日、丁寧に研いだ肉切り包丁。銀色の刃が、蛍光灯の下で、ゾッとするほど綺麗に光っている。


私の価値は、コンビニ弁当の端っこに入っているパセリだ。誰も食べないし、彩りにすらなっていない。


捨てられるのを待つだけなら、最後に、一番大きな音を立ててやろうと思う。


死ぬのは、怖くない。でも、このまま「頑張ります」の呪いに縛られて消えるのだけは、嫌だ。


カバンの中に、タオルで包んだ肉切り包丁を隠す。ずっしりとした重みが、今の私には唯一の救いだった。


ライブが終わったら、美佳ちゃんを刺す。


そのあと、私も死ぬ。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


ライブ当日の、舞台袖。使い古された芳香剤の匂いと、誰かの香水が混じって、吐き気がする。


「たぶん、今日が最後のご奉公ね」


美佳ちゃんが、私の肩を叩いた。指先に込められた力が、あからさまな嫌悪を伝えてくる。


彼女の目は、私を人間として見ていない。道端に落ちているガムのカスを見るような目だ。


「……頑張ります」


私は、彼女の真っ白な喉を見つめて答えた。心臓が耳元で、工事現場のドリルみたいに暴れている。


もうすぐ、終わる。


何もかも、終わらせてあげる。


本番一時間前のリハーサル。誰もいない客席に向かって、私は、ただひたすらに歌った。肺からせり上がる熱が、冷え切ったライブハウスの空気を震わせる。


ふと、舞台袖に、美佳ちゃんの気配を感じた。


彼女は、いつもみたいに私を鼻で笑おうとして……でも、その顔は見たこともないくらいに引き攣っていた。


小刻みに震える彼女の指先が、私の声が持つ質量に怯えているのがわかる。


「マズい」って顔。


自分の玉座が、安物のプラスチックみたいに壊れるかもしれないことに気づいた顔だ。


「……これ、飲みなよ。喉にいいから」


リハの後。美佳ちゃんが、笑顔で差し出してきた、温かいハチミツドリンク。


一口飲んだ瞬間に、喉の奥が焼けるような、鋭い刺激が走った。激辛の香辛料か、あるいはもっとエチ臭い何か。


粘膜がただれ、声帯が悲鳴を上げるのがわかる。彼女は、恐怖を悪意に変えて、私の唯一の武器を壊しに来たんだ。


「ありがとう。……頑張ります」


焼ける喉の痛みを、私は静かに飲み込んだ。


大丈夫。この痛みさえ、全部ガソリンにしてあげるから。


SEが鳴り響く。地響きのような歓声が、ステージの向こうから聞こえてきた。眩しすぎる照明が、真っ白に視界を焼き切る。


客席からのペンライトは、私を応援する光じゃない。「あっちに行け」と私を拒絶する、光り輝く壁みたいに見えた。


喉を焼くような熱を抑え込み、私はいつも通り、いや、それ以上に声を絞り出す。


一曲目、二曲目。


激しいダンスのたびに、カバンの中に隠した肉切り包丁の重みを思い出す。あの銀色の光だけが、今の私のお守りだ。


美佳ちゃんに喉を焼かれたせいで、息を吸うたびに、剣を飲み込んでいるみたいに痛い。でも、まだ止まらない。止まってやるもんか。


ついに、その時が来た。


三曲目。曲の盛り上がり、私のソロパート。


一番高い音、一番響く声。


これが、私の最期の歌だ。


息を吸い込み、喉を開こうとした、その瞬間。


――音が、消えた。


伴奏のオケだけじゃない。私の手にあるマイクも、死んでいる。


機材トラブル? いや、違う。


舞台袖で、ニヤリと、誰かが笑った。


美佳ちゃんだ。


彼女と目が合った。その歪んだ口元が、「ざまぁ」と形作った。


会場が、静まり返る。最前列のオタクたちが、クスクスと笑い声を漏らす。


「放送事故じゃね?」


「あいつ、マイク持ってる意味ないじゃん」


私の頭の中で、何かがブチ切れる音がした。


殺そう。今すぐ、このマイクを投げ捨てて、袖にいるあの女を刺しに行こう。どうせ私の居場所なんて、どこにもないんだから。


肺の奥でドロドロに煮えくりかえっていた殺意が、喉を駆け上がる瞬間に、爆発的な『光』へと変換された。


理屈じゃない。これは、神様が私にくれた、最後で最高の復讐の手段だ。


私は、マイクを床に置いた。


一歩、前へ出る。


「――――――――――――――――――――――ッッッッ!!!!!」


スピーカーなんて、いらない。私の喉から放たれた声は、地下ライブハウスの低い天井を突き抜け、壁を震わせた。


自分でも驚くほどの音圧。19年間の絶望を全部乗せた、100デシベルの遺言。


客席の嘲笑が、一瞬で凍りついた。


ペンライトを振る手が止まる。


スマホを掲げていた手が、震えている。


伴奏なんていらない。私の声だけで、この汚い空間を塗りつぶしてやる。


サビの高音。突き抜けるようなビブラート。私の声が、物理的な衝撃になって、観客の耳の奥を直接殴りつける。


私は、誰の顔も見ない。ただ、叫んだ。


気持ちいい――


こんなに空気が美味しいなんて、知らなかった。



歌い終えた瞬間。


会場を支配したのは、耳が痛くなるほどの静けさだった。


一秒。

二秒。

三秒。


――ワアアアアアアアアアアアアアアア!!!


地鳴りのような拍手。


ステージの端で、美佳ちゃんが腰を抜かして、床にへたり込んでいるのが見えた。


あは。最高にダサい。


最前列の男が、信じられないものを見たという顔で、手に持っていた美佳ちゃんのタオルを床に投げ捨てた。


「……センター、交代だろこれ」


呟いた小さな声が、波紋みたいに会場中に広がっていく。


「交代!」


「センター交代!」


「本物はこっちだ!」


さっきまで美佳ちゃんの名前を叫んでいた喉が、今は私の名前を、狂ったように連呼している。


美佳ちゃんはステージの隅で、まるで自分だけがモノクロの世界に取り残されたみたいに客席を眺めていた。


自分を愛していたはずのファンたちが、手のひらを返して自分を否定する刃に変わる。


その絶望的な光景を、私はただ、他人事のように眺めていた。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


三日後。私の人生は、バグったみたいに一変した。


あの日、誰かが撮っていた切り抜き動画が、一晩で一億再生を超えたらしい。


「絶望のアカペラ」


「地下に眠っていた本物の歌姫」


「史上最高」


ネットの熱狂は、スマホの画面を突き破って世界まで届く。


音楽界の神様と呼ばれる世界的プロデューサーの投稿が、トドメを刺した。


『この歌声の前では、すべてがノイズでしかない』


その一言で、私の価値が確定した。もう誰にも、数合わせのパセリだなんて言わせない。


美佳ちゃんは、その画面を見つめたまま、魂が抜けたような顔で笑っている。


楽屋のドアが、勢いよく開いた。


「次のシングル、君の単独センターで決まったから! いけるよね? 頑張れるよね?」


事務所の社長が、揉み手で寄ってくる。あんなに私を無視していたのに。


「……頑張ります」


「ごめんね! 君の才能、ずっと信じてたんだよ。一緒に武道館、目指そう」


マネージャーが、涙ぐみながら私の肩を抱こうとする。


気持ちわるい。


「……頑張ります」


「ねえ、私たち、ずっとあんたのこと凄いって思ってたんだ! 今度、ご飯行こうよ」


昨日まで私を、邪魔だと言っていたメンバーたちが、媚びるような笑顔で群がってくる。


ああ、この人たちの顔。ゴミ捨て場に群がるカラスみたい。


「……頑張ります」


私は、鏡に映った自分を見た。そこには、相変わらず地味で、平凡な女の子がいる。でも、もう顔面に笑顔を張り付ける必要はない。


カバンの中から、丁寧に梱包した肉切り包丁を取り出した。


社長たちが、ヒッと短く悲鳴を上げる。


私はそれを、そっと机の上に置いた。誰かを殺す必要なんて、もうない。


「辞めます」


「えっ……? センターなんだよ!? 一億再生なんだよ!?」


「私、頑張りましたから」


衣装のバッジを外し、唖然とする大人たちの間を通り抜けた。


部屋の隅。震えながら、真っ白な顔で私を睨みつけている美佳ちゃんがいた。


「あんた……っ! 卑怯よ、こんなの……! 私の、私の場所を……! 絶対に許さない、呪ってやるんだから……!」


その声は、もう誰にも届かない。今の彼女は、ただの歌が下手な元センターでしかない。


私は初めて、彼女の目を真っ直ぐに見つめた。そして、今日までで一番の、本物の笑顔を浮かべてやった。


「頑張って」


私を縛り続けてきた呪いを、彼女の亡き骸にポイ捨てした。


地下室の重い扉を開ける。階段を上るたび、埃っぽい空気から、外の風の匂いへと変わっていく。


空は、眩しいくらいに青かった。


さあ、何をしようかな。とりあえず、美味しい惣菜パンでも買いに行こう。


パセリが乗ってない、一番高いやつを。



――頑張りました、私。

結局、私はパセリでした。

でも、たぶん、世界を刺し殺せるくらいの毒はあったんだと思います。


また気が向いたら、どこか別の地下室でお会いしましょう。

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