5-8 終焉
その間、神と呼ばれていたものは何もできずに立ち尽くしていた。
端末の警告は赤く点滅し、ログは消え入り、召喚の文字列は意味を失う。
全能の座に座すはずの「それ」は、ただ震え、奇妙な声で泣き言を呟くだけだった。
「想定外だ……」と、白い虚無の内側で。
やがて、最後の核が砕ける。
黒い球体は砂のように崩れ、残滓は風にさらわれる。
空間を満たしていた勇者因子の培養装置が消え失せる。
闇の大精霊は静かに、大地のような声で呟いた。
「これで、勇者と魔王の歯車は完全に沈黙した」
元勇者は頷く。だが、その顔には喜びの色はない。むしろ憔悴に近い静けさだ。
「何百年は保つかもしれないが……」闇の言葉が続く。
「この神が完全に消滅するのも、時間の問題だろう。」
勝利の余韻は短い。現実は常に残酷だ。元勇者はすぐに判断を切り替えた。
「ここで神をとどめにするのは難しい。人々が神を覚えている限り、不滅という性質は消えない。力の源が残るなら、いずれ復帰するだろう」
慎重な苛立ちが彼の動作を支配する。
祭壇や教会を焼き払う――それも一手だが、即座に人々の恐怖と祈りを喚起するだけで、かえって神を肥やす。
破壊は短期的勝利をもたらすが、祈りという“燃料”を大量に供給してしまえば、失ったもの以上の危険を産む。
「人々に祈られなければ、神は力を失う」――彼はそう断じ、行動を選ぶ。
だからこそ彼は、地上の教会も神殿も、壊さなかった。
代わりに、静かに種を巻くように、救済を施し始める。
病んだ者に薬を与え、飢えた者に糧を分け、孤児に手を差し伸べ、魔物を狩る。
かつての“勇者”が担ったはずの役割――人々が祈る必要を無くす実利的保護――を、彼は自らの手で行う。
それは本意ではない。救済という名の行為は、彼の胸に重くのしかかる。
「神のシステムから解き放たれた人々がどんな運命を迎えるかは、自分たちで決めるべきだ」──その言葉を、彼は自らに言い聞かせる。
やがて、人が祈らなくなれば、神は再び『存在』を保てなくなる。
信仰の刃が研がれるより前に、民衆の意識を淡々と解放していく。
それは緩慢だが確実な、革命に似た解体の作法だった。
元勇者は歩みを止めず、荒れ果てたラボの破片を踏みしめながら、ふと遠くを見た。
廃墟の向こう、まだ生きている街、家々、祈る者の影――彼はそこに希望を見るのか、或いは責任を見るのか。
「人が神に祈らないようにする救済活動――本当に不本意だ」
彼は小さく呟いた。だがその声には、揺るぎない決意があった。
第五章 完




