嘆きの王女、アザレイン
アザレイン――元の名を、アズリエ。
修道院の鐘が鳴り響くたび、彼女は小さな祈りを捧げていた。
身寄りのない子らが集められた聖レミア修道院で、彼女は清らかな信仰のもとに生きていた。
白衣をまとい、貧しき者にパンを分け、病める者の傍で歌をうたう。
その声は静かで透きとおり、聴く者の心を鎮めた。
「祈りを捧げよ。神の声は沈黙の中にある」
神父レメルドは厳格な教えを説きながら、孤児たちを導いていた。
だがその裏で、聖職者たちは腐敗しきっていた。
レメルドもまた例外ではない。
孤児を“養子”の名で売り捌く、闇の奴隷商であったのだ。
アズリエが歌う場所は、やがて祭壇ではなく闇市の舞台となった。
夜ごと、仮面を被った貴族たちが集い、血塗られた見世物が開かれた。
貴族は、煌びやかな衣服を纏いながら、酒に酔っていた。
アズリエは白衣をまとい、ショーの脇役として鎮魂歌を歌った。
メインは、生贄の首を刎ねる残酷な儀式だった。
舞台の中央、アズリエの歌声だけが、静かに世界を拒んでいた。
アズリエは毎夜、祈り続けた。
――どうか、こんな惨劇を止めてください。
――欲望のために、人が人を殺すのをやめさせてください。
けれど、神は沈黙を守り続けた。
やがて、彼女は座長ミルニクに直談判する。
ミルニクは深くため息をつき、煙草を吸った。
「首を落とすのは罪人さ。俺だって好きでやっちゃいない。
けどな、上からの命令だ。見せしめが必要なんだ。
だから、アズリエ――せめてお前が鎮魂歌をうたってくれ」
それからのアズリエの歌声は、いっそう清らかで、いっそう美しくなった。
ショーの客は増え、演目はより残酷に変わっていった。
ある朝。
水を汲みに行った井戸の底に、闇が裂けた。
ゲートが開き、そこから死神ノクサが姿を現した。
「穢れなきシスター、アズリエ……。
貴様の祈りは神に届いたか?
なぜ神は答えぬ。なぜ人は死ぬ。
今夜、すべてが分かるだろう。
――我と契約せよ。願いを叶えよう」
死神との邂逅に対する恐怖を抱えたまま訪れた闇市で、神父レメルドを見た。
どうして、ここに……
底知れぬ不安がアズリエの心を支配していた。
その夜、舞台の灯がすべて落とされた。
闇の中、アズリエは歌い出す。
目の前には、泣き崩れる中年の男。
「アズリエ……悪かった……許しておくれ……」
知らぬ男が、自分の名を呼んだ。
座長ミルニクの嘲る声が響く。
「そいつは戦で死んだはずのお前の父親だ!
金のために、お前を神父に売った張本人さ。
さあ、そいつのために歌え!」
油を塗られた父の身体に火が放たれる。
炎が一気に立ち上がり、歓声が上がる。
「どうした、歌わないのか!」
レメルドが笑い、ミルニクが笑う。
仮面の貴族たちが、拍手を打つ。
――ああ、そうか。
神なんて、最初からいなかったのだ。
アズリエは静かに胸の十字架を外した。
ゆっくりとネックレスは左手から地面に落ちる。
彼女はこれまでで、いちばん美しい声で歌をうたった。
ノクサに捧げる歌を。
その瞬間、各地で炎が上がった。
闇市の出入り口は塞がれ、逃げ場はなかった。
父も、レメルドも、ミルニクも、そして観客の貴族たちも――
皆、生きたまま、炎に包まれた。
アズリエは黒炎に包まれて、血の涙を流した。
夜が明けたとき、闇市の舞台は跡形もなく焼け落ちていた。
ただ一人、灰の中で立つ少女がいた。
彼女はノクサと再び相まみえた。
そして、死神から契約を与えられたのだ。
「アザレイン。その名は強き者の涙。
お前は歌い続けるのだ。永遠に。
お前の歌声はすべてを浄化する。
人々の欲望を洗い流すのだ」
魂の奥底に、黒炎が灯る。
祈りは姿、形を変え、欲にまみれた人々を狂わせる憎悪となった。
失われた信仰の果てに、彼女は悪霊の王に成り果てたのだった。
彼女はその日――“嘆きの王女アザレイン”となった。
――表通りサン=ビルマ――
アザレインは微笑んでいる。
ポーカーフェイスの周りを漂いながら、ゆっくりと歌い始めた。
なんと、醜い叫び声だろう。
頭蓋の奥を焼くような旋律。
ポーカーフェイスは頭を押さえ、膝をつく。視界が歪む。世界が軋む。
「ポーカーフェイス!ただのつまらない人間だ!自分の欲に溺れて死ね!」
アザレインが叫び、左手の爪が襲いかかる。
だがその刹那、ポーカーフェイスの胸元から聖光が炸裂する。
大剣に宿る白き光が、アザレインを吹き飛ばした。
「ぎゃあああ!」
彼女の顔が焼け、悲鳴が空へ響く。
ポーカーフェイスは追撃に転じた。
走りながら剣を掲げ、連続して聖光を放つ。
光が空を裂き、叫び声を押し返す。
――トドメだ。
振り上げた大剣が天を裂かんとした瞬間、アザレインの姿が霧のように掻き消えた。
「よくも……やりやがったなあああ!」
次の瞬間、サン=ビルマの空に彼女の姿が現れる。
頬を伝う涙が落ち、黒炎が燃え上がった。
その炎は矢のように走り、ポーカーフェイスの体内を内側から焼き尽くしていく。
「ぐっ……!」
苦痛に声をあげ、地に倒れ込むポーカーフェイス。
黒炎は絡みつき、立つことさえできない。
勝敗は決したかに思えた。
だが――
路地から、一筋の光が射した。
女エルフの放った聖光の矢が、アザレインの胸を貫く。
アザレインの身体が地に叩きつけられる。
しかし、まだ息がある。
黒炎は消えず、彼女を覆うように燃えていた。
泣き声が止むと、ポーカーフェイスの身体は自由を取り戻した。
彼は唇を噛み、立ち上がる。
決着の時。
ポーカーフェイスは最後の聖光を放った。
閃光が闇を裂く――だか、泣き声は途絶えない。
次の瞬間、ポーカーフェイスの大剣を振り抜いた。
「術がきかない……どうして……動ける……」
アザレインの肢体が、真っ二つに切り裂かれる。
重い音とともに、ポーカーフェイスの身体も崩れ落ちた。
女エルフが駆け寄り、声をかける。
「!!!!!!!」
その声はノイズのように歪み、耳をつんざいた。
ポーカーフェイスは気を失った。
女エルフは静かに息を吐いた。
「まさか……聖光を自分に向けるなんてね」
ポーカーフェイスは聖光で鼓膜を破裂させた。
泣き声が聞こえなくなることで、黒炎の術を無効化したのだった。
耳から涙のように血が流れていた。
それは――罪なき民を聖光で焼いた己への、せめてもの報い。
人々が横たわり、燃え尽きた炎の残骸の中で、風がひとつ、祈りのように吹いた。
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