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12話

門の前に警備員が、エントランスにはコンシェルジュが常に待機している区内の一等地に佇む今風のタワーマンションの36階。講義終わりの溜まり場と化しているその場所、初夏の昼下がり、窓一面に広がる景色は圧倒的だった。


眼下には無数のビル群がぎっしりと積み重なり、その隙間を縫うように粒ほどの車が絶えず流れている。遠くの高架道路は陽炎に揺れ、さらにその向こう、霞む水平線の先に東京湾がきらりと光っていた。


コンクリートが剥き出しになった壁。常人では理解出来ない形のダイニングテーブルの上には、これまた理解できない構造のデバイスが転がっている。多くの部屋が連なる一室、開け放たれたドアの先から、キーボードを叩く音が規則的に聞こえる。液晶を覗き込んだ繭佳は、Sで埋まった画面を見つめ、苦笑いを溢した。


「もう、今日やめれば」


「···················」


鎬とは中学からの仲の自称している繭佳。その姿は、一般的なスポーツマンとはかけ離れていた。


動物のように毛質の太い黒髪が、日に照らされ鮮やかな青く光る。ウルフ気味になった短髪の襟足だけを伸ばしているのは、酔い潰れ記憶がないうちに入れられていた頸のQRコード状のタトゥーを隠すためだ。実際にスマホで読み込むと、歌舞伎町のホストクラブ、トランスのNO,2 a.k.a BUBUのデジタル名刺にアクセスされる。本指名が入れば、繭佳に3%のマージンが入ることになっていた。


繭佳は、酒癖は頗る悪いが、それ以外の87%くらいは善良でできている。その証拠に、鎬とは違い、付き合い始めて4年が経った今でも、繭佳は初恋を成就させ続けている。


「飼い主がノスタルジー浸ってんぞ。なぁケル。お前は不純な理由で買われたってんのになぁ。キンタマ食いちぎってやれ」


飼い主を容認するように、耳をパタパタと動かすワイマラナーでオスのケルベロスと鎬は、3週間前ペットショップで出会った。銀灰色の毛並みが太陽を受けて柔らかく輝き、何重もの色をもつ琥珀色の瞳はどこか遠くを見つめている。主に女ホイホイにする目的と、あわよくばくみホイホイ、最終的にはホイホイされた女を使って、くみを嫉妬させるために、現金一括で鎬に買われたケルベロス。不純だ。とても不純だ。


デスクの下、ケルベロスは鎬の足元に寄り添うように伏せていた。


「毛があって、ちっさいほうが女の子ホイホイできるんじゃね?」


生後6ヶ月のケルベロスは、オスということもありまだまだ大きくなるだろう。去勢もまだしていない。来月、動物病院に行くことにはなっている。


「このタワマンに何匹そんなんいると思ってんだよ、俺に見分けられる訳ねぇじゃん。なぁケル?」


「ヴァフッ」


実際にエントランス近くのカフェテリアには、散歩もしていないのに散歩をさせられている犬がよくいる。プードルにポメラニアン、ダックスフンドと、大量の毛が常にわっふわふしていた。ようやく喋った鎬がボキボキと骨を鳴らし、大きく伸びをした。


不純だ、繭佳は家の家主を無視し冷蔵庫から外国の瓶ビールを取り出すと、なんの躊躇もなく歯で開けた。


「ケルー」


鳴きもしないケルベロスは、もうすぐ起動する自動給餌器の前にソワソワしている。最近変動が激しいケルベロスの順位付け。2位に己を置いているケルベロス。1位には当然のように自動給餌器を置く。ケルベロスは鼻で突いても撫でてくれない鎬を8位に格下げすると、苦し紛れに水を飲み、空腹を誤魔化した。しつこく構う繭佳は現段階で圏外に据えられている。


「またモヤってんのかよ」


書斎を出て、冷えたビールを手渡たされた鎬は、部屋の中央に置かれた茶色の革張りソファーへと飛び込むように腰を下ろした。


「なぁ?」


「あ?」


「女子高生って恋する以外何か出来んのかな?」


スマホをいじる繭佳と向かい合い、まるで即興のポエムを読むようにほざいた鎬。真剣な表情をつくった鎬は数度ポーズを変え、繭佳を苛つかせる。画面はお笑いのショート動画が永遠とループされていた。


「撮って欲しかったら俺に興味持たせてみろよ」


長い沈黙が流れる。すると、機械の稼働を察知したケルベロスが尻尾をゆったりと振り、フローリングに爪を鳴らした。


「···············俺、お前とつるんでこっんなに後悔したことねぇわ」


しみじみと語った繭佳は、我に返る。何故唆されてしまったからといって人生の大半を鎬と過ごしてしまったのか。己を悔いる。不幸なことに、押し付けがましい話を最後まで聞ける強靭な忍耐力を持ってしまった繭佳は顔を歪め、ハイネックで口元を隠した。


「だってあいつらそれしか考えてねぇだろ?」


口にしたものの、確かに『恋』を嘗めていた自覚はある。段々と成長するくみを思い出すだけで、胸が抉られたように痛い。それを今の今まで遊びの延長として捉えていた己の浅ましさを前に、鎬は喉元まで出かかった思考を噛み殺した。


手なんて出さなければ良かった、柄にもなく後悔滲ませた鎬が奥歯を噛み締める。


悔しさと、切なさと、少しの期待。全部が入り混じって、言葉にならないドロドロとした下心だ出来上がる。途端、鎬は途方もない喉の渇きを感じた。


ガラス製のローテーブルには赤と白のマルボロの箱と、火曜サスペンスの小道具のような灰皿。その中にはレシートや服のタグ、押し潰された吸い殻が二、三本残っていた。鎬は最後の一本を口にくわえ、握り潰した空箱を灰皿へと放った。数度火花を散らしながらライターが鳴る。火が先端が赤く染まると、すぐに白い煙がゆっくりと立ち上り、昼の光に透けて消えていった。


「俺。今、心の中でお前に死ねって思いました」


菩薩のような表情で呟いた繭佳の顔面へと煙を吐き出した鎬が、気だるそうに首を数度捻った。


「吸うならベランダ行ってくんね?」


「ここ俺の家なんだけど」


ケルベロスが長い脚を伸ばしてソファーに前足をかけ、ためらいもなく大きな身体を鎬へと寄せた。革がギシりときしむ音とともに、灰色の毛並みが、時折銀色に艶めく。


「ケル、お前の飼い主は毒だぞ、受動喫煙になるからこっちいらっしゃい」


胡座をかいた繭佳が深い欠伸をしながら、深爪の指で床を叩き、ケルベロスを呼び寄せる。僅かに視線を向けたケルベロスの首輪に指をかけた鎬が、不機嫌そうに目を細めた。


「惚れた男に”り”とか使うと思うか?」


何をしても、何を喋っても、思考が行き着く先は全てくみなのだ。


「何?本格的な相談はじめんの?あぁ、ちゃんと答えると、気心知れてれば普通にあるだろ。でも聞いてる限り、お前とくみちゃんではないだろうな、なぁ冷凍庫にあったピザ焼いて良い?」


「···················」


不必要にケルベロスを撫で回した鎬は、バツが悪そうに、ぽつりぽつりとくみとのあれこれを話し出した。


出会いから公園での数えきれないほどの逢瀬、母校の進学に、ようやく交換した連絡先。そして連絡がそっけないこと。そして連絡がそっけないこと。そして連絡がそっけないこと。


同じ話をぐだぐだと繰り返す鎬が、ケルベロスの背へと顔を埋め、なおも同じことをフガフガと話し続ける。一瞬、白目を剥いた繭佳は、眉間に深いシワが刻みながら、特上の江戸前寿司を一人前注文し、皮肉めいた言葉を溢す。


「一歩間違えれば映画みたいな大恋愛になってたかもなぁ」


胡散臭い占い師のような言葉を吐いた繭佳がハイネックで口元を覆いながら壁に向かって腕立て伏せを始めた。


「好かれねぇ理由が分かんねぇ」


「本当に良い性格してんよなー、お前はそれで、そのくみちゃんとやらに付け込もうとしてんだ」


「うるせー」


「んで告られ待ちなわけ?それでこれが例のラジオ?俺が捨ててやろうか?」


クイーンサイズのベッドの脇に置かれた小傷だらけのキューブラジオは、持ち主が変わった今でも現役で動いている。


「ざけんな」


鋭い眼差しを向けられても全く動じない繭佳が、キューブラジオにBluetoothで接続したスマホから、蛍の光を大音量で流した。


「おい、勝手に閉店させんな」


ちょうどその時、チャイムが鳴った。

「お、出前か」

繭佳が軽やかに呟くと、ソファーの上で大きく伸びをしていたケルベロスが、鼻をヒクヒクと動かし、匂いの元凶を辿っている。


「テーブルに置くなよ。ケル、サーモン好物だから」


鎬の家で鎬の鞄から鎬の財布を取り出した繭佳は、玄関先から寿司桶を受け取ってダイニングカウンターへ置くと、途端、湯気は立っていないはずなのに、ほのかな醤油や海苔の香りが辺りに漂う。


「ヴァフヴァフ、ヴァフッ」


「あー見ろ。サーモンバレたぞーどーすんだーよー」


食欲をそそる香りが動物の本能を刺激しているらしい。ケルベロスは小さな旋回を繰り返しながらキッチンへと続くリビングの周りを猛スピードで駆け回る。琥珀色の瞳は既に繭佳の手元に照準が定められ、尻尾をブンブンと振るたび、それは繭佳の脚に直撃した。


「いたたたっ、これ小学生のスイングくらいの威力はあるぞ」


「お前が早くやらないからだよ。やるならちゃんと水で洗えよ?米は駄目だ」


「ヘイヘーイ」


繭佳は、食前の手洗いをちゃっちゃと済ませると、4人前はある大きなピザを無理矢理トースターへと押し込み、ガリをひとつまみで飲み込みながら、手際よく寿司桶からサーモンを摘んだ。水でわさびを落としたサーモンは鮮やかな橙色を益々輝かせる。


「ケルの拷問タイム急に始まったなぁ」


感心するように呟いた鎬が、無意識にスマホの通知を確認する。案の定、くみからのものはなかった。


「はぁ早く俺に堕ちろー」


腹底から放り出した欲が、小傷だらけになった床を這う。鎬は冷蔵庫から解凍していたクレンズジュースを取り出しチビチビと飲みながら、ソーダストリームのスイッチを押し世迷言を呟く。


「ちゃっちゃと付き合っちゃおーぜー」


ものの5分で寿司を全て平らげた繭佳が、ピザの加減を見ながら、シンク下に仕舞われた圧力鍋に手を伸ばした。


「ちょっと俺、コンドーム煮込んでくるわ」


「安価に俺を殺ろうとするな」


言葉の意図を明確に理解した鎬が雑な口調で拒絶を見せると、ダイニングカウンターに置かれた、大量の文字が表示された繭佳のスマホに手を伸ばした。


「何、siriに書き起こさせてんだよ」


「純がうるさそうだから、俺より絶対あいつの方が的確なこと言ってくれると思うし。というかもう、正直飽きた」


お手上げとでも言わんばかりに、万歳をしたまま不自然にスマホを握りしめていた繭佳の急所を一瞥もせず蹴り上げた鎬は、足先を痛めながら、恨めしそうに呟いた。


「お前、下界でも金玉ケース付けてんのかよ」


満腹になった一人と一匹を興味なさげに目で追った鎬が、求めていない見返りを要求した。


「飯代分のアドバイスくらいしやがれ」


「まぁでも、足繁くくみちゃんとこ通ってんだもんなー」


哀れみを含んだ視線を鎬へと向けた繭佳が、ピザのチーズをズズズと吸い、ケルベロスの背で手を拭いた。


約3年前に実家を出ている事実をくみは知らない。偶然を装って公園へ通っているものの、くみが高校に上がってからは時間が読みづらく、待っている間は愛車の中でレポートや仕事を片付けることが格段に増えた。勿論、行ったからといって必ず会えるとは限らない。ついでにケルベロスを都内にはない広さのドッグランに連れて行く時もあれば、馴染みの店で時間を潰すこともある。それでも会えなかった時は、内心泣きながら高速に乗るのだ。自ら会いに行かなけれな会えない存在に、理不尽な怒りにも似た焦燥を感じる。


あぁ喉が渇く。


「だから最近プレイリスト、シャ乱Qばっかなんだな、ミミあげて良い?」


器用に外側だけを残した繭佳の声を聞き、ブンブンと尻尾を振るケルベロスが鎬へと承諾を求めた。


「それグルテンフリーだから何も付いてなかったら大丈夫。つか有耶無耶にすな、消せ」


「お前それ、付き合ったらくみちゃん絶対大変だぞ?」


「え、やっぱり付き合うと思う?やっぱ思うよなぁ、でも強制するつもりはねえよ。一緒にいる時はジャンクも食うし。まぁねるねるねるね食った時は相当頑張ったけどな」


「はっ食ったの!?くみちゃんすげー」


大学野球部に所属している繭佳は勿論のこと、鎬も加工品は極力食べないようにしている。自身が摂取した栄養素を明確に知りたい鎬は、若干潔癖が入っており、他人が作った料理が苦手だった。その知識はオタクの域に達しており、鎬の家に行けば良質な栄養を摂れることを知っている繭佳は、度々冷蔵庫の中を食い尽くしにやって来る。そのこだわりは当然、ケルベロスにも及ぶ。プロテイン入り、糖質オフ、グルテンフリー、完全栄養食、ロカボ、鎬が大好きな言葉だ。反対に、添加物、トランス脂肪酸、着色料、人工甘味料、酸化防止剤、鎬が大嫌いな言葉だ。


「お前、今日はビタミンDが足りてないから、卵食っとけよ」


「ありがとうよ、母ちゃん」


床に座り込んだ繭佳は、嫌がるケルベロスを無理矢理腹の上に載せると、器用に両脚で抱き込みながらゆっくりと腹筋を始めた。最初は嫌がっていたものの、繭佳の顔が近づくたび、油のついた口元を舐めるケルベロス。


ゲフッ、突然繭佳のゲップ攻撃を間近で浴びたケルベロスが、瞠目しながら、まばらに斑点のあるピンクの鼻をひくひくと動かした。


「だから30分は空けろって言ってるだろ」


「ごめんよ、母ちゃん」


脇腹を摩りながらフローリングに寝転んだ繭佳が、伸縮性のあるハイネックを思い切り伸ばし、頭を隠した。


「お前猫被りプロだからな。一回その素を見せてみれば良いんじゃないか?」


カラータイツを被ったように口だけが動いて見える繭佳は、わざとらしく雑な口調で言葉を続ける。


「俺らみたいのは一人で生きれちゃうからさ。大なり小なり努力しないとだめだ。その点俺はチームスポーツやってて良かったなって思うよ」


格好に似合わず真面目なことを言う繭佳に呆気にとられながら、鎬は長年の勘とも言える繭佳の思惑に気がついた。


「お前そのツッコミ待ちやめろよっすげぇ顔ムカつくわ」


ハイネックの先から、スポッと目元を出した繭佳が肩を揺らしながら勢いよく立ち上がり、寿司桶を洗いに流しへと向かう。チラチラと鎬に目配せをする視線は、餌待ちのケルベロスよりも格段にうるさい。


「···················」


「東京上野クリニック行ってこい」


「やっぱ間が開くと寒いな。これから練習だから無理。純に送っといたから、じゃあなケロー」


「ブァフッ」


ケルベロスがアイコンになった三人のグループラインには上限を超えた怪文が4つに渡り送られ、送った張本人の脇腹を擽った。


「ぐふっ······携帯小説かよ」


「おい、やらせておいて············は?送ったって!?お前!?」


モブから好物をくれる人間に格上げされた繭佳は、ケルベロスの頭をワシワシと撫でながら、残りのピザを口に押し込むと、寿司桶を抱えながら足早に鎬の家を後にした。

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