第3話 『ここからだ』
「――ハァ、ハァ」
齢二桁に届くかという程に小柄な少女は、砂に足をとられながらも大きく腕を振り、全力で身体を前進させていた。
しかしそんな努力を嘲笑うように少女の『耳』が捉える音は存在感を増していく。
爆発音にも聞きまがうそれは、間違いなく巨獣の足音だ。
追われるきっかけとなった花は既に手放したというのに、残り香を纏うだけの少女に巨獣は尚も執着している。
少しでも森の風景に同化するため羽織った土埃まみれのマントも、僅かでも匂いを誤魔化すために泥を塗りたくったフードも、意味をなしていないのは明白だった。
もはや隠れることもかなわない。
先程までは森の死角を活かしなんとか逃げのびていた。しかし湖に行きあたり、引き返すことも出来ず、見晴らしの良い湖岸を走る有様だ。
肺が大声で酸素を求め、砂浜を走る脚が加速度的に重くなり、重労働に悲鳴を上げる。しかしそれらを上回るほどの生存本能が、砂浜に手足を投げ出すことを許さない。
瞬間、接近し続けていた足音の質が変わった。それはいよいよ、巨獣が砂浜に足を踏み入れたのだという事実を告げていて。
「――っ!」
噴き出すように舞い上がる砂浜に足をとられ、ぐらりと体がつんのめる。よろめいた視線の先で、少女の影が山のような影に呑み込まれていった。
捕まる、と冷たい確信が耳元で囁く。
死が、絶望が、終焉が、うなじの後ろで生臭い息を吐きながら牙を剥いた。
命に指をかけられ、恐怖に魅かれるように少女はゆっくりと振り返る。
そこで目に入ったのは、大きく開かれた赤黒い口と、その中から少女の命を狙う牙――の前に割り込んできた、赤ぶちメガネの少年の姿だ。
「――掴まれっ!」
転ぶように突き出された手を咄嗟に掴む少女。そのまま強引に抱き寄せられ、顔が少年の胸に埋もれる。直後、身体を突き上げられるような衝撃が二人を貫いた。
息苦しくなるほどの間、衝撃に耐え続けた少女を次いで襲ったのは、空中に放り出された浮遊感。
自らの胸の中で慌てる少女に、少年が「大丈夫」と抱きしめていた腕の力を緩めながら声をかけた。
「勢いでちょっと浮いただけだよ。ほら、氷の上だ」
少年の胸から顔をはがし周りを見ると、確かに少女たちはガラスのように透き通った床に座り込んでいた。
太腿の冷える感覚でそれが氷だと理解する。
だが、ただ氷の床というだけではない。床は、巨獣すら到底届かないような高さに位置していた。
ふと横を見ると、そこにあるのは砂浜に似つかわしくない氷の柱。
大きくそびえたつそれが、大樹が枝の重みを引き受けるように、少女達の座る氷の床を支えている。
「男爵っ!」と少年が地面へ叫ぶ。その視線の先には、影がいた。――否、影ではない。影が地面から立ち上がったと錯覚する程、黒で全身を包んだ人物だ。
『男爵』と呼ばれたその人物は、獲物を見失い混乱する巨獣の前で、珍しい外套を不敵にはためかせていた。
すんでのところで獲物を逃した巨獣も、異質な存在を前に混乱を一噛みで砕く。血管の浮く白い眼球と底冷えする唸り声を眼前の存在に向けながら、踏みしめた後ろ足の踵が持ち上がって。
「――あとは頼んだぜっ!」
「――――ッッ!!」
少年の呼びかけが引き金となったように、唸り声は加速度的に巨大化し、刹那で咆哮へと姿を変えた。
大地を揺らし、空気にヒビを入れるようなその咆哮は、遥か上から見ているだけの少女すら、勢いで体が浮くかと錯覚してしまう程の怒気と殺意を孕んでいる。
しかし、膨れ上がる巨獣の威圧感を一身に浴びながら、それでも男爵は――
「ああ――承った」
シルクハットを右手で抑え、笑っていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
規格外。
陳腐なその表現しか似合わないほどに、男爵は巨獣を圧倒していた。
地面を抉らんとする勢いで振るわれた巨獣の角を、的確に跳び、あるいはしゃがみ、バランス一つ崩すことなく長い手足で軽快に避ける。それも、しゃがみついでに撫でた砂浜の一部を、次の瞬間には緑の芽吹く地面へと変えながらだ。避けられ、当たらない角にしびれを切らした巨獣が、口を開き牙を見せつけ、大きく身を乗り出す。――が、無意味。
「大自然アッパーカットだ、舌噛むなよ」
数歩下がった男爵を追おうと巨獣が更に踏み込んだ直後、先ほど緑の芽吹いた地面が勢いよく盛り上がった。それは弾丸のようなスピードで巨獣の顎を下から打つ。――撃つ。
「――ッッ!?」
大口を強引に閉ざされ、牙が歪に合わさる鋭い音が鳴り、脳の揺れた巨獣がふらつく。
「まだまだ」
塔のように盛り上がった土は、まるで生きているように柔軟に形を変え、追撃の手を緩めない。目を白黒させる巨獣の横にぐるりと回り込むと、その脇腹に容赦なく激突した。
悲鳴のような雄叫びと共に、巨獣は横殴りに森へ吹き飛ばされる。
巨獣が勢いよく木々に身体を打ち付けた直後、舞い上がる土煙を貫いて、止まらぬ土の柱が三撃目を食らわせた。
衝撃に大地が震え、空気が嘶く。
数秒経ち土煙が落ち着くと、森中の蔦が、葉が、枝が、根が、動かない巨獣に自らを絡みつかせ、指先一つ動かせないよう拘束を開始した。
すごい、と横から声がする。
見ると、少女が呆気にとられたように口元を抑えていた。フードに遮られても伝わるほどの驚愕だ。
だが無理もない、少女からすれば男爵がやったと理解することすら難しいだろう。そう思い、カケルが男爵に視線を戻すと――
「驚いたな、もろに三発入っただろ。あれで動けるのか」
「――――ッッ!!」
大森林の拘束をブチブチと力任せに破り、巨獣は立ち上がっていた。興奮で紅く染まった眼球を向け、見境なく角を振るい、噛みつき、踏みつぶそうと男爵に襲い掛かる。
「――きゃっ」
「っと、あぶね。きみ、俺につかまってて!」
震動に少女がバランスを崩した。カケルが抱き留め指示を出すと、少女はカケルの胴にしがみつく。地上の震動は高所に位置するカケルたちには数倍の威力。このままでは。
「ごめん男爵っ、早めに終わらせて! じゃないと俺ら真っ逆さま!」
「大丈夫だ。今ちょうどいい方法を思いついた」
言って、男爵は飛び退くと砂浜をさらりと撫でた。
「でかいのにはでかいのだよな」
言葉と同時に、巨獣の足元の砂が大きく盛り上がる。低い音を響かせ、埋もれていた象が立ち上がったように盛り上がる砂は、そのまま一つの意志の元に統率され、巨獣に纏わりつくように存在を構成していく。徐々に見えてきた輪郭の正体は一目瞭然だ。
纏わりつくのではなく、巻き付く。輪郭の正体は、木々を踏みつける巨獣を容易に縛り上げるほどの大蛇だ。憤る巨獣の抵抗も意に介さず、大蛇は巨獣もろとも動きだす。
「準備はできてるぜ。こっちだ」
大蛇の行く先には、湖に右の掌を浸からせる男爵がいた。――否、その表現は正確ではない。確かに男爵が立っているのは湖の前だ。だが、立っているのである。
通常、人間は直立したまま足元の水に触れることはできない。仮に、水が浮かびでもしない限りは。
「――嘘だろ」
あまりに荒唐無稽な光景に、カケルは呆然と目を見開く。
端まで見渡すのが難しい程に巨大な湖だった。これぞ大自然と拍手したくなる程の。
しかし今、その湖は一滴残らず球状に浮かび上がり、風に吹かれて波を打っている。
ただの水。それが集まり巨獣や大蛇すら比にならない質量を為しているのだ。
浮かんだ湖の中で泳ぐ魚たちが、不思議そうな目で男爵を見ていた。
砂の大蛇が男爵のもとへと進む。締め付けられる苦しみに巨獣が叫ぶが、それにも構わず強引に引きずり、男爵に近づいても止まらず、むしろさらに勢いを増した。
水に掌を浸けている男爵の真横を通り過ぎ、大蛇は巻き付いた巨獣ごとその身を湖の中に投げ出した。白い砂の体が水に濡れ、黒く染まり、崩れ落ちていく。
水中でもはや咆哮すら封じられた巨獣が、血管の浮いた目で足をばたつかせる。が、陸の支配者も水中では無力。出来るのは辛うじて顔を湖から出す程度の身動きだけだ。
しかし巨獣の闘志は萎えはしない。瞳の無い目は男爵を捉え、大口を開き牙を向ける。
危ない、と叫びかけたその時だった。
「――――終わりだ」
「――あ?」
男爵の声が聞こえた刹那、カケルは生物の本能に従って自らの両腕を抱き、さすっていた。
自分の行動の意味が分からず困惑するが、そんな理性とは無関係に両腕は自らをさすり続ける。
さすり、さすり、さすり続けて、そこで白く染まったメガネに視界が遮られていることに気づき、ようやく理解した。
肌を抉るような冷気が、カケルたちを襲っていたのだ。
「だ、大丈夫? 寒いよね」
夏服のカケルにも耐えがたい寒さだが、カケルよりも小柄で巨獣からの逃亡に疲弊した少女には、この寒さに耐えられるだけの体力が残っていないかもしれない。そう考えたカケルは咄嗟に、自らにしがみついていた少女を抱き寄せ、マント越しに肩をさする。
「あ、ありがとうございます……」と白い息を吐く少女の身体も震えていた。
「だ、男爵――」
必死に熱を生みながら視線を向けたカケルだが、そこで状況を理解し、手が止まった。
男爵の喉元で静止するのは、氷の牙だ。氷の牙は氷の巨獣から生えており、氷の巨獣は、巨獣がただの突起に見えるほど巨大な氷塊に埋もれていた。そう、つまり男爵は。
「凍らせた。湖ごと全部」
氷に掌を押し付けたまま、男爵は体内の冷気を押し出すように細く白い息を吐いた。
曇った赤メガネを邪魔に感じ、視界がぼやけるのも構わずに外す。
カケルがその光景に目を奪われていることを自覚したのは、一瞬遅れてからのことだった。
視界のぼやけなど無意味なほど鮮烈に、白に満たされた光景はカケルの瞳に焼き付いて離れない。
「――ここからだ、カケル」
湖で作られた氷の球体と氷の巨獣。その前に立つ男爵が振り返った。
口にする言葉は少女と会う前、男爵が言ったものと同じだ。それは――
「――自分探しの旅ってやつだよ。ここから、カケルの悩みと向き合う旅が始まるんだ」
風が吹き抜け、男爵のコートが大きく膨らんだ。曇りをとった赤メガネを掛けなおす。氷が太陽を反射し、きらめいて、カケルは眩しさに目を細めた。
影が立ち上がったように黒々とした男爵は、白く凍てつく氷塊の前で、その存在感を浮き彫りにしていた。瞬きが出来ない。鮮やかな黒があることを、カケルは初めて知った。
――動悸がする。だが、あの時の動悸じゃない。
これはカケルの目を奪った存在に対する、敬意のような鼓動だ。
悩みに向き合う不安はある。夢に閉じ込められた不安もゼロではない。だが、それでも――
下校中、路地裏に入りたくなる時がある。そこには人語を解する黒猫がいて、しゃがれた声で別世界へ誘う。そんな出会いを、毎日が変わるきっかけを、カケルは求めていた。
これは出会いだ。カケルが逃げ出したいと思っていた毎日が、一変するきっかけだ。
「ねえ、男爵」
声が震えるのは、寒さか興奮か。カケルの口元がニヤリと歪んだ。
「俺、すっげーワクワクしてる」
「ああ、よろしくな、カケル」
男爵が愉快そうに、モザイクを煌めかせた。