第2話 『逃げ続ける者』
「えーつまり話を纏めると、黒コートさんは生まれも育ちも夢の中の夢人間ってこと?」
「そうだ。理解してもらえたみたいだな」
「ああ――さっぱりわかんない」
忙しない出会いから十分。大森林のただなかで、カケルは黒コート男爵から教えられたことを反芻していた。頭を抱えるカケルに対し、眼前の異常の存在は肩を竦める。
「簡単な話だ。俺は物心ついた時から、人の夢から夢へと渡り歩く存在だった。それで今日も渡り歩いてたんだが、急にカケルの夢に捕まってな、落っこちたんだ。それにカケルの意識も引っ張られた形だな。つまり現実のカケルは今寝てるはずだぜ」
「いつから夢だった……は聞いても仕方ないか。だとしても俺、こんな明晰夢見たことないよ。夢っていったらもうちょっとボヤってしてるじゃん。あとそのモザイクは?」
「俺がいるからな、明晰さの類は色々補強されてるんだ。モザイクは気にしないでくれ。俺にも原因がわからない。とりあえず、その格好じゃ嫌だろ。新しいのを用意しよう」
飄々と答える男爵が手をかざすと、掌の前の空間に歪むような異変が生じた。一瞬目を凝らしたカケルだが、直後、異変の正体に眼を見開く。
それは、黒い粒子。
一粒では眼球に触れたとしても気付かないほど微細で、存在と非存在の狭間に漂う何か。それが無数に群れを成し寄り集まって、ゆっくりと廻る一つの渦を作り上げている。
「よっと」
渦の異質さにカケルが言葉を失っていると、男爵が黒渦に無造作に腕を突っ込んだ。粒子を散らすような行いだが、黒渦の裏側から指先が突き抜けることはない。
男爵はその異常現象を気にした様子もないまま、何かを探すように腕をガサゴソと動かし続ける。「お、あったあった」
「カケル、とりあえずこれ着ろよ。あとは靴も必要だな」
渦から引っ張り出すように投げ渡されたのは、白シャツと紺のズボン。高校の制服に似たものだ。言われてみればカケルは先ほどの白い大樹の粘液まみれなままである。
「ありがとう、黒コートさん」
「気にするな。服ぐらい大したことない」
「服もだけど、俺を助けてくれたのもだよ。夢の中で怪我とかするのかわかんないけど、死ぬかと思ったし。だから、ありがと。何かお礼をしたいところなんだけど……」
「それなら黒コートさんなんて他人行儀じゃなく、男爵と呼んでくれ。今まで出会ったカケルと同じ立場の人間――俺は『夢の主』と呼んでるんだが、そいつらもそう呼んでた」
「じゃあ、男爵。……それ、名前なの?」
「変か?」
「そもそも男爵って名前じゃなくて爵位だし……」
「カケルの苗字だって、岡に田んぼで岡田だろ? なら黒にコートで黒コート、ついでに男爵で黒コート男爵だっていいじゃないか」
「いやその理屈はおかしい」
飄々とした態度で放たれる軽口にツッコみ、カケルは思わず息が抜けるように笑う。
「わかった。よろしくね、男爵」
笑いを押し殺すのもばからしくなり、カケルは笑顔でそう言った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
その後、カケルは制服を手に取り、着替えを始めた。
「でも確かに、これが明晰夢の凄い版って言われると色々納得いくんだよな」
シャツに袖を通しながら状況を整理すると、カケルはひょいと落ちてきた空を見上げる。
「あれだけ上空から落下したのに気圧差的なのなかったし、寒さもあんまり感じなかった。っていうか冷凍庫開けたら異世界ってのがまず意味わからんし、それに」
それに、存在一つで「夢」に説得力が出てくるほど、男爵は異質な雰囲気を纏っていた。加えてモザイクと、謎の渦と、やけに肌触りのいい制服だ。根拠は充分だろう。
「俺を受け止めてくれたあの白い木とでっかい綿みたいなのも、男爵のおかげ?」
「そうだ。夢の中だからな、大体何でもできるんだよ。――こうすれば芽が生えるし」
言葉とともに男爵が地面を指さすと突然、土を押しのけてひょっこりと緑の芽が生えてきた。
「こうすれば成長もする」
近づき、小さな芽を隠すように手で覆う。そのまま腕を徐々に上げていくと、手の動きに連動するように芽が伸びて幹になり、伸びた枝は瞬く間に葉をつけ緑に染まり、張り巡らされた根は地響きのような音を鳴らして大地を揺らしながらその太さを増していく。
土を割り、靴裏から盛り上がってくる根を慌てて避けたカケルが視線を戻すと、そこには、カケルの数倍の背丈の大木が完成していた。男爵が幹に触れながら振り返る。
「俺は『力』と呼んでいる。夢の主のカケルも多少は使えるはずだぞ」
「男爵のコテコテすぎるネーミングセンス、嫌いじゃないよ。――って俺も出来んの!?」
「ああ、重要なのはイメージだ。身近で想像しやすく、出たら嬉しいものを考えてみろ」
「よーし、身近で……想像しやすい……学校……っ思い付いた! これしかないっ!」
手をかざすカケルの脳内に一筋の閃きが走った。それを思うまま念ずる。が、出ない。
気まずげな沈黙が二人の間に横たわった。
「何で?! 俺が想像したのは『話が長い校長』だぞっ!? どう考えても最適解だろ!?」
「色々意味が分からないが、どう考えても間違いよりだろ校長は」
「ついでにラスクも試したのにダメだった。校長と好物、どっちも無理だ……っ!」
「その二択で好物がついでなことあるか? 普通」
呆れた様子の男爵だが、すぐに「妙だな」とシルクハットのツバを握り込んだ。
「急に完璧は無理にせよ、普通なら不完全なりに何かしら兆候があるものなんだが」
「そうなの?」
「ああ。今回なら普通は、話が長い教頭が出てきたりする」
「不完全ってそういう?」
などと軽口を交わしつつ、二人は森を歩く。風が森を抜け、揺れる葉がさざめいた。
「カケル、こっち来てみろよ」
いつの間にか木々の間を通り抜けていた男爵が、木々のない広まった空間で手招きをした。呼ばれるままにカケルも通り抜けると、大きく景色が開いて視界が白む。
「わぁ――」
目が慣れたカケルの前に広がっていたのは、碧々と横たわる広大な湖だった。白んだ視界は、太陽を湖が反射した結果だ。邪魔をする木々が消え、大きく広がる澄んだ青空。それを映す水面は色彩豊かに揺れていた。だが、カケルの目を引いたのは湖だけではない。
――そこに広がっていたのは、大自然が背景に感じられるほど、幻想的な光景だった。
一つ。茶色い体毛に白い嘴を持ち、羽のほかに二本の腕を生やした鳥が飛んでいた。
一つ。碧い鱗に半透明なヒレで、重力など存在しないかのように魚が空を泳いでいた。
一つ。家一軒を優に超える巨体が湖の中から顔を出した。大蛇のようなその生き物は、水中から勢いをつけて飛び上がり、空を泳ぐ魚の群れを呑み込むと、重力に従って湖の中に体を沈めていった。
跳ねる霧のような飛沫がカケルの顔を打つ。
波の打ち方、花びらの舞い方、生き物の一挙手一投足、あまねく全てが現実の論理を超え、視界の端から端までを非現実が埋め尽くしていた。
「なんだよこれ」
呆然とその光景に圧倒されながらも、カケルの口元は確かに笑みに歪んでいた。赤メガネの内で大きく見開かれる二つの瞳には、眼前の景色が焼きつく程に映り込んでいる。
「気に入ってくれたようでよかったよ」と男爵が横に並んだ。目を奪われたままのカケルの様子を見て微かに笑みを浮かべると、「カケル」とモザイクを煌めかせた。
「このタイミングでなんだが、話がある。この夢から出る条件についてだ」
「条件?」と首を傾げるカケルに、男爵が頷く。
「ああ。俺達は今この夢に閉じ込められてるんだ。出るにはカケルが――『夢の主』が条件を満たして目覚める必要がある。その条件が、夢の主の悩みを解決すること」
言って、男爵が黒手袋の人差し指を立てる。
「さっきも言ったが、俺は入った夢の具体性……リアリティを上げる体質なんだ。俺がいる夢では五感も景色もコミュニケーションも、全てが現実のようにハッキリする。そしてもう一つ。一般的に、夢は見る人間の精神状態に大きく影響を受ける特性があるんだ。この二つ、どちらも普段は大した問題じゃないが、合わさると時々厄介なことが起こる」
男爵はもう一本人差し指を立てると、二つをぶつけてバツ印を作った。
「特に起きるのは悩める人間の夢に入った時だな。思い悩む人間の閉塞感が具体性を持つってことなんだろう。俺も夢の主もその夢から出られなくなる。これが俺達の現状だ」
両手を下ろすと、男爵は改めてカケルに向き直った。
「カケル、何か思い当たる悩みはないか? 最近起きた印象的なことが原因のはずだ」
不意に話を振られ、心の準備をしていなかったカケルは慌てて思考を巡らせる。
「最近出てきた悩み? 別にこれと言って思い当たることなんか――」
『――狂っている』
「……なくは、ないか」
脳裏に男の言葉がよぎり、カケルは目を伏せ、尻すぼみに呟く。
「え、と、俺の……悩みは……」
一呼吸置き、説明をしようとするが、喉の奥に言葉が張り付いて出てこない。喋らねばという焦りが更に言葉を詰まらせ、掌に汗がにじむ。次第に動悸が耳元で騒ぎ始めた。
言わねば。言わねば。わかっている。先延ばしにしても時間の無駄だ。だが――
焦りばかりを募らせるカケルの肩に、そっと何かが乗った。それは、手。
「無理しなくていい。急に聞いて悪かったな。悩みなんて話したくなくて当たり前だ」
男爵は屈み、顔の高さをカケルに合わせる。モザイクの向こうと目が合ったような感覚に、カケルは思わず姿勢を正した。肩から微かに、しかし確かに感じるのは温もりだ。
「だが忘れないでくれ。ここからだ、カケル。ここから――」
男爵の言葉を聞いて、カケルは目を見開く。風が止み、揺れる水面がそっと鎮まった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
異変が起きたのは、その会話が一通り終わった後の事だ。
「いやっほう! 男爵! とりあえず探検しよーぜ!」
知るべき情報を知り終え、カケルは森の中を駆け回っていた。
「急に元気だな」
「切り替えは早いタイプだからね。せっかくの夢、堪能しないと! 朝まで時間ないし」
「夢の中は時間の流れが違うから、こっちで数日経っても現実はまだ朝じゃないぞ」
「何それ便利。まあそれはそれとして、とりあえずレッツゴー」
手を挙げ、一歩踏み出す。しかし、出来たのはそこまでだった。
空気の振動を耳が捉え、カケルの動きが止まる。それはどこからか急速に接近し、振動はぼやけたノイズへ、ぼやけたノイズは無数の音の集合体へと、その輪郭が明瞭になっていく。
音の正体が姿を現したのは、湖の対岸にある木々の中だった。――否、既に木々ではない。その存在に踏みつぶされる数秒前まで木々だったもの、だ。
――白い積乱雲、と錯覚した。
嫌な破砕音と共に倒れていく木々の上に現れたのは、白い体毛に全身を覆われた獅子のような獣だ。異なるのは三点、牙と目と角。
口内に収まりきらない二本の牙は、獲物を同時に数体、難なく貫ける代物だ。
ぎょろぎょろと統率もなく動く眼球には瞳と呼べる部位が一切存在せず、全て濁った白に染まってどこを見ているかも定かではない。
頭部から斜めに生えた左右の角は、頭を一振りするだけで木々を地面から削り取る破壊力を宿している。
何より、大木を足蹴に出来るほどの巨体と、大きく広がる白い鬣は、森林を丸ごと呑み込む白い積乱雲のような存在感を放っていた。
筋肉の張った巨獣の両脚が瞬時に盛り上がり、足元の倒木を粉々に踏みつぶす。生じた突風が湖を波立たせながら駆け抜け、対岸にいたカケルの髪を後ろに撫でつけた。
「じゃ、お疲れ男爵。楽しかったよバイバイ」
「待て待て」
背を向けてすぐさま逃げようとするカケルを、男爵が引き留める。
一方、眼球をしきりに動かし続ける巨獣は、空を見上げ、大きく口を開くと。
「――――ッッ!」
数百メートル先まで響き渡るようなけたたましい咆哮が湖を駆け抜けた。その音量に、カケルの鼓膜もびりびりと痺れる。一瞬遅れて、水面が揺れた。
「うっるさ……男爵、あの化け物ってやばかったりする?」
「……襲われても怪我ぐらいなら大したことないが、死ぬレベルだと話は別だ」
「具体的には?」
「夢の中の死は精神の死だ。つまり、死ぬと現実のカケルの肉体が空っぽになる」
「おけ、お疲れ男爵。楽しかったよバイバイ」
「待て待て。まあ大丈夫だ。相手にしたら面倒だが、こっちに気付いてもいないだろ」
男爵に促され恐々と視線を向けるカケル。確かに何かを探しているような巨獣には、こちらを意に介した様子はない。とはいえ、突然獲物認定される可能性もあるわけで。
「いいから逃げようよ――ん?」
逃げかけたカケルの身体を微かな違和感が引き留めた。森の奥に隠れる動物を巨獣は追いもせず見逃している。野生の巨獣の眼が、鼻が、あの獲物を見落とすはずがないのに。
つまり、探し物は食料以外の何か。カケルがそこまで考えた時、不意に、巨獣が忙しなかった視線を一か所に固定した。それは砂の敷き詰められた湖岸に向けられており――
「まずい」
視線を辿ったカケルが『それ』を認識したのと巨獣が走り出したのは全く同時だった。
巨獣が大地を踏みしめる度に水面が揺れ、対岸のカケルの足裏にまで振動が届く。
「どうした、カケル」
動揺を察した男爵の問いかけに、『それ』から目を離さないまま、カケルは答えた。
「男爵、あの化け物に追われてるの――女の子だ」