第1話 『赤メガネと黒コート』
プロローグを除いて全18話です。
すでに書き終わっているので、毎日一話ずつ投稿していこうと思います。
下校中、路地裏に入りたくなる時がある。そこには人語を解する黒猫がいて、しゃがれた声で別世界に誘う。そんな出会いを、毎日が変わるきっかけを、カケルは求めていた。
「これもつまんないな」
自室、机でノートパソコンをいじるカケルは小さく溜息をした。
三月十七日、高校三年生になるまでの一ヶ月弱の待機期間は、日課のネットサーフィンに飽きるには十分だ。
退屈を追い払うように無造作に頭を掻くと、カチャリ、と掌に押されたメガネが鳴った。
『赤メガネの物語中毒者』とは、友人間で共有されたカケルへの評価だ。言葉通り、カケルの釣り目を覆うのは鮮やかな赤ぶちの四角フレームという、男子にしては――女子を含めたとしても珍しいメガネだ。
クルクルとした癖毛も相まって、厳しい教師には時折身だしなみの指摘を受けるが、カケルはやや小柄な身体を活かして隠れ、難を逃れていた。
『明後日もカラオケでいい?』
視界の隅で震えた端末が、友人からのメッセージを映す。手に取り、返事をしようと画面に親指を走らせ、不意に指が止まった。
カケルの視線が吸い寄せられるように机の隅のカレンダーへ向かう。
三月三十一日――約二週間後の日付を囲う赤い丸は、カケルが購入時書いたものだ。
『――狂っている』
不意に男の声が脳裏をよぎった。記憶に新しいその言葉に、カケルは思わず顔を歪める。
「ああクソ、やらなきゃ」
八つ当たりのように髪の毛を激しくかき回すと、カケルは返事を諦め端末をベッドへと投げた。
そのままマウスに掌を押し付けると、パソコンのデスクトップを開き、左下に鎮座する文書ファイルへとカーソルを合わせる。――だが、人差し指で押すだけのことが出来ずに、カケルの動きはそこで止まった。
動作にして単純。にもかかわらず、人差し指が石になってしまったようにピクリとも動かない。
次第に、動悸が早まり音を得る。
「やらなきゃ、やらなきゃ」
左手で胸を抑えるが、動悸は収まらない。耳元で音量を増していくそれにつられ、深い呼吸が出来なくなる。思わず握り込んだシャツの胸がグシャリと音を立てた。
「わかってる、わかってるんだ」
言い訳をするように何度も呟くが、指先は相変わらずピクリとも動かない。
耐えきれずにカーソルをウェブブラウザのアイコンへと合わせた。見慣れたネット掲示板が表示されたのを確認して、騒ぐ動悸がようやく穏やかになっていく。
握りこんでいた左手を解き、大きく息を吐く。
いつの間にか全身が熱を帯び、ぐっしょりと汗に濡れていた。
アイスでも食べよう、と手をつき、ふらりと立ち上がる。
部屋から出ていくカケルがカレンダーへ視線を送ることは、もうなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
問題が発生したのは、リビングにてコップ片手に冷凍庫の引き出しを開いた時だった。
「――え?」
振り返るカケルの眼前で、カーテンが、雑誌が、畳まれた服が、部屋中がバタバタと暴れていた。――否、暴れているのは風だ。
風切り音を立て、部屋中を冷気と共に駆け抜け暴れ回っている。その奔流の発生源は明らかに今開いた引き出しで、その引き出しは――
「なんだよ、これ」
呆然と、コップを持つ手から力が抜け、落ちる。
――眼前の引き出しに広がるのは緑の草原だった。
引き出しの底に草が敷き詰められているのではない。底だったはずの部分がまるで異界への覗き穴のように、見知らぬ世界のはるか上空に接続していたのだ。
遠ざかり、加速度的に小さくなるコップが、地面に着くより先に風景に溶けていった。
そこに広がる景色は雄大の一言だ。建物一つない広大な草原の上で、木々が群れを成し大森林を作り上げている。森に所々空いた青い穴は湖だろう。
圧倒する光景を前にして、カケルは風の抵抗を感じながら魅かれるように腕を伸ばした。――それがまずかった。
「――うわっ!?」
突如、それまで吹き付けていた風が逆流した。
乗りだしていたカケルの身体は引き出しの中に引きこまれ、咄嗟に引き出しの淵を掴むが、それも無意味。
カケルの細腕の抵抗も虚しく、身体が大きく前に傾くと同時に、足先から地面の手応えが消失した。
「――あ」
バタつく身体は一瞬で風に持っていかれ、前転のような速度でカケルの身体は空中に投げ出された。引き出しを掴んでいた手が重力でもぎ取られる。
言葉の一つも紡げぬまま、カケルはいともたやすく引き出しの中へ落下していった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「ちょっと待ってちょっと待ってちょっと待ってぇ!」
頬、肩、胸、腹が連続で、あるいは同時に殴られる。空気抵抗の乱打に揉まれ、カケルは絶叫と共に空を落ち続けていた。
口内を風が侵し、呼吸すらろくにできない。
恐怖と殴打と無呼吸で、何度も意識が飛びかける。手繰り寄せては飛び、手繰り寄せては飛びを繰り返し、カケルが漸く確かな意識の覚醒を手に入れた時には、既に遅かった。
「――マジかよ」
思わず声を漏らす。いつの間にか、あれほど遠くだった地面が眼前に迫っていたのだ。
「木に掴まる――無理だ。クッション――あるわけない。誰かが受け止めて――くれたら二人ともお陀仏だ」
即座に思考を回すが生き残る方法は思いつかず、その間にも高度は確実に低下する。加速度的に輪郭がはっきりしていく木々を前に、抑えきれず恐怖が吹き出してきた。
「くそっ、嫌だ、嫌だっ!」
生存を渇望する本能とは裏腹に、抵抗は無駄だと理性が告げる。見開いた眼にメガネの脇から突風が入ってくるが、恐怖が瞬きを許さない。
渇きに刺激され、視界が滲み、目尻から涙が溢れ出てくる。見下ろす視界の半径が急速に縮んでいき、大木を認識した次の瞬間には大木の葉の細かな形の違いまで判別できるようになって――
ああ、これダメだ。
「――掴まれっ!」
刹那、カケルの肩を掠めるように白い大樹が出現した。
瞬きの間に地面から伸びあがったそれと、誰かの声。脳が理解を終えるより先に、カケルは白い大樹に腕を回していた。
「頼むっ!」
腕を回し、全身でしがみつく。白い大樹の幹は透明な粘性の液体に覆われていた。その液体故に、全身でしがみついたにもかかわらず摩擦が殆ど発生しない。それはつまり、落下を止める役割を果たせないということで――
「ちょ、これ、とま――」
らない、と言い切るよりも先に、抱きかかえていた大樹の感覚が忽然と消失した。
見ると、大樹は頭上で途切れ、自らの胸を抱くカケルを空中に放り出している。
抵抗の術もなく、地面へと吸い寄せられていく身体。――直後、明らかに地面の感触ではない何かがカケルの身体を包み込んでいた。
バフリ、と受け止めたモノの正体は、白い巨大な綿のような塊だ。小さな山ほどの盛り上がりを惜しげもなくへこませ、カケルの勢いを相殺する。
だが綿をもってしても完全には相殺できず、身体は滑るように綿の脇から落下して――
「よ、と。怪我はないか?」
先程の声の主、その腕の中に受け止められ漸く、落ち続ける身体は完全に停止した。
止めていた息を吐き出し、肩の緊張を解きながら、カケルは眼の横に指を向かわせる。
「良かった、メガネ、無事だ……」
危機に感情が置いていかれすぎたカケルの第一声は、そんな間抜けなものだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
その後、何度も深呼吸をして平静を取り戻すと、カケルはとりあえず命の恩人の顔を伺おうと視線を上げた。が、逆光により黒いシルエットしか見えない。
「ほら、立てるか? 降ろすぞ」
太陽の影に隠れたシルエットがカケルを見下ろす。言葉と共に腕から降ろされたカケルは、未だに騒ぐ心音を宥めながら、足裏で地面の感覚を確かめた。
「ありがとうございます。俺の名前はオカダ・カケルです。あの、あなたの名前は」
振り返って、思わず言葉に詰まった。視線の先にいた男の、そのあまりの異様さに。
シルエットの黒さは、決して逆光のせいではなかった。その男の出で立ち全てが黒で覆われていたのだ。
黒いシルクハットを頭に乗せたその男は、印象的な立ち襟の黒いロングコートで身を包み、手袋とズボンは黒く、足にも黒の革靴を嵌めている。
極限まで露出を抑えたその格好で僅かに肌が見えるのは、立ち襟に囲まれた首元とシルクハットの影が射す顔だけだ。
だが、男の異物感の原因は決してその特徴的な衣服ではない。
――男の顔は、鼻から上半分、ちょうど目とその周り全てが、まるでモザイクでもかかったかのように、それ以上奥を認識できない『何か』で覆われていた。
白、青、赤、緑、黒。乱反射する割れガラスのように七色に変化するそのモザイクは、見る者に無駄を悟らせるほど当たり前に、その奥の存在への視線を拒絶する。
黒で染め上げられた格好、世界の論理を逸脱したモザイク。まるで影が地面から立ち上がったと錯覚するほどの異質感が、その男を構成していた。
「まずは自己紹介からだ」
口元だけで笑うと、男はひょいと右手を挙げた。
「初めまして、俺の名前は黒コート男爵。そしてようこそ、オカダ・カケル。――ここは、お前の夢の中の世界だ」