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最終話   『かける』

 

 三月十八日午前八時。「これ以上は居られないが、必ず戻る」と男爵が夜に溶けた後。


「ジャンルと設定はざっくりオーケー。あとは盛り上がるポイントの調整とキャラと――」


 早速執筆を開始したカケルは、脳内を整理しながらプロットを書いては消し、修正していた。

 すでに執筆開始から四時間。今のところプロットは贔屓目抜きでもそこそこ面白く見え、さらに修正の度に良くなっている。

 ゼロから話を考え始めたにしては、相当に進行は早いほうだろう。

 なにも問題はない。どころか順調だ。だが。


 ――これでいいのか?


 ピタリ、と手が止まった。

 どれだけ努力しようが、作品は面白くなければ読者には認めてもらえない。

 究極の成果主義、それこそが今、足を踏み入れようとしている世界だ。

 初心者のカケルが丸腰で挑んでどうにかなるのか、どこまでも不安は拭えない。


 ――否、方法なら一つだけある。丸腰にならない方法が。


「――――」


 目を閉じると、瞼の裏に薄暗いワンルームの光景が広がった。

 翔が三年間ひたすら小説を書いたあの部屋だ。カケルはそこに立ち、机に並ぶノートの群れに視線を送る。

 もちろんこれはただの想像、もしくは記憶だ。

 だが人生を追体験した影響か、カケルはあの部屋を、想像の域を超えた精度で脳内に再現出来た。つまり。


 読むことができるのだ。三年間分析を書き連ねた、三十冊を超えるノートを。


「――――」


 埃の舞う部屋で本立てからノートが倒れた。その表紙のタイトルは『一』。

 そっとカケルは手を伸ばした。

 その指先は、ノートに、記憶に、触れようとして――


「できるわけない、か」


 カケルはノートを本立てに戻し、両手をひらひらと上げた。


「アイツの努力をかっさらうなんて、ずるいもんな」


 今のカケルが、今持てる全てで。

 そうしなければ、カケルはカケルを認められない。

 覚悟を決め、瞼を開く。眼前には変わらずパソコンが佇んでいた。

 「よし」と気合を入れ、カケルはキーボードに乗せっぱなしだった指を再始動させた。


 

               ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 三月二十二日、午後九時。タイピングを止めずに、カケルはひたすら書き続ける。

 作品はなんとか細部まで決まった。舞台は近未来、人体の部分機械化が当たり前になった世界だ。

 そんな科学で未知が無くなった世界に、突如五人の魔法使いが現れ、魔法に魅せられた主人公の『心童』がその一人に弟子入りする、というストーリーである。

 既視感があるようなないような設定だが、その不安を脇に置く。斬新な設定を思いつく時間も能力も今のカケルにはない。

 今はとにかく時間が足りないのだ。一文に向き合っていられるのも一瞬で、気に入らなくても直す時間はない。

 常に書きながらの成長が求められる。その、はずなのだが。


「――クソ」


 拳を握るカケル。視線の先にあるのは、序盤、『心童』が路地裏で暴漢と戦う場面だった。


 

               ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 心童は肉体の出力制限を解除した。しかし、それを実感するより早く、頭上から拳が迫った。

 後方に跳んで避けるとすぐさま切り返し、空振って地面に埋まった腕を抱き込んだ。


「――ハァッ!」


 抱きかかえた腕を軸に身を回し、一本背負いの要領で腕ごと前傾する。が、そこで動きを止めた。軽すぎる。

 背後を見ると、そこには肩の接続部から丸ごと左腕を外した男がいた。心童の脇腹を、男は右の拳で容赦なく撃つ。


「う」


 心童は血を吐いた。


 

               ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



「足りない」


 カケルは自分の文章を読み直し、再度ささくれ立った声を上げる。

 カケルの脳内で繰り広げられる戦いはこの文章よりもはるかに緊迫し、手に汗握るもののはずだ。それなのに、書けば書くほど理想から遠のいていく。


「どうしてこんなに迫力がない。何が足りないんだ」


 本棚から小説を一冊取り、文を読む。迫力の違いは明確にあるのに、どこが違うのかが分からない。焦り、次の小説を取ろうと手を伸ばしたその時、机から漫画が滑り落ちた。

 指先でいい加減に拾い上げると、開いた漫画が中身をさらす。

 そこにあるのは、既に何度も読み返した内容。名作だが、今必要なものではない。そう思ったところで。


「――――」


 目に入ったコマには手書きの効果音――所謂『描き文字』が書いてあった。

 普段から見慣れていたその演出が、カケルの脳を刺激する。


「音――いや、五感か」


 不足していた描写の正体に思い至り、文を見直す。

 案の定そこには事実の羅列だけだ。


「これじゃ迫力が足りないのも当然だ。読者は描写されていない部分を知ることはできない。動きの描写だけじゃ音声無しで映像作品を観るようなものじゃん。しかも五感が足りてないってことは、それに付随する動きの描写も足りてない。緩いシーンならともかく、緊張感と迫力が重要なバトルで必要なのは、つまりキャラが五感で捉えてる情報っ!」


 カケルは興奮気味に指先を加速させ、たった今見つけた法則通りに文章を書き直す。


 

               ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 心童は肉体の出力制限を解除した。微かな駆動音と共に、身体中への意志の伝達が加速する感覚を得る。

 しかし滑らかに動く指先を確認するよりも早く、頭上から拳が迫った。

 後方に跳んで避けると、鈍い破壊音と共にアスファルトが砕け散る。

 後ろへ跳ぶ身体を直ぐさま切り返すと、空振って地面に埋まったままの腕を抱き込んだ。


「――ハァッ!」


 抱きかかえた腕を軸に身を回し、曲げた両脚に力を籠めると、一本背負いの要領で腕ごと前傾する。が、そこで違和感に動きを止めた。

 軽い、軽すぎる。

 背後に視線を走らせると、そこには肩の接続部から丸ごと左腕を外した男がいた。穴から体内エンジンがこちらを覗き、騒がしい駆動音と共に焦げ臭い匂いが鼻をつく。

 自ら隙を曝した心童の脇腹を、男は右の拳で容赦なく撃った。打ち抜かれるような衝撃に身をよじる。脇腹に焼けるような熱が走った。


「う」


 こみあげる感覚に堪えられず、心童は血を吐いた。


 

               ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



「――これだ!」


 カケルは確かな手応えに指を鳴らすと、引き出しの中の青い付箋を手に取り、『五感を忘れるな!』と書き込んで、ノートパソコンの脇に貼り付けた。

 


               ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 三月二十七日午前七時。執筆量七十二ページ。進行度半分少々。残り百十三時間。


 貧乏ゆすりをするカケルの足元で、ビニール袋ががさがさと音を立てて揺れる。その中から、夜中に買い占めた缶コーヒーが群れを成して顔を覗かせていた。

 押し寄せる眠気に集中が阻害される。カケルは缶コーヒーを拾い上げると、一思いに飲み干して、空き缶を付箋の横に置いた。

 横並びの付箋は既に七つまで増えている。一瞬その付箋に目を走らせると、再度タイピングへと戻った。


 時間が足りない。

 一ページに要する時間は約一時間。百四十ページ前後で書き終わると推定すると、残り百十三時間中、七十時間が必要である。しかもその後には誤字脱字等の読み直し作業があり、睡眠の暇はない。

 この時間の不足が、今抱える()()()の問題だ。

 そして、一番目は。


 ――予感があった。


「このままじゃ俺は、落選する」


 (せわ)しなく動いていた指をピタリと止め、カケルは険しく眉を寄せた。

 書かなければならない。止まっている時間はない。だが、無視できない予感があった。


「テーマも展開もいい。キャラも多分魅力ある。――でもあの時と同じだ。()()()が」


 夢の中の更に夢の中で見た、何度書いても落選し続けたあの時と、同じだ。

 カケルは翔を下してここにいる。だからこそ、同じ轍を踏むわけにはいかない。


「考えろ。あの時のアイツに、今の俺に、足りないのは何だ」


 目を閉じ、アイディアを押し出すように額を拳で小刻みに叩く。

 何が足りない。キャラも癖が強くなりすぎないよう調整した。展開も筋の通った面白さがあるはずだ。わかりづらさは極力排除し、読者が没入しやすくなっているはずで――


『誰のために何を書くか、ですよ』


「――あ」


 脳裏をよぎった記憶に、カケルは目を見開いた。

 それはとある作家――今は存在せず、だが未来にはきっと存在していた作家の言葉だ。

 一度は翔が切り捨てたあの言葉にこそ、足りなかったものがあるとすれば。


「誰のために、何を書くか。――なんで考えなかった」


 初めて口にしたとは思えないほど、その言葉はよく馴染んだ。


「俺の作品を誰にどう思って読んでほしいかなんて、そんなの一つだろ」


 自然と答えが分かって、カケルはあっけないほど簡単に、その想いに手を伸ばした。


 ――夢に向かって努力する作品が好きだった。夢と現実、才能と努力、それらを目の当たりにしても尚、夢を掴み取る主人公の姿を見てると、自分も頑張ろうと思えたから。


 でも同時に、拭えない思いがあった。


「嘘つくなよ」


 たとえそれが夢だろうと、人はそんなに努力できないはずだ。

 平然と努力するな。楽しげに前に進むな。それは嘘だ。

 作品を観ている間、興奮すると同時に、後ろめたくて仕方なかった。

 まだそこにいるのか、と努力する主人公の背中に責められている気がした。

 だから。


 ――夢に向かって努力する作品が嫌いだった。


「そんな俺が書くとしたら、この作品は」


 この作品は憧れを目指す物語ではない。憧れを目指し始める物語だ。

 憧れへの一歩目は、前提になるほど簡単じゃない。だから一歩目をゴールにしよう。

 一歩目も踏み出せずに挫折した人間を、カケルは知っているのだから。

 一歩目を踏み出して折れ曲がった人間を、カケルは知っているのだから。


 作品なんて、作り上げるだけで天才みたいなものだ。だからその一歩目に敬意を払いたい。そういう物語を書きたい。


「ならもう、決まってんな」


 誰のために、何を書くか。


「『一歩目』を書く。――(アイツ)に!!」


 歯を剥き出して笑い、タイピングを再開するカケル。

 展開は修正しなければならない。足りない時間がさらに足りなくなっただけだ。

 だがその指に、もう迷いはなかった。

 


               ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 三月三十一日午後六時。執筆量百三十三ページ。残り六時間。完結まで約十ページ。


「来たぞ、カケル」


「来てくれたんだ。お構いもできなくてごめんね男爵、ベッドにでも座ってて」


 覚えのある声に言葉だけで返すカケル。その目の下には、深い隈が刻まれていた。


「頑張ってるみたいだな」


「うん、頑張ってる。多分人生でこんなに頑張ったことない」


「……キツくないのか」


「キツい。最後に寝たの五日前だよ? パソコンに向かいすぎで腰も肘も痛いし、カフェイン取りすぎで腹痛いし、目が霞んで字読めないし、緊張でなんかずっと腕震えてるし、誇張抜きでキツすぎて死にそう。――でも、何もやってなかった時よりずっと楽だ」


 キーボードの上で指を滑らせながら、カケルは静かに続ける。


「ずっとわかってたんだ。書けば楽になるって。やらずに逃げても結局俺が苦しいだけだって。それでも出来なかった。寝ても覚めてもずっと罪悪感と息苦しさで死にそうだった。毎日が夏休み最終日って感じ」


 最悪だよ、とカケルは呟く。

 徐々に心が蝕まれていくあの感覚は忘れられるものではない。


「……大げさかもしれないけどさ、俺、今ようやく『生きてていい』って思えてるんだ。ずっと抜け出せなかった泥沼から、これでようやく解放された気がする。ああ――」


 高速で指を打ち続けながら、カケルは堪えきれずに恍惚とした笑みを零した。


「気持ちいいだろうなぁ、これ終わって寝るの」


 その笑みは、退廃的に満ち足りていた。


 一拍おいて、カケルは甘美な想像を追い払う。

 ここからは正真正銘の正念場、全てを絞り出さなければならない。一時間に一ページではもう間に合わないのだ。

 作者の感覚で書き、読者の感覚で読み、書きながら次の文章を考え、同時に前の文章の誤字脱字を確認する。

 全てを並立で完遂し続け、緊張で指がもつれる暇すらない。


「邪魔をしたくない。書きながら聞き流してくれていい。とにかく言わせてくれ」


 不意に、男爵が口を開いた。書き続けるカケルの背中に向けて言葉を投げる。


「……カケル、こんなことに巻き込んでごめんな」


 その声音は、ひどく寂しげだった。


「カケルは俺が来たことで夢の世界なんてものに巻き込まれた。……悩みを解決しなければ出られない、なんて見方によっては大きなお世話だろ。他人のデリケートな問題に、俺は向き合うことを強制する。……俺は、本質的に他人を傷つける危険性のある存在だ。今回も、危うくカケルの夢を潰しかねないところだった」


「俺のあれはかなりの例外なんでしょ?」


「それでも、実際になりかけたのは事実だろ。人の夢に入り続けていれば、いつかこういうことが起きるのも分かっていた。分かっていたのに――俺は孤独が耐えられなかった」


 一度、細く嘆息する男爵。


「夢の主という特例を除いて、人は本来、俺を認識できない。でもそれで良かった。会話できなくても、ただ誰かの夢をそばで見ているだけで寂しさが紛れたんだ。稀にこうやって夢に閉じ込められる人間が出てくると、それで傷つく人が出てくるかもしれないと、わかっていたのに見ないふりをして自分を優先した。だから今回の原因は全部俺にある」


「水臭いこと言わないでよ。俺は今回のこと、男爵にかけられた迷惑だなんてこれっぽっちも思ってない。それに今更そんなこと気にする仲じゃないでしょ」


「だからこそ俺は最初に謝るべきだった。仲良くなってから謝るなんて、卑怯だろ」


 自分を断罪するように、男爵は呟く。


「――ごめんな、カケル。俺、本当はお前が落ちてきたとき、嬉しかったんだ。俺のことを認識して、話してくれる奴とまた会えたって」


 ひどく寂しげな謝罪と断罪。

 男爵が何を思ったか、それはわかった。

 だがこれだけは言わなくてはならない。男爵の言葉は正論かもしれないが、きっと何重にも間違っている。


「夢の狭間だっけ。俺、十秒居ただけで気が狂いかけたよ。誰の夢にも入らないって、男爵が一人ぼっちでずっとあそこに居続けるってことだろ。そんなん無理に決まってんじゃん。誰かの夢に入るしか方法がなかっただけなんだから、それをした男爵を誰が責められるんだよ。男爵も被害者みたいなもんだろ」


「それにさ」とカケルは続けた。


「今後は俺の夢に入り浸りなよ。いつでも歓迎するよ?」


「それは無理なんだ。戻ってきた以上、カケルももう普段の夢で俺を認識することは出来ない。そしてそれは現実でも同じだ。カケルはもうじき、俺が見えなくなる」


「……そっか、寂しいね」


 薄々感じていた可能性に、カケルは僅かに目を伏せる。

 一瞬、静寂が訪れた。ただタイピングの音だけが黙々と響く。


「俺はなんなんだろうな。どうしてこんなものが存在するのか、俺は俺が分からない」


 男爵のものとは思えないほど弱り切った声が、ぽつりと聞こえてきた。


「……俺さ、人生にきっかけとかないと思うんだよね」


 ふと、カケルはタイピング音の隙間から言葉を紡いだ。文脈の繋がっていない言葉に、男爵が怪訝そうな様子を見せる。


『きっかけなら飽きるほどあった。だがそれでお前は何をした!?』


『これをきっかけにするなよ』


「――だってさ、どんなに劇的なことが起きて一念発起しても、成功が保証されるわけじゃないし、受け取る側によっちゃ、結局何も変わらないこともある」


 思い出すのは、男爵が湖を凍らせたときの、あの胸の高鳴りだ。


 下校中、路地裏に入りたくなる時がある。

 そこには人語を解する黒猫がいて、しゃがれた声で異世界に(いざな)う。

 そんな出会いを、毎日が変わるきっかけを、カケルは求めていた。


 でもきっと、そんなきっかけはないのだ。

 カケルは何かが違えば、夢の世界で小説家を諦めていた。男爵との出会いすら、きっかけにはなりえなかったかもしれない。


「……俺も、それに(アイツ)も、ずっときっかけを探してた。でもそうじゃなかった。こっちに変わる準備が出来てないのに、問答無用で変えてくれるような何かなんてないんだ」


「逆に言えばさ」とカケルはキーボードを打ちながら続ける。


「きっかけなんてないんなら、人生きっと、何をきっかけにしたっていいんだよ。きっかけってのは多分、訪れるものじゃなくて自分で決めるものなんだ。やりたいと思ってるなら、適当なものをきっかけってことにしてでっちあげて、やり始めちゃえばいい」


 仕事を辞めてでもそれをした人物を、カケルは一人だけ知っている。


(アイツ)は認めないだろうけど、自分できっかけを作って変わろうとした(アイツ)のやり方はきっと全然間違ってない。……まあ、ちょっと極端だったかもしれないけど」


 微かに苦笑して、「それでも」と表情を引き締める。


「何をきっかけにしてもいいなら、遅すぎるなんてことはない。……こんな綺麗事、嫌いだったんだけどね。でも本気でそう思うんだ。――(アイツ)もまだ、小説家になれるんだよ」


 「俺も書く」と、確かにそう言っていたのだから。


『だが忘れないでくれ。ここからだ』


 ふと、男爵が最初に言っていた言葉が蘇った。


「自分探しの旅、だったっけ。ちょっとずるいけど、俺は今回の旅をきっかけにしたよ。このきっかけのおかげで、俺の――オカダ・カケルの人生が始まった」


「だからさ」とカケルは指を止め振り返った。

 その瞳には、真っすぐ男爵が映っていて。


「男爵も、今日をきっかけにしようよ。自分が何者かわからないなら、今日から男爵も自分探しの旅ってやつをすればいい。オカダ・カケルの人生が始まったみたいに、きっとここから始まるんだよ。――黒コート男爵の旅が!!」


「――――」


 男爵が言葉を失う。――だがその乱反射するモザイクは、七色に煌めいていた。

 カケルも男爵も、そして翔も、まだ何者かになれる。

 挫折して挫折して挫折して、自分の軸を見失って、世界に席がないと思っても、きっとまた見つけられる。

 きっとそうだ。


「ってやべ、書かないと」


 カケルは我に返り、再度、部屋にキーボードの押し込まれる音だけが響いた。


「カケル」


 静かに、男爵が呟いた。


「――ありがとな」


 カケルは口元を緩めると、目の前の画面を見据え、本格的に意識を集中させた。


 物語はラストスパート、主人公が思いの丈をぶちまけるシーンだ。

 ここのクオリティで物語の評価が決まる。最適なセリフを、すべき描写を、主人公を憑依させ、書く。

 瞬きを減らし、喉の渇きを忘れ、執筆以外の全てを切り捨て、書く。


「くそ、これホントに面白いか? わかんねぇ。怖ぇ」


 不安はある。書いている間ずっと、夜道を明かりも無しで歩くような不安が。

 でも。


「独りよがりだったらどうしよう。俺以外、誰も良いと思わないかも」


 恐怖はある。書いている間ずっと、目指す場所を間違えているような恐怖が。

 でも。


「――そんなん全部、どうだっていいんだよッ!!」


 今はただ喉の奥から湧き上がる熱が、激情が全てだ。

 激しく脈打つ心臓に全身が燃やされて、徐々に狂気に火を灯す。

 書かなければならない。書かなければならないのだ。

 不意に、限界に唸るカケルの脳が、走馬灯のように詩織との記憶を見せ始めた。


『変な奴の僕は、普通にはなれないの?』


『誰だって、なろうと思えば変にも普通にもなれる。でもなれることとなることは違う』


『夢を追う人間は――狂っている』


『どうなるかはカケル、自分が決めるんだ』



「――諦めろ、俺は普通にはなれない」



 自分の抱える狂気を知った。それがどれだけ恐ろしいものかも、理解できた。

 刹那的で破滅的で何より非合理。分別のつかないギャンブラーよりもタチが悪かった。

 でも、それから逃げられないことも知った。どれだけ時間が経とうとも、忘れられない一瞬があることを知った。

 カケルはもう、小説家を目指すしかないのだ。


 あの時震えた。だから震わせたい。


 だったらもう、やることは一つだ。


 ――書け。


 タイピングの指を早めるが、書いたそばから粗が見つかり、書き直したい衝動に駆られる。脳内の理想の物語は一文字ごとにボロボロと手元から零れ落ちるばかりだ。

 きっとそれは仕方がない。そもそも、創作という正解のない世界で完璧を求めるなんて馬鹿げている。

 そうだ。それはわかっている。だが届きたいのだ。だって――


 書いている間、ずっと思っていた。自分の作品じゃ感動できない。

 でも、震わせたい。


「――世界一厳しい読者の俺を、俺は震わせたい」


 完璧な作品なら、それが出来るかもしれないから。


 だから削ぎ落とせ。いらないもの全て。


『暇なんだけど今週末カラオケとか――』


 震えた端末をメッセージも見ずにベッドに投げつける。

 いらない。


 派手な音で腹が鳴った。襲い来る空腹感を腹を殴った痛みで強引に掻き消す。

 いらない。


『今のお前は未来の自分に対して責任ある行動ができているのか?』


 脳裏に誠一の言葉がよぎった。

 いらない。


 友も本能も未来も全ていらない。

 欲しいのはたった一つ。それがなければ意味がない。


 ――俺の人生に意味がない。だから。


 ――書け。


               ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 神様、どうかお願いします。

 望みが一つかなうのなら――俺が『完璧』に届くのを、黙ってそこで見てやがれ。



               ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 ――書け。


 残り三時間、五ページ。

 五秒で飲み干した缶コーヒーを机の隅へ投げつける。既に十や二十では収まらない数の空き缶がところ狭しと転がっていた。


 ――書け。


 残り二時間、三ページ。

 机の上には大量の付箋が散らばっている。


 ――書け。


 残り一時間、一ページ。

 指先が痛い。目が乾く。意識が霞む。

 それでも書け。手を伸ばせ。書いて、書いて、書いて、書いて――


『完璧』に指をかけろ。


「――ッ!」


 残り三十分、カケルは最後の一文を書き終わった。だがここで終わりではない。


 スクロールして一ページ目まで戻ると、書いた文章を順に目を通し始める。

 誤字脱字、改行ミス、応募要項との合致。それら全てを出来る限り高速で確認しながら、ページをスクロールしていく。

 スクロールが終わり、『了』の字が目に入ったところでカケルはファイルを保存し応募ページを開いた。残り十分。

 タイトル等の必須項目を手早く記入し、ファイルを添付、応募ボタンをクリックした。――が、ロードが止まり、本来出るはずの送信完了ページがいつまでも出てこない。


「なんで、クソ……ッ」


 固まった画面に拳を握る。

 このギリギリのタイミングで通信障害、いや、というより。


「アクセス集中……?」


 カケルのような応募者が殺到し、サイトがパンクしかけている。その可能性に行き当たり、カケルの背筋を冷たいものが走った。

 だが解決策はない。複数ページで同時に応募しようにも、二重投稿は禁止されている。カケルは先程のクリック一回に賭けるしかない。


「――頼む」


 顔の前で手を重ね、祈るように呟いた。


「頼む頼む頼む――ッ」


 あと一時間早ければなどと、そんな結果で終わりにできるわけがない。

 己の無力さに歯噛みしながらカケルは言葉を重ねた。堪えきれずに目を閉じる。


「――頼むッ!!」


「カケル、見ろよ」


 落ち着いた声が、カケルの叫びにそっと寄り添った。

 言葉に促され、恐る恐る目を開けると、そこには先ほどとは違う白い画面と『提出完了』の四文字が表示されていて――


「――――ッ!!」


 時刻は締め切り一分前。

 声にならない悲鳴と共に、カケルは思わず立ち上がった。


「できた……できたッ! 男爵ッ!」


 湧き上がる感情を一人では抱えきれず、勢いよく振り返る。――しかし、そこには既に誰もいなかった。

 がらりとした部屋には、興奮に息を乱すカケルがいるばかりで。


「――――」


 誰かの座った皺だけが残るベッドを呆然と眺める。

 次第に目を離すと、腰を下ろした。

 小説を画面に表示すると、背もたれにだらりと体重を預け、天井を仰ぎ息を整える。

 汗がゆっくりと冷える感覚が全身を包んだ。深夜の静寂が耳につく。

 タイピング音すらなくなったカケルの部屋にはただ、荒く深い呼吸だけが何度も響いていた。


 視線を落とし、書き終わったばかりの小説をぼんやりと眺める。

 何年も空白のままだった文書ファイルが、ようやく小説になった姿を、ぼんやりと。

 一瞬、いつかの記憶が蘇った。

 低い机が並ぶ教室、困った様子の教師に、いつまでたっても白紙の『しょうらいの夢』。


 ああ――


「――やっと書けた」



               ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 十月下旬、某日。


「よい、しょ、っと」


 脱いだ靴の踵を揃え、手洗いうがいを済ませると、紙袋を持って自室へと向かう。

 部屋に着くとパソコンを起動し、昨日と同じサイトを表示する画面を再度確認した。


「よし」


 カケルは紙袋の取っ手を握り直し、部屋を出る。

 リビングに着くと、老眼鏡をかけた父――誠一が、食卓に新聞を広げていた。


「あのさ」


 一度、肺いっぱいに息を吸うと、カケルは声をかけた。


「話があるんだけど」


「どうした、改まって。……その袋は何だ」


 カケルの態度に怪訝な表情をする誠一は、紙袋へと視線を落とした。

 カケルはそれを持ち上げると、決まり悪げに苦笑する。


「ちょっと話があるんだけどさ、一緒に食べない? みたらし団子」


 誠一は一瞬驚いたように眉を上げた後、呆れ気味に頬を緩め、老眼鏡を外した。


「買収には応じんぞ」


 さて、とカケルは席に着きながら考える。どう話そうか。もちろん話の内容は、昨日発表された新人賞の結果についてだ。

 そういえば、結果を再確認したままパソコンの電源を落とし忘れた。ということは、今もまだあの画面には表示されたままだろう。


『「一歩目」岡田翔 大賞』と。


                                了

終わりです。最後まで読んでいただき本当にありがとうございました。

初めて書く長編だったので拙いところも多くあったと思いますが、読んだ方に少しでも楽しんでいただけたら幸いです。

またもしよろしければ、低い点数や短所の指摘などでも構いませんので評価や感想をいただけるとありがたいです。

それを次回作以降の指針とさせていただきます。

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