第17話 『始めよう』
一時間ほど経った頃。カケルは向かい合って立つ二人を観ながら大岩に腰かけていた。
「えーっと……本当にいいんですか……」
その一人、メメが気まずげに視線を泳がせた。だが正面のもう一人、翔は静かに頷く。
「構わない。やってくれ」
「わ、わかりました。――えい!」
可愛らしい掛け声とともに、可愛らしくない威力の平手打ちが翔の頬に入った。
翔は頭が弾かれたように吹き飛ぶと、地面の上に倒れ込む。掌に巻き起こされた風が、勢いよく草を薙ぎ倒していった。
それだけでどれほどの力が籠っているか、想像に難くない。
「――く」
華奢な体躯にそぐわない腕力で頬を打たれ、目を白黒させる翔だが、ここまで含めて合意の上だ。
カケルはその様子を見て、不満げに口を尖らせる。
「パーじゃだめだよメメ。グーでやんないと、グーで。もう一発いっとく?」
「やめてくれ……死んでしまう」
ダメージが尾を引いている様子の翔が、弱々しい声で起き上がった。
「ともあれ」とカケルは周りの面々を見る。
そこにはミグローやトモリも含めた、全員が集合していた。
「ミグローさんもトモリも一発ずついれたし、これで禊は終了か」
「私は殴りたいとは思ってなかったんですがね」
「いやぁ人殴るのって結構楽しいなぁ! ねぇねぇカケル! もう一発入れていい?」
「キリがないし危ない方向に目覚めかけてる気がするから二発目はナシで。……でも、一発じゃすまないようなことをしたのも事実だからね」
「ああ、わかってる」
翔が静かに頷く。その顔は、憑き物が落ちたようにどこか晴れやかだ。
「あの、カケルさんたち、身体はもう本当に大丈夫なんですか?」
案ずるように身体を眺めてくるメメに、カケルは親指を立てて歯を見せた。
「そ、もう元気ピンピン。こいつの鎖が壊れたら回復できるようになったらしくてさ、ついでに俺の怪我も綺麗に治してくれたんだよね。やっぱ回復ってクソゲーだわ」
「治した相手にそんなふうに言われるとは思わなかったよ」
「お前が殴ったんだし割と妥当だろ。あ、てか禊の分は治すなよ!」
「わかってる。そこまで野暮じゃない。――三人とも、すまなかった」
改めて、頭を下げてミグロー一家に謝罪する翔。
それを見て、メメは困ったように笑い、トモリは頭を乱暴に掻き、ミグローは表情を変えない。三者三様の反応だった。
「許すとか許さねえとかの眠てえ話は無しだ」とトモリは面倒臭そうに言い放った。
「アンタはよくわかんねー力でお父さんの怪我も治したし、俺はそもそも痛い思いもしてなくて、もう大して気にしてない。今気になるのは今日の晩飯。それが全部だろ」
「私も才能攫いに殴られたことに関して思うところがなくはないが、貴方は既に誰かに限界まで追い詰められた後のようだからな。ここはその誰かに免じておこう」
ミグローから送られる含みを持たせた視線がむず痒く、カケルは素知らぬふりをする。
目を伏せたままの翔は、すまない、ともう一度小さく呟いた。
「そういえばカケル。その才能攫い三人衆はどうした?」
男爵の疑問に、カケルは「問題なし!」と自慢げに再度親指を立てる。
「男爵がゲート見に行ってくれてる時にそっちもやっといた。縛られたままずっとギャーギャ―騒いでたのに、全員メメの平手打ちでピクリともしなくなったのは傑作だったね」
「カ、カケルさんが本気でやれって言うからじゃないですか!」
「あ、気絶してるってことは俺がもう一回殴ってもいいんじゃね? まだ間に合う?」
「トモリ、その欲求は封印しといたほうがいいよ、危ない人一歩手前だから」
「む、何だよ。大体カケルも大概だろ。戦ってる時のお前、心底戦いを楽しんでる感じだったぞ。目がキマってたし、涎垂れてたし、牙と爪生えてたし、なんか毛深かった」
「後半は絶対嘘っ!! ……っていうか実際そこまでじゃないでしょ。確かに今まで妄想だけだったバトルが実際にできてテンション上がってたとこはあるけど」
「いや、口調とか明らかいつもと違ったし。メメもそう思ったろ?」
「え、私!? ……えと、カケルさん、普段は結構穏やかに話される方だったので、その、よほど戦うのが向いているのかな、と。あとなんか毛深かったです」
「ほらな」
「まって俺ホントに毛深かったの!?」
慌てて身体中を確認するが、どうやら異変はないようで、そっと胸をなでおろした。
「カケル、そろそろ」
と、そこで男爵がそっと声をかけてきた。その意図を理解し、カケルは寂し気に笑う。
「そっか。もう、か」
言って、カケルは傍を見た。
そこに佇むのは、見上げても頂きが見えないような、塔。
その足元には確かな空間の歪みがあった。何もない空間に亀裂が入り、割れガラスが何層にも重なっているように、歪みの向こう側が『ズレて』見える。
亀裂からはぼんやりと紫紺の光が漏れていた。これが翔の言うゲートだろう。
つまり、別れの時間だった。
「カケルさん……」
服の張る感覚に視線を落とすと、メメが袖を摘まんでいた。
が、カケルが何かを言う前に慌てた様子でそれを離す。
口を開くが、何も言わない。逡巡で瞳が揺れている。
メメは一度の瞑目でそれを押し隠すと、柔らかな笑顔を浮かべた。「――カケルさん」
「いってらっしゃい」
カケルはその笑顔に目を見開くと、そっと微笑み、しゃがんで視線の高さを揃えた。
「前に別れた時、友達だと思ってるって言ってくれたよな。……俺もだよ。メメのことは忘れない。俺もメメみたいになれるように頑張るからさ、なってくれよ、凄い獣遣いに」
「……はい」
目は伏せず、穏やかな笑みのまま、メメは静かに頷いた。
「もちろん、トモリとミグローさんも。二人のことも忘れないですよ」
「うるせー、さっさといけ」
「人の記憶は薄まるものです。気張るのもほどほどに」
相変わらず不愛想なトモリと、微妙にズレているミグローの返事に、カケルは笑みを零した。
立ち上がると、話すべき最後の一人に顔を向ける。
「最後になんか、あるか」
視線の先にいる人物は、翔だ。
言葉を尽くして、力をぶつけて、人生の追体験までした。言わずとも、内心はもう理解している。
念押しのような最後の問いかけに、翔は僅かに目を細めた。そして。
「書くのなら、学園異能バトルはやめておけ。今どき流行るジャンルじゃない」
「ぐ……やっぱそうだよなぁ……」
思わぬところに釘を刺され、カケルは肩を落とす。「それと」と翔は眼差しを真剣なものに変えた。
「これをきっかけにするなよ。今回の一件はお前の中で一区切りついただけだ。現実に戻ってもお前の成功が確約されたわけじゃない。お前はこれから、失敗もする。挫折もする。そのときは諦めるのも視野に入れろ。進みたくないのに進むな」
「――っ、ああ」
その言葉の重みに一瞬息を詰まらせながらも、カケルは確かに頷いた。
翔はその頷きを見て、大きく息を吐いた後、付け加えた。「それと最後にもう一つ」
「――絶対に失敗するな。必ず小説家になれよ」
「――ああ、約束する。絶対だ」
翔の視線と言葉を正面から受け止め、一度、音が鳴るほど力強く胸を叩く。
今までのどれより重い言葉を受け取って、カケルはそこに誓いを立てた。
たとえ誓いが呪いに変わろうと、カケルはそれを恨みはしない。そう、心に刻んで。
「そういえば言い忘れてた。俺からも一つ、いい?」
これだけは言っておきたかったのだったと、カケルは顔を上げた。
「お前も思い出したんならさ、もう一度作品、好きになってくれよ。今は書かなくてもいいからさ。……俺が物語好きじゃなくなるなんて、寂しいよ」
「――――」
翔が呆気にとられたように目を見開いた。
驚愕、というほど緊張のあるものではない。ただ純粋に、翔の発言に心の底から意表を突かれたという様子で――
「ふ」
不意に、微かな嘆息と共に翔が口元を綻ばせた。
その笑顔は、ずっと張り詰めていた翔が、初めて見せるほどけた表情だった。
「――俺のことだ、どうせ好きになるよ。それでまた書く。お互い頑張ろうな」
穏やかに突き出された拳があまりに意外で、しかしそれに応えないはずもなくて、カケルはコツンと拳をぶつけた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
その後、カケルは塔の足元で静かに歪みを見つめていた。
万が一でも巻き込まれないようにと、メメ達は既に距離を取っている。
深呼吸をすると、カケルは隣に視線を送った。
「これでいいんだよね、男爵」
「ああ。……思ったより緊張してないんだな」
思わぬ男爵の質問に、カケルは一拍おいて「そうだね」と笑った。
夢から現実への帰還。それは全てが未知数で、無事に戻れるかもわからない。
それでもカケルが落ち着いていたのはきっと、翔の笑う顔が母に――詩織に似ていたからだ。
「――いくよっ!」
覚悟を決め、力強く歪みに触れる。瞬間、紫紺の光が激しく膨張した。
空気に走る亀裂も広がり、世界を割れガラスの中に呑み込んでいく。
「――二人ともっ!」
声に振り返る。亀裂の魔の手に呑み込まれるギリギリで、メメが叫んだ。
「お元気で――っ!」
バキン、と世界が亀裂に呑み込まれた。
直後、亀裂は更に細かく広がり、余白をなくしたところで粉々に砕け散る。
後に残ったのは、紫紺の光が満ちる空間だ。
気が付くと、両腕がなくなっていた。両腕だけではない。両脚も、胴も、五感さえなくなっている。
いつの間にか、カケルの実体そのものが失われていた。
肉体とは心の拠り所だ。肉体全てを奪われて、カケルの心は均衡を崩す。
先ほどまで穏やかに見えた紫紺の光は、禍々しい濁流となって迫る。
迫る、と言ったがそこに距離の概念はなく、遠くでも近くでもある。迫られる圧迫感だけが心を支配し、しかしいつまでも到達してくれはしない。
そしてその間、全てが無音。
終わりなき責め苦はカケルの自我をたやすく紫紺に溶かしていき――
『大丈夫、すぐの辛抱だ』
刹那、存在しない耳に声が届き、存在しない肩に手が置かれる感覚があった。その感触を頼りに、散らばりかけた自我が形を取り戻す。
『気が付いたみたいだな。ここは夢の狭間。俺の生まれた場所だ』
『ここが――』
どこまでも虚無で、自己すら保証されない空間。とても危うく、寂しさが満ちていた。
その思いを刹那で脇へ押しやると、カケルは言うべきことへと頭を切り替える。
『ごめん男爵。もうちょっとだけ付き合ってもらえるかな』
『夢から出た後にか?』
『うん。ここで終わりじゃダメなんだ。俺にはまだやらなきゃいけないことがある』
『……よくわからないが、わかった。最後まで見届けさせてもらおう。――出るぞ』
合図とともに、急速に浮上していく感覚に襲われた。
五感はなく、上下の概念すらない。にもかかわらず確かに浮上していくそれは、きっと――。
「――――」
家の前を車が通ったのだろう。ブラインドの隙間から洩れた光が、夜の天井を右から左へ流れていった。
意識の覚醒から眼前の光景まで、普段と何ら変わりの無い起床だ。
微かに肩透かしを感じながら、充電器を差していた端末を起動する。時刻は四時五十五分。三月の日の出にはまだ時間があった。
意識について行かない身体をどうにか動かしながら手を彷徨わせ、引っかかった蛍光灯の紐を引く。カチリという小気味よい音とともに、部屋が明るさを取り戻した。
眩んだ眼を細めながら椅子を引く。今度は眼を覆いながら卓上ライトをつけた。
「寝ないのか?」
「――うわっ!? ……現実にも来られるんなら先に言ってよ、男爵」
壁に寄りかかっていた不法侵入者を、カケルは白い目で迎えた。
「無理をすれば少しだけな。終わりじゃダメだと言ったのはカケルだろう」
「いや、そうだけどさ……。そういえば、やっぱモザイクはそのまんまなんだね」
「らしいな。……カケル、もう一度訊くぞ。寝ないのか? 二度寝には十分な時間だろ」
その言葉にカケルはニヤリと笑うと、パソコンを起動し、デスクトップの左下の文書ファイルをためらいなく開いた。
小学生ぶりに見る、真っ白な画面だ。それを横目で確認しながら、机の隅のカレンダーを手に取り、赤い印を男爵に見せつける。
その日付は三月三十一日。カケルを散々苦しめてきた、新人賞の締切日だ。
「日付が変わって、今は三月十八日の朝四時。締め切りまでちょうど二週間をきった」
まさか、と男爵が呟く。
赤い印を指で弾くと、カケルは挑発的に笑った。
「この二週間で一作書き上げて応募する。それが俺の『やらなきゃいけないこと』だ」
呆気にとられた様子の男爵が、口元を微かに笑みに歪ませる。
「……狙うのは?」
「当然、大賞」
両腕をまくり、椅子の位置を直してどかりと座った。
「書いて、出して、獲る。まずはこっから、もっかい人生始めようっ!」