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第16話  『十秒』


「それでも俺は、夢を諦められない」


 カケルがその言葉を口にすると、翔の瞳が絶望に濁っていくのが分かった。その胸の内がどれほど黒く染まっているか、人生を追体験したカケルに理解できないはずもない。

 だが、それでも言わなければならなかった。


「お前の言うことは正しい。昨日までの俺なら、きっとお前みたいな人生を送ってたよ。だけど今は違う。この世界から出たら、ちゃんと書くよ。ちゃんと書いて、向き合って、そんでいつか、俺は小説家になる。……今更信じてもらえないだろうけど、本当だ」


 その言葉を聞いて翔が愕然と目を見開く。しかしすぐに、唸り声のように低く呟いた。


「ふ、ざけ、るな」


「本当だ」


「――ふざけるなッ!! 今更それが出来るなら、どうして今までやらなかった! 言い訳の何倍も、時間ならあったはずだッ!」


 猛り狂う翔の言葉に、「簡単に言ってくれるなよ」とカケルは苦笑する。

 どうしてできなかったのか、今まではうまく言葉にできなかった。それはきっと、理想と現実が乖離していたからだ。

 現実を口にしたら、自分がそこから抜け出せなくなりそうで、理想に追いつきたかったカケルは言葉にできなかった。

 でも、今ならわかる。


「覚えてるか? 小説家になりたいって思い始めたのは、十歳の時だったよな。俺も最初はさ、何作品か書いただろ。三千とか、五千とか、そのぐらいの字数で」


 語られるのは、幼少期の記憶。見るだけだったカケルが、創作に踏み入った時の話だ。


「どれも書き上げるのは結構大変だったけど、それでも楽しかった。今思うと文章とかひどいんだけど、友達とかお父さんに見せても、面白いって言ってもらえてさ。達成感と誉め言葉がたまらなくて、どんどん次を書いて、正直ハマったよ」


 今でも、あの日々は瞼の裏に残っている。


「俺ってすぐ調子に乗るからさ、この調子で小説家までトントン拍子だ、なんて思って。それで、ちゃんと長いの書こうと思ったんだ。ネットで小説一冊分の文字数を調べたりして、なんだよこんなもんか、結構いけそうじゃんって、もう作家気分だった」


 幼さゆえの全能感だった。でも。


「ふと『実際どのくらい時間かかるんだ』って考えちゃったんだ。それがまずかった」


 今でも覚えている。夢から覚め、世界が色褪せていくような、底冷えする感覚だった。


「俺が調べたサイトには、小説一冊十二万字って載ってた。当時の俺は調子のいい時は一時間に千文字だったから、単純計算で百二十時間。学校に行きながら休みなしで毎日三時間やっても、四十日はかかる計算だ。一か月半より少し短いぐらい。十歳のガキにとって、それがどれだけ長いかなんて、わざわざ言うまでもないよな」


 さらに、この計算には先がある。


「もちろん今言ったのは、かかる()()()の時間だ。シナリオが最初から細部まで決まってて、調子が一切崩れず、書き直しが一度も必要ない場合の話。現実はこんなもんじゃない。文章の推敲、使ってる日本語が正しいかの確認、事前の想定で足りなかった部分の補完、描写のリアルさ、緻密さ、わかりやすさのバランス調整。キャラクター造形、セリフ回し、物語の設定、展開、読者がその展開でどう感じるのか、その印象はこの物語において適切か否か、キャラクターが没個性的になっていないか、クライマックスはどうやって盛り上げるか。――物語の、面白さとは何か」


 考え始めればきりがない。あの時、カケルにはすべてが高すぎる壁に見えた。


「客観性も手腕も要求される。全部完璧にやろうとしたら、もうどれだけ時間がかかるか想像つかない。……それに気づいた時、世の中にこんなに作品があることが信じられないと思ったよ。作者は皆こんなことやってんのか。あいつらホントに人間か、って」


 何気なく見てきた作品達が、途方もない苦労の果てにあったのだと、愕然としたのだ。


「考えれば考えるほどやることが多すぎた。それで足が遠のいて、まだたりない、これじゃダメだって完璧主義を言い訳に、いつの間にか取り組むことを投げ出してた」


 何のことはない。他でもないカケル自身が、一万時間に心が折れたのだ。


「やりたいとはいっつも思ってた。でも、情けない俺達には『やりたい』と『やる』の間にどうしようもない差があって、一歩目も踏み出せずに挫折した」


「それは」歯噛みする翔は苛立った様子で続けた。「俺の覚悟がその程度だったからだ」 


「その程度で心が折れて取り組めなくなる。俺は所詮、そのレベルでしか小説家になりたいと思っていなかった。あれは憧れというのも大袈裟な、子供の気の迷いだったんだ」


 その言葉に、カケルはハッキリと首を振る。


「そうじゃない。俺は確かに憧れてた」


「違うッ! 始まる前に心が折れたような奴がどうしてそう言いきれる!」


「理由ならあるよ。あったじゃねえか。だってそうだろ、俺達には」


 そう、オカダ・カケルには。


「――忘れられない、一瞬があった」


 小学四年の夏休み、妙に引っかかる独白と共に出会った作品の記憶。

 それはカケルが忘れ、翔が忘れていた瞬間だ。カケルが思い出した、始まりの瞬間だ。


「俺は舐めてたんだ。物語なんて、所詮暇つぶしの道具だって。だけどあの作品は舐めてる俺を引きずり込んだ。初めてだったんだよ。感動とか興奮とかじゃなくて、自分が丸ごと揺さぶられるような感覚になったのは。あの一瞬をもう一度体験したいから、俺は次の作品を観たんだ。なあ、お前もそうだろ。そうだったろ。もう一度揺さぶられたいから、何個も何個も作品を観るんだろ。なあ――違うかよッ!!」


 胸の内から湧き出る始まりの想いが抑えられず、声が震える。

 気圧される翔の瞳の奥に、揺れる光が見えた。カケルはそれを逃さぬよう睨みつける。


「……いろんな作品を観るうちに、物語そのものが好きになってて、それである日、作者の名前が目に入ってきた時にふと思ったんだ。――俺も、こうなりたいって」


 焼き付いた憧憬は、想いは、刻まれたまま消えはしない。


「俺は面倒臭がりで、書く前から心が折れてたような情けない人間だよ。でも、書かなかったからといって、努力をしなかったからといって、俺が憧れてなかったことにはならない。――あの一瞬は、なかったことにはならない」


「だが、あの時、俺は諦めた! 諦めた俺の憧れは偽物だッ!」


 翔は叫ぶ。諦めたあの瞬間、翔の中の憧れは消えてしまったと、言わんばかりに。


『夢はいつか消える』


『どうせ最後には消えるのなら、そこに労力を割く価値がどれだけある?』


 脳裏によぎる誠一と男爵の言葉が、翔の言葉と重なった。激情に歯を食いしばる。


「違うッ! いつかなくなったとしても、だから偽物ってことにはならない!」


『――流石にあれを見た後に、偽物だなんて思えないよ』


「メメが、この世界が偽物じゃないみたいに!」


『――仕事、探さなきゃな』


「お前が偽物じゃないみたいに!」


『お母さん、死んじゃったんだなぁ』


「――憧れた岡田翔(おれたち)が、偽物じゃないみたいにッ!!」


 胸の奥で煮えたぎる熱は止まらない。

 翔の瞳が、揺らぐ。


「お前は認めねえだろうが、お父さんの言ってたこともきっと正しいよ! 夢はいつか消える。そうかもしれない。もっと好きな何かが見つかる。そうかもしれない。夢が消えずにお前になるか、消えて俺じゃなくなるか、二つに一つかもしれない! ――でもッ!」


「――――」


「――そんなの全部っ、どうだっていいんだよッ!!」


 いつかの話など、遅すぎる。


「未来にどうなろうが、今この憧れは本物だ! わかんだろうが! 俺達には今しかないんだよ! 俺達は憧れに呪われたんだ! 未来なんて全部どうでもよくって、今この感情に全部を懸けるしかないんだ! ――書くか死ぬか、それしかないんだよッ!!」


「――ッ!」


 翔の瞳が揺らぐ。激情が喉を灼く。堪えきれずに、喉の奥から血が噴き出した。

 刀も忘れて、胸の内をぶつけ合うだけの泥だらけの戦いがそこにあった。


「だが、あの時の俺は」


「今のお前はどうなんだ! あの一瞬を思い出して、お前はどう思ったッ!」


「思い出せない」


「違う! 忘れることはあっても、俺があの瞬間を思い出せないはずがない!」


「……知らない」


「そんなわけがない! 俺とお前の始まりだ!」


「覚えてな――」

「――嘘だッ!!」


 その熱に、翔が目を見開いた。


「俺はお前だッ! ――自分相手に嘘が通じると思うなよッ!!」


「――――ッ!!」


 その一言でついに、翔は言葉の全てを封じられて。


「そん、な、もの、今更、認められるかァッ!!」


 刀を握り、踏みしめた脚で跳躍する翔。それは事実上の敗北宣言だ。

 言葉ではかなわず、頭ではカケルの言葉を理解しながらも、受け入れることが到底出来ないということ。

 つまりここが分水嶺――否、正念場だ。

 それなら――


「――喧嘩しようぜ、岡田翔ッ!! 俺もお前も、もう止まれやしねぇだろッ!!」


 もはや言葉は意味を無くし、ここからは意地と意固地のぶつかり合いだ。


「力づくでも認めさせてやらァッ!」


 歯を剥き出して笑い、カケルは迎撃に刀を構える。

 右手に柄、左手に峰。構図は先程と同じだが受け方が違う。

 振り下ろされる刃を、受け止めるのではなく弾き返すように打ち上げた。

 そのまま先ほどの意趣返しに、空いた翔の右脇腹へ、回し蹴りを打ち込む。――が、翔はそれを左の掌底で強引に相殺した。


「――――」


 腕と足、双方が衝撃に痺れ、戦場に刹那の停滞が生まれる。先に動いたのは翔だった。

 無事な右手で翔の足首を掴むと、その剛腕で強引に振り回す。

 遠心力に血が逆流する感覚を覚えるもつかの間。直後にカケルの背中を衝撃が打った。


「が、は」


 肺が潰れ、強引に空気が押し出される。地面に叩きつけられたと理解したのは一瞬後だった。

 翔の攻め手は止まらない。背中の次は腹、腹の次は再度背中と、振り上げと叩きつけの衝撃で周囲の地面にひびを入れていく。


「――らァ!」


 衝撃に意識を持っていかれかけながら、カケルは叩きつけと振り上げの僅かな隙間を狙い、握ったままだった刀の峰で翔の手首を打ち付けた。


「――ッ!」


 握力が緩んだ瞬間に手を振り払うとカケルは即座に立ち上がり、しゃがみ、両脚の筋肉を盛り上げ、爆発的な推進力で前方へ跳んだ。その先にあるのは翔が投げ捨てた刀だ。

 その跳躍の意味に気が付き、翔も追って跳躍する。が、遅い。

 一瞬早く刀へたどり着いたカケルは、それを拾い上げ二刀流に使う――のではなく、翔めがけて投げ飛ばした。


「――ッ!」


 音速にも近い速度で眉間に迫りくる切っ先を、大きく身をのけぞらせながら避ける翔。

 刀が通り過ぎるよりも早く、器用にその柄を掴み、迎撃に(もち)いろうと握り込んで――刀の影に隠れていた二の矢ならぬ二の刀に、その刀身を弾かれた。

 鉄の弾ける音とともに、ただでさえ後方に偏った重心が大きく崩れる。それでもイメージを付与された身体は、重力を無視した体勢で辛うじて堪え続けた。

 だが、不安定な姿勢と両足に密集した重心が、戦場で見逃されるはずもない。

 僅かに遅れて駆け寄ったカケルが、地面の上で踵を滑らせ、おぼつかなくなった翔の両足を払う。身を支えるものがなくなった身体は、極低空でふわりと投げ出され。


「キツイの一発、覚悟しろ――ッ!」


 がら空きになった腹に、全霊の拳を叩きこまれた。


「――が、はッ!」


 轟音と共に響く、血を吐く声。放射状に広がる地割れは、その衝撃を物語る。

 瞬間、カケルの腹に同等の衝撃が走った。見ると、そこには真下から拳が伸びていて。


「ま、じかお前」


 驚愕と共に血を吐き出す。

 強烈な一撃を食らい、地面にめり込み、打ち込まれた拳も身体から離れていないというのに、翔は血反吐を吐いたまま、即座に反撃に移っていた。


「――ッ!」


 足元から噴き出す鬼気に呑み込まれそうになり、カケルは咄嗟に飛び退く。

 重い一撃を交換した。互いに意識は飛びかけだろう。だが、鬼気に萎える気配はない。


「――俺の憧れが、本物であっていいはずがない。本物は、もっと……」


 低く唸る声は、二十数年の妄執だ。だが――


「憧れに幻想抱くな! 完璧なんてねえ! いくら好きで憧れてても、面倒臭ぇもんは面倒臭ぇんだよ! 嫌な時も、逃げたい時も出てくる。そういうもんだ! 仕方ねぇだろ! どうせ小説家だって、内心では面倒臭ぇって思いながら小説書いてんだよッ!」


「――ッ!」


 双方、地面に突き刺さる刀を拾い、再度接近戦を開始する。

 一合、一合、一合。

 火花と金属音をまき散らしながら二人は刀を叩きつけ合う。


「大体、俺がやる気でないのは新人賞の方も悪いっ! ただでさえ一作書くのクソ時間かかるのに結果が出るの数か月後だぞ!? やってられるかァ! 一週間で結果だせやッ!」


「この――ッ、クソガキがッ! テストの採点じゃねえんだぞ! 何作応募されると思ってんだ! 審査員のみなさまだって頑張ってんだよッ!」


「知るかァッ!!」


 力の限りに振り下ろされたカケルだが、刀身の上を滑らせる受け太刀により流され、切っ先が地面に突き刺さる。

 引き抜くまでの僅かな力みを狙って、翔が刺突を繰り出した。――が、既にカケルの姿はそこにない。


「こんぐらいの力ならまだ使えんだよッ!」


 周囲の木に縄を括りつけ、カケルは弧を描きながら飛び回っていた。

 ズキリ、と脳が痛む。が、それを無視し、突き刺さった刀も、柄に縄を結び付けて手元に引き寄せる。


「クソッ」


 木々を飛び回り翻弄する敵対者の動きに、翔が悪態を吐き捨てる。その目は動きを追えていないようだが、それは決してカケルの優勢を意味しなかった。

 力を使える、とは可能であるの意であって余裕であるの意ではない。

 肉体へのイメージ付与すらギリギリのこの状況で縄まで使えば、脳の限界は加速度的に近づいてくる。

 アドレナリンでも誤魔化しきれない頭痛が、意識の薄皮を一枚ずつ剥いでいく感覚があった。

 翔は動きを追うのを諦めたように俯くと、静かに呟く。


「――どうしても諦める気はないんだな」


「そんなもん、俺達には似合わねえよッ!」


 飛び交うカケルが、木々の隙間から答えた。その言葉を聞き、翔は――


「ならこれで最後だ。今度こそ終わらせてやる」

「――がっ!?」


 全身の筋肉が爆発的に盛り上がり、一薙ぎの剣圧でカケルの身体を吹き飛ばした。

 揺れる視界の隅で、翔の筋肉は収まる様子を見せない。

 全身が一回り巨大化し、一挙手一投足が破壊を帯びた姿。それを持続するとはつまり、翔も腹を決めたということで。


「ここにきて燃費無視かよ。――十秒ってとこだろ、その姿」


「――――」


 木の枝に着地したカケルの問いかけにも答えず、翔は一度、深呼吸をした。



 ――終戦まで、十。



 眼前に拳。一瞬で距離が詰められたことをカケルが理解するのと、身体をのけぞらせて枝から滑り落ちたのは同時だった。鼻先を掠める拳圧は致命の威力だ。

 着地する直前に、うなじに痺れるような感覚が走った。

 咄嗟に縄で自らの身体を引っ張り上げた直後、カケルの残像に一閃。

 僅かに遅れた髪の毛先が、銀の細見に均された。

 一瞬でも遅れれば死。

 その事実に全身から冷や汗が噴き出す。距離を確保しようと、カケルは縄から縄へ、木から木へ、不格好に弧を接続した軌道で空を切る。



 ――九。



 突然、縄の手ごたえがなくなった。身体の制動も出来なくなり、投げ出されたような浮遊感に襲われる。

 見ると、木に結び付けたはずの縄が真ん中でこと切れていた。

 空中で風に踊る縄が更に半分に割かれた光景を見て、カケルは理解する。

 これは剣圧だ。剣を振り、飛ばす空気の塊だけで翔は縄を切ったのだ。

 乱雑に振られる翔の刀が鈍く光った。次々と縄を射出するが、そのことごとくが両断される。

 直後、ただ慣性で飛ぶだけのカケルの腹に、剣圧が襲い掛かった。



 ――八。



 斬撃というよりは鋭い打撃だが、その威力は折り紙付きだ。撃ち込まれた衝撃で、カケルの身体がくの字に折れる。

 空中で身体が痺れ、そのまま墜落した直後に、地面にひびを入れる脚力の翔が、再度眼前まで跳んでいた。

 銀の細見が振り下ろされる。



 ――七。



 刃で受け止めるのも間に合わない。

 そう判断し、カケルは迫りくる一閃を左右の拳で挟むように打った。

 横やりの衝撃に相殺され、斬撃が拳の隙間で強引に静止する。柄を握り込んだままの右手が、堪えきれずに血を吹きだした。

 右手の斬撃を受け止められた翔が、空いた左の拳を握り、標的の胴を穿たんと放つ。

 カケルは左の拳を離すと、再度動き出す刃の軌道を右の拳で殴るように変え――


「――ァァアッ!!」


 自由になった左腕の筋肉を爆発的に隆起させ、迫る拳を打ち返し、強引に相殺した。



 ――六。



 致命と致命。人体の限界を超えた一撃同士のぶつかり合いは、轟音と共に土を抉るほどの暴風を生み出す。直後、堪えきれずに二人の身体が背後へ吹き飛んだ。

 高速で奥に流れ、遠のいていく光景。風の抵抗をものともせず吹き飛び続けるカケルの身体は、木に激突し停滞を得た。

 その衝撃でカケルの意識が飛びかけることを代償に。



 ――五。



 体がずり落ち始めた刹那、明滅する視界に『点』が映った。朦朧とする意識の中で違和感が顔を出す。

 奇妙な点だ。一呼吸の間に大きくなる。まるで、高速で迫っているように――


 ――あ。


「ご、ぶ」


 衝撃に胸を焼かれ、声より先に血反吐が漏れた。一瞬遅れて、背後の木が弾け飛ぶ。

 消えかけの意識が、消える。視界から焦点が消失し、緩慢な世界が淵から黒に染まる。

 閉じゆく瞼の狭間で、衝撃をもたらした拳の主が、カケルを見下ろした。


「終わりだ」



 ――四。



 動かなくなったカケルを見て、翔は深く息を吐き、その場を背にした。

 数歩歩いて、立ち止まる。

 その足元に、翔のものではない影が射すのを見て。


「――なんでだ」



 ――三。



 振り向く翔の顔に恐怖の色が見えた。その瞳には、立ち上がったカケルが映っている。

 目の焦点は合わず、引き攣った呼吸を血で染めて、尚も笑う少年の姿が。


「――狂ってる」


「ああ、それが俺達だ」


 意識の淵で、狂人は笑った。



 ――二。



 縄を射出し、跳ぶ。直後に通り過ぎるのは翔の剣圧だ。

 気が付くと周囲の木は殆どが薙ぎ倒されており、カケルが縄を巻きつけられる対象は数本しか残っていない。否、その数本もたった今、剣圧によって地に伏した。もう逃げ場はない。


「――オカダ・カケルッ!」


 慣性以外の力を持たないカケルに、渾身の跳躍で迫りくる翔。この一合で終わらせるつもりのようだ。

 向こうは跳躍の推進力と身体強化。一方カケルは刀一本。

 仮に受け太刀をしたところで勝敗には影響しないほどの差が、そこにはあった

 頭上から落ち、着地の姿勢すら危ういカケルだが、構わず刀を左手に移すと左目を閉じて、迫りくる脅威を正面から見据える。

 残された手は、一つだ。


「――――」


 意識を集中に沈めるカケルの世界から音が消えた。耳元でうなる風切り音も、先ほどから止まない耳鳴りもなく、ただ呼吸の音だけが静かに響いている。

 迫りくる翔の背後で湖がキラリと反射した。


 腕を伸ばし、真正面に構えるカケルの右手。

 その右手は親指を立て、人差し指を真っすぐ翔へと向けている。その形は、まるで――


「ばん」


 指先の黒渦から、目にもとまらぬ勢いで小さな水の球が射出された。

 それは音を置き去りにする速度の翔の、ちょうど眉間に撃ち込まれ。



 ――(いち)



 空中でバランスを崩す翔。

 あくまで水の球。打ち抜いてはいないが、意識を奪う程度の威力はある。速度に見合った空気抵抗は意識の無い人間が乗りこなせるものではない。

 二人が地面に激突したのは殆ど同時だった。

 衝撃で意識を取り戻した翔が起き上がる。だがカケルは既に走り出し、倒木の山に足をかけていた。

 渾身の力で踏みつけ、跳躍し、刀を振り上げて翔の頭上に躍り出る。


「これで――終わりだッ!」


「やってみ――ッ!?」


 迎え撃とう叫ぶ翔の全身に、勢いよく縄が巻き付いた。地面から生えた縄に縛られるその姿は、まるで男爵が黒鎖に縛られた時のようで――


「手を出すつもりはなかったが、俺もお前には借りがあるからな。ささやかなお返しだ」


 遠方、それまで傍観に徹していた男爵の口元が、ニヤリと歪んだ。


「――ッ男爵ゥゥアッ!!」


 猛る翔の全身の筋肉が更に膨張し、縄が剛腕によって音を立てて千切れ始める。


『あの一瞬を思い出して、お前はどう思ったッ!』


「まだ聞いてなかったな」


「――ァァアッ!」


 最後の雄叫びと共に縄が力に屈し、翔の身体が解放される。だが既にカケルは眼前だ。

 気力、体力、合わせて死力。

 カケルは残る全ての力を籠め、全霊で刀を振り下ろし――


「――負けてたまるかァアッ!!」


「お前の答えをッ、聞かせやがれ――ッ!!」


 刹那、二つの閃光がぶつかった。翔は不完全な姿勢とは思えないほどの剛力で刃を受け、まき散らされる火花と轟音はぶつかってからむしろ、さらに大きく、さらに激しく、加速していく。

 二人の両腕からブチブチと筋繊維の千切れる音がした。そして――



 ――零。



 轟音と共に、刀の残骸が飛び散った。刀身を失った刀に、受け太刀の力は無く。


「――クソ」


 胴を薙ぐ刀身。全霊の一撃のもとに、翔の身体は切り伏せられた。



 ――かくして、意地と意固地、狂気と正気のぶつかり合いは、終幕となった。



 カケルは受け身を取ることも出来ず、「ぐ」と自由落下に任せて地に胸を投げ出した。

 切られ、地に背を向ける翔と、並んで倒れ込む形である。


 お互いに指一本動かせそうになかった。


「峰打ちかよ……ふざけやがって……」


「お前に、言われたく、ねえよ」


 息も絶え絶えに言葉を交わす二人。

 命を奪う、などと大仰なことを言った翔だが、結局のところ戦い始めても、小説家を諦めさせた状態で現実に帰そうという内心が丸見えだった。

 諦めない奴と、諦めさせることを諦めない奴。そう考えると、諦めが悪いのはお互い様のようだ。


「それで、教えろよ。お前の答え」


「……俺は」

 

 問いに、翔は声を震わせ、喉を詰まらせる。

 始まりの一瞬が、今の翔にとってどう映るのか、それはカケルにはわからない。だが、確信があった。


「――――」


 微かな衣擦れの音に視線を動かすと、翔が力を振り絞るように目を拭っていた。

 その掌に付く、透明な液体を見て、「クソ」と悔し気に呟くと。


「――俺だって、なりたかったよ」


 ガラスが崩れ落ちるような音と共に、翔の胴で黒鎖が弾けた。

 「遅いって」とカケルは笑う。風にそよぐ草が二人の頬をくすぐった。


 少しのあいだ風の音を聞くカケル達。

 風が収まると、翔がぽつりと呟いた。


「……進むのか」


 その問いには、もう願いも祈りも、籠められてはいなかった。


「ああ」


「……辛いぞ、報われない努力は」


 蘇る、追体験した三年間の記憶。自室でひたすら書き続け、挙句の果てに折れ曲がったあの経験は、口が裂けても幸福なものとは言えない。それでも。


「俺はまだその辛さを知らない。だから、ここから知っていきたいんだ」


「――そうか」


 一度、翔が深く嘆息した。まるで胸の内の感情を押し流すように、深く、深く。


「――お前の勝ちだ、オカダ・カケル」


 湖のほとりで倒れ込む二人は、それ以上何も言わなかった。



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