聖騎士の偽証は、魔女への誓い
土と腐臭の混じった風が、ケルディア王国東部の国境線を撫でていた。それは、死が大地から滲み出しているかのような、不吉な匂いだった。王都アーデンヴァール の聖騎士団本部、その作戦司令室の重苦しい空気は、その風が運んできた報せのせいだ。
巨大な羊皮紙の地図を囲む騎士たちの中心で、一人の青年が眉間に深い皺を刻んでいた。ジークハルト・アスター。齢二十四にして、聖騎士団の団長代理を務める男。陽の光を浴びて輝く金糸の髪も、今は部屋の薄闇に沈み、鋼のごとき灰色の瞳だけが、地図上の一点を鋭く見据えている。
「――古竜の寝床、か」
低い声で呟いたのは、歴戦の古強者である副団長バルガスだ。地図に記されたその場所は、かつて王国を恐怖に陥れた大魔法使いが終焉を迎えたとされる古代遺跡。今は忘れ去られたその場所が、災厄の中心として再びその名を人々の口に上らせていた。
「ただのアンデッドの発生、というわけではなさそうだな」
ジークハルトの言葉に、報告に来た伝令兵が蒼白な顔で頷く。
「はっ。生存者の証言によりますと、骸骨兵を率いるのは、王冠を戴いた魔術師――リッチかと。その邪悪な魔力は周辺の村々を汚染し、作物も水も、既に人の口にできるものではなくなっております」
リッチ。その言葉に、室内の空気がさらに凍りついた。死を超越し、自ら死の王となった存在。ただのアンデッドとは格が違う。強力な魔法を操り、不死の軍勢を生み出し続ける、災厄そのものだ。
「リッチ本体を滅ぼすには、我ら聖騎士が振るう聖なる力が必要不可欠。しかし……」
バルガスが苦々しげに言葉を続ける。
「奴の根城たる遺跡は、強力な魔法結界によって閉ざされている、と。我々の神聖術では、内部に侵入することすら叶わん」
聖なる力は届かない。魔法の力だけでは浄化できない。まさに「詰み」の状況。誰もが唇を噛み、沈黙が部屋を支配する。その中で、ジークハルトだけが静かに瞳を閉じていた。彼の脳裏に浮かぶのは、光明教 の聖典の一節。――光は闇を遍く照らす。されど、人の驕りが作りし影は、光の届かぬ深淵を作る。
「王命が下った」
やがて目を開いたジークハルトの声は、鋼のように冷たく、硬質だった。
「本件の討伐、アルカナ魔法同盟 との共同作戦とする。……忌々しいが、魔女どもの力を借りるほかない、と」
その決定に、騎士たちは隠しようもない嫌悪感を顔に浮かべた。アルカナ魔法同盟。魔法の探求のためならば、神の領域すら侵しかねない傲慢な魔術師の集団。信仰を第一とする聖騎士団とは、水と油どころか、互いを正義の敵とさえ見なしている相手だった。
「ジークハルト様、しかし……!」
若い騎士の一人が声を上げるが、ジークハルトはそれを手で制した。
「異論は認めん。これは、民を救うための聖戦だ。たとえ邪法を操る者と手を組むことになろうと、我らが使命を忘れてはならん。――女神ルミナの御名において、我らはこの地の不浄を浄化する」
彼の言葉は、騎士たちの心を縛る絶対の戒律だった。不満を胸の奥に押し殺し、彼らは一斉に胸に拳を当て、敬礼する。
「はっ! 女神の御心のままに!」
ジークハルトは彼らに背を向け、窓の外に広がる王都の街並みを見つめた。彼の心もまた、他の騎士たちと同じく、屈辱と不信に満ちていた。魔法。それは、神が与え給うた奇跡である治癒魔法 や、生活を豊かにするささやかな光であるべきだ。アルカナ魔法同盟が操るような、自然の理を捻じ曲げ、人を殺傷するための攻撃魔法 は、人の驕りが生んだ邪法に他ならない。
(魔女め。我らの聖戦を、その汚れた足で踏み荒らすこと、許さんぞ)
固く誓い、ジークハルトは自らの聖剣の柄を強く握りしめた。
◇
三日後。リッチが出現した遺跡を見下ろす丘陵に、ケルディア王国聖騎士団の野営地が設営された。白銀の鎧をまとった騎士たちが、一糸乱れぬ動きで陣を固めていく。その中央で、ジークハルトは膝をつき、祈りを捧げていた。
「おお、光の女神ルミナよ。我に不浄を断つ力を、惑わぬ心を、そして、民を守り抜く覚悟をお与えください……」
彼の傍らには、代々アスター家に受け継がれてきた聖剣が突き立てられている。清浄な魔力を帯びた刀身は、この地の邪気を払うかのように、淡い光を放っていた。彼にとって、信仰とは揺るがぬ岩であり、この剣は己の魂そのものだった。
祈りを終え、彼が立ち上がった、その時だった。
野営地の一角が、にわかにざわついた。見張り台の騎士が、困惑したような声を張り上げる。
「て、敵襲にあらず! た、単騎……いえ、一名です!」
ジークハルトが視線を向けた先、荒野の向こうから、ゆらりと陽炎のように揺らめく人影が一つ、こちらへ近づいてくる。馬も使わず、徒歩で。その悠然とした歩みは、ここが死地であることをまるで意に介していないかのようだった。
やがて、その人影が野営地の入り口にたどり着く。そこに立っていたのは、一人の女だった。
歳の頃は、ジークハルトと同じか、少し下か。漆黒のローブは、アルカナ魔法同盟の位階を示すものだろう。深く被ったフードの奥から覗く肌は、病的なまでに白い。風がフードを払い、その顔が露わになった時、息を呑んだ騎士は一人や二人ではなかった。
冷たく、しかし完璧な均衡で整えられた美貌。切り揃えられた艶やかな黒髪。そして、全てを見透かすかのような、紫水晶の瞳。彼女は、まるで人間味を感じさせない、精巧な人形のようだった。
「アルカナ魔法同盟より、派遣されました。リディア・ノワールです」
鈴を転がすような、しかし感情の温度を一切感じさせない声だった。
ジークハルトは前に進み出ると、儀礼的に、しかし硬い声で応じた。
「聖騎士団団長代理、ジークハルト・アスターだ。お待ちしていた、魔女殿」
「魔女、ですか。まあ、どう呼んでいただいても構いませんが」
リディアは、ジークハルトの全身を値踏みするように一瞥すると、ふ、と鼻を鳴らした。
「そちらこそ、作戦会議の準備はできていますか、聖騎士様? 筋肉を動かす前に、少しは頭を使うことをお勧めしますわ」
初対面の、その第一声から、彼女は敵意を隠そうともしなかった。騎士たちの間に、怒りの気配が満ちる。ジークハルトはそれを背中で抑えながら、無表情を貫いた。
「無論だ。作戦司令天幕へご案内しよう」
案内された天幕の中央には、遺跡の詳細な見取り図が広げられている。ジークハルトは、地図を指し示しながら、立てていた作戦を簡潔に説明し始めた。
「作戦はこうだ。まず、我ら聖騎士団が陽動としてリッチの生み出したアンデッド軍団を引き受ける。その隙に、別動隊が遺跡内部へ侵入。リディア殿には、リッチの玉座を守る魔法結界を破壊していただく。その後、俺が奴の本体を聖剣で浄化する。異論は?」
それは、聖騎士団の犠牲を前提とした、しかし最も確実と思われた作戦。騎士の務めは、民のためにその身を盾とすること。ジークハルトは、それが当然だと考えていた。
だが、リディアは腕を組み、心底からつまらなそうに溜息を吐いた。
「異論しかありませんね。驚くほど、非効率的で、野蛮で、愚かしい作戦です」
「な……っ!」
天幕内の空気が、怒りで爆ぜた。
「魔女殿、言葉が過ぎるぞ!」
バルガスが吼えるが、リディアは涼しい顔で続ける。
「事実を述べたまで。あなた方の言う『陽動』とは、要するに『犬死に』の言い換えでしょう? そもそも、このリッチの魔法結界は、力任せに破壊できるほど単純な構造ではありません。複雑に絡み合った十八の術式で構成されている。これを無理に破ろうとすれば、術者に魔力が逆流し、あなた方が言う『聖剣の一撃』とやらを放つ前に、その聖騎士様は塵芥と化しますわ」
「では、どうしろと言うのだ!」
「黙って聞いていなさい。私がこの三日間、不眠不休で解析した結果、結界には唯一の欠陥……術式の綻びが存在します。そこを突く。私が結界の解呪を始めるので、あなた方はその間、私の護衛に徹してください。一体のアンデッドも、私の半径五十メルド以内には近づけないこと。解呪には精密な魔力制御が必要。集中を乱されれば、全てが失敗に終わります」
彼女の提案は、つまり、聖騎士団の精鋭たちを、自分一人の「壁」として使いたい、ということに他ならなかった。先ほどまでのジークハルトの作戦を「野蛮」と断じた彼女が、今度は騎士の誇りを「非効率」の一言で踏み躙ったのだ。
ジークハルトの拳が、ぎり、と音を立てて握りしめられる。
「断る」
低い、地を這うような声だった。
「我ら聖騎士は、誰かの護衛のためだけに剣を振るうのではない。民を脅かす不浄を、この手で断ち切るためにこそ存在する。貴様の個人的な研究の成果のために、我が部下たちの命を危険に晒すことなど、断じてできん」
「あら、そうですか」
リディアは、紫の瞳をすっと細めた。その瞳の奥に、嘲るような光が揺らめく。
「あなたの言う『民』とやらは、今この瞬間もリッチの毒気に蝕まれているというのに。あなたのくだらない『誇り』のせいで、救える命が失われるとしても?」
「な……に……?」
「それとも、本当は怖いのかしら? 魔法の真理も理解できず、ただ神に祈ることしかできない無力な自分と向き合うのが。聖なる力とやらが、私の魔法理論の前では赤子同然だと、認めたくないだけなのではなくて?」
「―――黙れ、魔女ッ!!」
ジークハルトが、思わず腰の聖剣に手をかけた、その時だった。
天幕の外から、遠雷のような地響きが届いた。
「報告! 遺跡の方角より、アンデッドの軍勢、接近中! 数、およそ三百……いえ、増え続けています!」
リッチが動いたのだ。最早、議論の猶予はない。
ジークハルトとリディアは、互いを殺さんばかりの視線で睨み合ったまま、動かなかった。信仰と論理。聖騎士と魔女。決して交わることのない二つの正義が、今、死臭の漂う戦場で、最悪の形で火蓋を切ろうとしていた。
地響きは、もはや遠雷ではなかった。それは、死者の軍勢が大地を叩き、揺らす、冒涜的な鼓動そのものだった。
ジークハルトが天幕を飛び出すと、丘の麓から、おびただしい数の影が、蠢く黒い津波となって押し寄せてくるのが見えた。骨と骨が擦れ合う乾いた音、腐肉を引きずる不快な音、そして、魂のない喉から漏れるうめき声。それらが混じり合い、一つの巨大な絶望となって聖騎士団に迫る。
「全隊、防御陣形を敷け! 盾を構えろ! 女神の光は我らと共にある!」
ジークハルトの檄が飛ぶ。騎士たちは、先ほどまでの動揺を鋼の規律の裏に隠し、大盾を並べて揺るぎない銀色の壁を形成した。最後尾に陣取った弓兵たちが、聖印を刻んだ矢を番える。ジークハルトは聖剣を抜き放ち、その切っ先を天に掲げた。
「我らが剣は、民を脅かす不浄を断つ聖別の刃なり! 我らが盾は、弱き者を守る慈悲の壁なり! 恐れるな! 怯むな! 祈りを力に変え、前へ!」
雄叫びと共に、銀色の壁が、黒い津波と激突した。
凄まじい衝撃。剣は朽ちた骨を砕き、盾は腐った爪を弾き返す。だが、敵の数はいかんせん多すぎた。一体倒しても、その後ろから二体、三体と、無限に湧き出てくる。アンデッドは痛みも恐怖も感じない。ただ、生者の魂を求めて、ひたすらに前進してくるだけだ。
「第一列、後退! 第二列、前へ! 隊列を崩すな!」
ジークハルトは自らも最前線で剣を振るいながら、的確に指示を飛ばす。彼の聖剣が閃くたびに、浄化の光が迸り、数体のアンデッドが塵となって消える。しかし、それは焼け石に水だった。じりじりと、しかし確実に、聖騎士団の戦線は後退を余儀なくされていく。騎士たちの顔に、焦りと疲労の色が浮かび始めていた。
その様子を、リディアは後方の小高い丘から、冷徹なまでの静けさで見下ろしていた。彼女の周りだけが、戦場の喧騒から切り離されたかのように、しんと静まり返っている。彼女はただ、戦況という名の盤面を読み、最適な一手を計算しているだけだった。
(……やはり、脳筋の集団ね。個々の戦闘力は高いけれど、戦術が単純すぎる。これでは消耗するだけ)
やがて、彼女はふぅ、と小さな息を吐いた。その紫水晶の瞳が、初めて戦場全体を捉える。
「まあ、壁役としては、もう少し粘ってもらわないと困るし」
独りごちると、彼女はすっと両手を胸の前に掲げた。指先が、空中に複雑な幾何学模様――魔法陣を描き始める。周囲の大気から、マナが渦を巻いて彼女の元へ収束していくのが、ジークハルトにも肌で感じられた。
「……詠唱が、ない?」
ジークハルトは驚愕した。これほどの大規模な魔力を集めながら、彼女は一言も呪文を唱えていない。無詠唱魔術。それも、これほどの規模の魔法を。アルカナ魔法同盟が「天才」と称する所以を、彼は今、目の当たりにしていた。
やがて、リディアの頭上に、巨大な灼熱の球体が出現した。それは第二の太陽と見紛うほどに眩しく、戦場の空を不気味な赤色に染め上げた。
「――『インフェルノ・ストーム』」
初めて彼女が紡いだ言葉は、魔法の名。それは、死の宣告だった。
灼熱の球体が無数の火の矢となって降り注ぎ、アンデッドの軍勢を焼き尽くしていく。浄化の光とは違う、情け容赦のない絶対的な破壊の力。悲鳴を上げる間もなく、骨は燃え尽き、腐肉は蒸発し、黒い津波は一瞬にして炎の海へと変わった。
聖騎士団の目の前に、ぽっかりと、死体すら残らない空白地帯が生まれていた。
あまりの光景に、騎士たちは剣を振るうのも忘れ、呆然と立ち尽くす。
ジークハルトもまた、言葉を失っていた。あれほどの数の敵を、たった一撃で……。これが、魔女の力。これが、彼が邪法と断じた、人の驕りの到達点。その圧倒的な力の前に、彼の信じてきた正義が、足元から揺らぐような感覚に襲われた。
「何を呆けているの。道ができたわよ」
リディアが、まるで退屈そうに言った。「さっさとリッチの懐まで行くわよ。私の魔力も無限じゃないんだから」
その言葉に、ジークハルトははっと我に返る。彼は己の頬を強く張り、騎士たちを叱咤した。
「前進! 目標は遺跡中央!」
リディアの魔法が切り拓いた道を進み、一行はついに遺跡の内部へと侵入した。だが、そこで彼らを待っていたのは、リッチの側近である屈強な**デス・ナイト**だった。全身を呪われた黒い鎧で固め、邪悪な魔力を宿した大剣を携えている。
「ここは私が!」
ジークハルトが前に出ようとするのを、リディアが手で制した。
「待ちなさい。あの鎧、物理攻撃を半減させる呪いが掛かっているわ。あなたたちの自慢の剣じゃ、傷一つ付けられない」
「ではどうする!」
「私が鎧の呪いを一時的に中和する。その隙に、心臓部の魔石を破壊しなさい」
リディアが再び魔法の詠唱を始める。デス・ナイトは、危険を察知したのか、目標をリディアに定め、禍々しいオーラを放ちながら突進してきた。
「させん!」
ジークハルトと数人の騎士が、デス・ナイトの前に立ちはだかる。だが、デス・ナイトの一振りは、大盾ごと騎士を数メートルも吹き飛ばすほどの威力だった。ジークハルトも聖剣で受け止めるが、あまりの重さに腕が痺れ、押し返される。
(……強い!)
その一瞬の攻防の隙。デス・ナイトはジークハルトの脇をすり抜け、詠唱中の無防備なリディアへと迫った。黒い大剣が、無慈悲に振り下ろされる。
リディアの紫の瞳が、驚きに見開かれた。
その瞬間。
ジークハルトは、思考よりも早く、体が動いていた。
彼は、信じられないほどの速度で地面を蹴り、リディアの華奢な体を突き飛ばしていた。
「――ぐっ……!」
鈍い衝撃。彼の脇腹を、呪われた刃が深く抉っていた。激痛と共に、傷口から黒い瘴気が立ち上り、肉を腐らせていく。
「……ジークハルトッ!」
初めて、リディアが彼の名を叫んだ。その声は、驚きと、焦りと、そして彼女自身も気づかぬ、微かな恐怖に震えていた。
「……任務を、遂行しろ……」
ジークハルトは、膝から崩れ落ちながらも、聖剣を杖代わりに体を支える。
「……魔女、殿……」
リディアは一瞬、ためらった。だが、すぐに表情を鋼のように硬くすると、デス・ナイトへと向き直る。彼女の瞳には、今や冷静な殺意だけが宿っていた。
「よくも……よくも、私の邪魔を……!」
彼女の指先から放たれた数条の火線が、デス・ナイトの鎧の呪いを焼き切る。動きの止まったその隙を、残った騎士たちが見逃すはずもなかった。数本の剣が、鎧の隙間から心臓部の魔石を同時に貫き、デス・ナイトは断末魔と共に崩れ落ちた。
だが、勝利の代償は大きかった。
ジークハルトは、呪われた傷の激痛に意識を失い、その場に倒れ伏していた。
◇
意識が、暗く冷たい水底から、ゆっくりと浮上していくような感覚。
ジークハルトが最初に感じたのは、薬草の匂いと、そして、誰かが自分の手を固く握っている、小さな温もりだった。
おそるおそる目を開けると、そこは野営地の天幕の中だった。脇腹の痛みは、奇跡のように引いている。傷口に目をやると、黒い瘴気は消え、清浄な白い布が巻かれていた。
「……気がついた?」
声のした方へ顔を向けると、リディアが椅子に座って、こちらを見ていた。彼女の顔はひどくやつれ、目の下には濃い隈が浮かんでいる。その手は、今もジークハルトの手を握ったままだった。
ジークハルトの視線に気づき、彼女ははっとしたように、慌ててその手を離した。
「……部下たちは?」
「無事よ。あなたのおかげでね」
ぶっきらぼうな口調は変わらない。だが、その声には以前のような刺々しさはない。
「……あなたが、手当てを?」
「当たり前でしょう。あの呪いは、あなたたちの使う神聖術じゃ浄化できない。暗黒魔法で編まれた呪詛は、その術式を逆から辿って一つ一つ解呪するしかないのよ。……丸二日、かかったわ。まったく、非効率なことをさせてくれる」
二日。彼女は、二日間不眠不休で、自分のために魔力を注ぎ続けてくれたというのか。
ジークハルトは、ただ言葉もなく彼女を見つめた。
「……な、なによ。その目は」
リディアは、居心地悪そうに視線を逸らす。
「なぜ、私を庇ったのよ。あなたは、私のこと、嫌っているんじゃなかったの」
「……それが、聖騎士の務めだからだ」
以前、彼女に言ったのと同じ言葉を、彼は繰り返した。だが、その意味は、もはや二人にとって全く違うものになっていた。
「……本当に、馬鹿じゃないの」
リディアは俯き、ぽつりと呟いた。その声は、微かに震えている。
「あなたのせいで、計画は台無し。私の魔力もほとんど空よ。もう、まともな戦闘はできない。どうしてくれるのよ、この……お人好しの、脳筋騎士……」
それは、紛れもなく非難の言葉のはずだった。
だが、その言葉の裏にある、安堵と、戸惑いと、そして彼女自身も持て余しているであろう温かい感情を、ジークハルトは確かに感じ取っていた。
彼は、ゆっくりと身を起こすと、彼女の頭に、そっと手を置いた。リディアの肩が、びくりと震える。
「すまなかった。そして、ありがとう、リディア」
初めて、彼は彼女を「魔女殿」ではなく、その名で呼んだ。
「……っ」
リディアは顔を上げられない。その耳は、夕焼けのように真っ赤に染まっていた。
ジークハルトは知った。彼女の冷たい仮面の裏にある、不器用な優しさと、その魂の熱さを。
リディアは知った。彼の堅物な正義の奥にある、自己犠牲も厭わない、深い慈愛を。
反発しあい、傷つけあった二つの心。
だが、死の淵で触れ合った魂は、今、確かに一つの方向を向き始めていた。
リッチ討伐という過酷な任務の先に、さらに過酷な運命が待っていることなど、まだ知る由もなく。
天幕の中、ぎこちない沈黙と、しかし確かな温もりが、二人を包んでいた。
◇
リッチの玉座の間は、死と静寂に支配されていた。千年分の埃が積もった石畳、骨で組み上げられた禍々しい玉座。その中央に立つリッチは、もはや骸骨兵を召喚するような小細工は弄さなかった。空洞の眼窩に揺らめく魂の光は、絶対者としての傲慢さと、自らの領域を侵す者への純粋な憎悪に満ちている。
「リディア、奴の魔法障壁を頼む。俺が懐に飛び込むための道を、一瞬でいい」
「無茶を言うわね。あれは、私の『インフェルノ・ストーム』さえ弾き返したのよ? ……でも、あなたなら、その一瞬を突ける」
軽口を叩きながらも、その声には確かな信頼が滲む。もはや初対面の頃のような刺々しい敵意はない。死線を共に越えた者だけが分かち合える、絶対的な信頼感がそこにはあった。
「いくわよ、脳筋騎士!」
リディアが両手を突き出す。彼女の魔力が、先ほどまでの炎とは質の違う、純粋な破壊の奔流となってリッチの障壁に叩きつけられた。だが、リッチは杖を軽く振るだけで、その強大な魔力を霧散させてしまう。
「くっ……! ちょっとはやるじゃない……!」
「小賢しい魔女めが」
初めて、リッチが声を発した。それは、墓石と墓石を擦り合わせたかのような、冒涜的な響きだった。
「我が魔力は、死と共に千年を練り上げたもの。貴様らのような若輩の力が、届くとでも思うたか」
リッチの杖先から、無数の黒い雷が放たれる。ジークハルトはリディアの前に立ち、聖剣を振るって雷を弾くが、その一撃一撃が腕を痺れさせ、全身を震わせた。
「ジークハルト!」
「問題ない! それより、奴の障壁の特性は分かったか!」
「ええ! ただ硬いだけじゃない。あらゆる魔力を分解し、無に還す性質を持っている。純粋な物理攻撃も、聖なる力も、届く前に霧散させられるわ!」
まさに鉄壁。攻め手がない。じりじりと後退する二人に、リッチが嘲るように告げる。
「終わりだ、人の子らよ。その女の魂は我がコレクションに加え、騎士、お前は我が最強のデス・ナイトとして永遠に仕えさせてやろう」
その言葉が、ジークハルトの逆鱗に触れた。
「黙れ、外道がッ!」
彼はリディアを振り返る。その灰色の瞳には、無謀な光が宿っていた。
「リディア、俺の剣に、お前の最大の火力を乗せろ」
「な……!? 正気なの!? あなたの聖なる力と私の魔法は水と油! 混ざり合えば、あなたの体が内側から弾け飛ぶわ!」
「それでも、やるしかない! 俺の聖剣は、不浄を浄化する力を持つ。だが、奴の障壁は純粋な魔力だ。ならば、その魔力ごと焼き切るだけの熱量を加えればいい! 俺の信仰心と、お前の魔法理論、どちらが上か、ここで証明してやろう!」
それは、あまりに無謀で、あまりにジークハルトらしい、愚直なまでの覚悟だった。
リディアは一瞬ためらった。だが、彼の揺るぎない瞳を見て、不敵に笑う。
「……本当に、どうしようもない脳筋ね。いいわ、乗ってあげる。もし死んだら、あの世で一生恨んでやるから!」
リディアはジークハルトの背中に手を当て、自らの魔力の全てを注ぎ込み始める。ジークハルトの聖剣が、黄金の光と深紅の炎を同時にまとい、激しく明滅した。凄まじい魔力の反発で、彼の全身の血管が浮き上がり、血が滲む。
「ぐ……うおおおおおおッ!」
苦痛を雄叫びでねじ伏せ、ジークハルトはリッチへと突貫した。
「愚かな! 自滅を選ぶか!」
リッチが、さらに強力な闇の魔法で迎え撃つ。
だが、ジークハルトの剣は、もはやただの聖剣ではなかった。
聖なる浄化の力と、万物を焼き尽くす魔女の業火。相反する二つの力が奇跡的な均衡を保ち、螺旋を描きながら、リッチの魔法障壁に突き刺さった。
――キィィィィンッ!
ガラスが砕け散るような甲高い音と共に、千年の時を誇った絶対防御が、ついに砕け散る。
「ば、馬鹿な……!?」
驚愕に目を見開くリッチの懐へ、ジークハルトは深々と踏み込んだ。
「これが、俺たちの力だ!」
がらんどうの胸骨の中心で、禍々しく輝く「魂の宝珠」。そこへ向けて、ジークハルトは渾身の力を込めて、炎と光を纏った聖剣を突き立てた。
「―――アアアアアアアアアアッッ!!」
リッチの断末魔が、遺跡全体を揺るがす。その白骨の体は、内側から聖なる光に浄化され、外側からは業火に焼かれ、塵となって崩れ落ちていった。
戦いは、終わった。
張り詰めていた糸が切れ、ジークハルトはその場に崩れ落ちる。リディアが、彼の体を必死に抱きとめた。
「ジーク! しっかりして!」
「……ああ。少し、無茶をしすぎた、か……」
血を吐きながらも、彼は満足げに笑った。
荒い息を繰り返しながら、自然と視線が絡み合う。言葉はなくとも、互いの瞳には、作戦の成功を讃え、互いの生存を喜ぶ、温かい光が灯っていた。
だが、二人はまだ知らなかった。本当の悲劇は、ここから始まるということを。
◇
戦いは、終わった。
張り詰めていた糸が切れ、ジークハルトはその場に崩れ落ちる。リディアが、彼の体を必死に抱きとめた。
「ジーク! しっかりして!」
「…ああ。少し、無茶をしすぎた、か…」
血を吐きながらも、彼は満足げに笑った。
荒い息を繰り返しながら、自然と視線が絡み合う。言葉はなくとも、互いの瞳には、作戦の成功を讃え、互いの生存を喜ぶ、温かい光が灯っていた。
◇
その夜、野営地は勝利の喧騒と、負傷者の手当てに追われる慌ただしさが入り混じっていた。
ジークハルトの天幕の中だけが、別世界のように静かだった。リディアの施した解呪と治癒魔法のおかげで、彼は奇跡的に一命を取り留めたが、消耗しきってベッドに横たわっていた。
「…また、君に助けられたな」
ジークハルトが、傍らで薬を調合していたリディアに、か細い声で言った。
「別に。あなたが無茶をしたせいで、後始末をさせられただけよ」
リディアは背を向けたまま、ぶっきらぼうに答える。だが、その耳が赤く染まっているのを、ジークハルトは見逃さなかった。
「リディア」
彼が名を呼ぶと、彼女の肩が小さく震えた。
「…君は、なぜ魔女になったんだ? 君ほどの才能があれば、他の道も…」
それは、ずっと聞きたかった問いだった。彼が邪法と断じた道を、なぜ彼女が選んだのか。
リディアは、手を止めた。しばしの沈黙の後、彼女は静かに語り始めた。
「私に、選択肢なんてなかった。生まれつき、魔力だけが人より強かったから。普通の子供のように、誰かと手をつなぐことも、笑いあうことも許されなかった。触れただけで相手を熱病に浮かされたり、感情が昂るだけで窓ガラスが割れたり…。私は、ずっと一人だった」
彼女の声は、淡々としていた。だが、その声の奥に、どれほどの孤独が凍りついているのか、ジークハルトには痛いほど伝わってきた。
「私を受け入れてくれたのが、アルカナ魔法同盟だけだったの。そこでは、私の力は『呪い』じゃなく『才能』と呼ばれた。魔法の理論を学ぶことだけが、私がこの世界と繋がる唯一の方法だった」
「…そうか」
ジークハルトは、胸を締め付けられるような思いだった。彼女の傲慢に見えた態度は、孤独という名の鎧だったのだ。自分は、彼女の表面しか見ていなかった。
「ジークハルト」
今度は、リディアが彼を見た。その紫の瞳が、不安げに揺れている。
「あなたは…あなたはもう、私のことを『魔女』だとは思わない?」
「…ああ」
ジークハルトは、はっきりと頷いた。
「君は、リディア・ノワールだ。俺の命を救ってくれた、誇り高い魔法使いだ」
その言葉は、リディアの心の奥底に、温かい光を灯した。
初めてだった。聖騎士でも、同盟の仲間でもない、一人の男が、自分を「魔女」という色眼鏡なしに、ただの「リディア」として見てくれたのは。
彼女の頬を、一筋の涙が伝った。それは、悲しみの涙ではなかった。
「ジーク…私、あなたのことが…」
好き。
その言葉が、唇からこぼれ落ちそうになった、その時。
「だが、俺たちは、共にいるべきではない」
ジークハルトの言葉が、その告白を遮った。
「え…?」
「俺は聖騎士団長代理。女神に仕え、民を守るのが俺の正義だ。君はアルカナ魔法同盟の魔女。俺たちが相容れない存在だということは、君自身が一番分かっているはずだ」
彼の声は、優しく、そして、残酷なまでに誠実だった。彼は、リディアを傷つけまいと、必死に言葉を選んでいた。だが、その言葉の一つ一つが、リディアの心に灯ったばかりの光を、無慈悲に消していく。
「俺は、君に感謝している。一人の人間として、君を好ましく思う気持ちもある。だが、俺の信仰と正義は、決して曲げることはできない。すまない」
ああ、そうか。
リディアは、悟ってしまった。
この人は、どこまでも聖騎士なのだ。私を庇い、命を救ってくれても、私を「リディア」と呼んでくれても、その根底にあるのは、決して揺らぐことのない「聖騎士の正義」。
その正義の前では、魔女である私の存在も、私のこの気持ちも、全てが「間違い」なのだ。
彼が誠実であればあるほど、彼の正義が輝けば輝くほど、私は、決して彼の隣には立てない。
「…そう。分かったわ」
リディアは、ゆっくりと立ち上がった。その顔からは、感情というものが抜け落ちていた。
「あなたの言う通りね。聖騎士様。私たちは、住む世界が違う」
彼女は、一度も振り返ることなく、天幕から出ていった。
ジークハルトは、彼女の最後の言葉に、胸騒ぎを覚えた。だが、それが二人の未来を決定的に引き裂く、絶望の始まりだとは、まだ知る由もなかった。
◇
自らの天幕に戻ったリディアは、膝から崩れ落ちた。
涙は出なかった。ただ、心臓が、冷たい手で握り潰されるような痛みが、全身を支配していた。
(拒絶された。私の愛は、彼の正義に、拒絶された)
その時、彼女の脳裏に、忌まわしい記憶が蘇る。
アルカナ魔法同盟の禁書庫で、偶然目にしてしまった、ある魔法。人の魂に干渉し、その者の「義務」や「使命感」を、術者への「愛情」に書き換えるという、究極の禁術。同盟では、その存在自体が最大の禁忌とされていた。
(あの魔法があれば…)
悪魔の囁きが、彼女の心に響く。
(彼の『正義』という名の呪いを解いてあげられる。彼を、苦しみから解放してあげられる。そうすれば、彼は、ただの男として、私だけを…)
純粋な願いが、最も冒涜的な手段と結びついた瞬間だった。
彼女の倫理観は、絶望の重さに、たやすく砕け散った。
これは、彼を救うための魔法なのだ。
これは、私たちのための、優しい嘘なのだ。
彼女は、壊れた心で、そう自分に言い聞かせた。
その夜。
リディアは、覚悟を決めた顔で、ジークハルトの天幕を再び訪れた。
彼女の手には、もう何もなかった。ただ、その瞳の奥に、昏く、妖しい光が宿っていた。
「リディア…? どうしたんだ、こんな時間に」
「ジーク…最後に、一つだけ、お願いがあるの」
彼女は、ふっ、と力なく笑った。その笑顔は、ジークハルトの知るリディアのものではなかった。
「あなたを、苦しみから解放してあげる」
リディアが、すっと指を上げる。彼女の瞳が、妖しい紫の光を放った。
「なっ…!? やめろ、リディアッ!」
ジークハルトは、咄嗟に身構えるが、遅かった。リディアの唇が、呪文の断片を紡ぎ始める。それは、あの魔導書に記されていた、精神操作魔法の詠唱だった。
ジークハルトの制止も聞かず、彼女の指先から放たれた紫色の魔力の鎖が、彼の体に絡みつく。抵抗できない。体が、意思に反して動かない。
そして、彼の意識の内側へ、冷たい何かが侵入してくるのを感じた。
(これが……精神操作……)
騎士としての誓いが、女神への信仰が、民を守るという使命感が、まるで薄紙を剥がされるように、一枚、また一枚と、引き剥がされていく感覚。その代わりに、目の前の女――リディアへの、狂おしいほどの愛情だけが、脳を焼き尽くしていく。
(ああ、リディア。そうだ、俺は、君のためだけに……)
彼の瞳から、聖騎士の光が消え、虚ろな光が宿りかけた、その瞬間。
ジークハルトの心の奥底、魂の最も深い場所で、彼が生涯をかけて捧げてきた信仰が、最後の輝きを放った。
だが、それだけではなかった。リディアへの真の愛情が、魔法による偽りの愛を、猛烈に拒絶したのだ。
女神ルミナの聖印が、彼の魂の内側から、黄金の光となって溢れ出す。
「―――ッ!!」
黄金の光は、紫の魔力の鎖を、いとも容易く焼き切った。
「きゃあっ!」
魔力の逆流を受けたリディアが、小さな悲鳴を上げて後ろへ吹き飛ぶ。彼女の瞳から妖しい光は消え、そこには、信じられないものを見たかのような、驚愕と絶望だけが浮かんでいた。
天幕の中に、息も詰まるような沈黙が落ちる。
ジークハルトは、ゆっくりと立ち上がった。その灰色の瞳には、先ほどまでの温もりも、苦悩も、もはや一片たりとも残ってはいない。ただ、氷のように冷たい、絶対的な侮蔑と、そして、信じていたものに裏切られた者だけが浮かべる、深い哀しみが宿っていた。
「……俺は、君を信じていた」
彼の声は、冬の北風のように冷え切っていた。その響きは、かつてアンデッドを浄化した聖なる光とは似ても似つかぬ、魂を凍てつかせる絶対零度の鋭さを持っていた。
リディアの世界から、音が消えた。
「君となら、どんな困難な道でも歩いていけると。二人で、新しい未来を作れると。……それなのに君は」
「ち、違う……私は、ただ、あなたと……!」
「黙れ」
ジークハルトの言葉が、リディアの弁解を刃のように切り捨てる。
彼は、床に落ちた魔導書を拾い上げると、まるで汚物でも見るかのような目で彼女を一瞥した。
「君は、俺の心を踏み躙った。俺たちの間にあったものを、全て、嘘にしたんだ」
その言葉は、リディアの鼓膜を震わせることはなかった。ただ、彼の唇の動きだけが、やけにゆっくりと、彼女の罪を、そして二人の関係の終わりを、形作っていくのが見えた。痛みはなかった。ただ、胸の内にあるはずの熱だけが、急速に失われていくのを感じた。
◇
王都アーデンヴァールで開かれた、リッチ討伐の公式報告会。その場は、異様な緊張感に包まれていた。
英雄として帰還したはずの聖騎士団長代理、ジークハルト・アスターが、壇上から、共同作戦の功労者であるはずの魔女を、糾弾し始めたからだ。
「魔女リディア・ノワールは、アルカナ魔法同盟が秘匿する禁断の邪法をもって、私の精神を支配し、聖騎士団を傀儡とせんとした! 私自身が、その邪法を受け、そして打ち破った、唯一の証人である!」
ジークハルトが掲げた燃え残りの魔導書に、居並ぶ貴族や騎士たちが息を呑む。
壇上に引き据えられたリディアは、ただ、蒼白な顔で震えていた。彼女は何も答えなかった。いや、答えられなかった。ジークハルトの言うことは、紛れもない事実だったからだ。
彼が、抵抗し、打ち破ったという一点を除いては。
「よって、聖騎士団の名において、及び、光の女神ルミナの御名において、魔女リディア・ノワールを、人の魂を弄んだ大罪人として断罪する!」
ジークハルトの厳粛な声が、ホールに響き渡る。
人々は、誘惑に打ち勝ち、己の正義を貫いたジークハルトを「真の聖騎士」「英雄の中の英雄」と讃えた。
そして、大罪人として裁かれるリディアに、侮蔑と非難の視線を浴びせた。
リディアは、全ての魔力を剥奪され、二度とケルディア王国の地を踏めぬよう、国外へ永久追放されることとなった。
連行されていく彼女は、最後に一度だけ、壇上のジークハルトを見た。
喧騒も、罵声も、何も聞こえない。まるで深い水の底にいるかのようだ。
ただ、壇上の彼の、冷たい灰色の瞳だけが、世界で唯一の色を持っていた。
その瞳が、私を射抜いた。
その瞬間、ふ、と心の中で何かが千切れ、霧散するのを感じた。ああ、これでいい。もう、何も感じない。何も、考えなくていいのだ。
彼女の瞳から最後の光がすうっと消え、まるで美しいガラス人形のように、ただ魂のない器だけが、兵士たちに引かれていった。
◇
――それから、一年。
世界は、英雄ジークハルトの功績を称え、歴史に名を刻んだ。
そして、彼の正義によって裁かれた堕ちた魔女の名は、人々の記憶から、急速に忘れ去られていった。
大陸の辺境。どの国の領土でもない、忘れられた谷間の森の奥。
雨露をしのぐだけの、小さな、粗末な小屋があった。
そこで、リディアは、ただ息をしているだけの毎日を送っていた。魔力も、誇りも、愛する人も、全てを失った彼女には、もう何も残されてはいなかった。悲しむことにも、もう疲れてしまった。
その日の夜は、ひどい嵐だった。
風が窓を叩き、木々が不気味に呻く。
どうせ、こんな場所を訪れる者など誰もいない。リディアは、一枚の毛布にくるまり、ただ嵐が過ぎ去るのを待っていた。
(ああ、こんな夜は、あの人のことを思い出してしまう……)
彼女の胸に、一年前の記憶が蘇る。ジークハルトの優しい手の温もり。彼女の名前を呼ぶ、あの低い声。そして、最後に向けられた、氷のような視線。
その時。
嵐の音に混じって、静かに、しかし確かに、小屋の扉をノックする音がした。
(……だれ?)
空耳か。あるいは、森の獣か。
だが、ノックの音は、もう一度繰り返された。明らかに、人間の手によるものだった。
リディアは、恐怖と、ほんのわずかな好奇心に駆られ、おそるおそる扉へと近づく。震える手で、かんぬきを外した。
ギィ、と音を立てて開いた扉の向こう。
そこに立っていた男の姿に、リディアは息を呑み、そして、自分の目を疑った。
豪華な聖騎士の鎧は、どこにもない。そこにあるのは、泥と雨に濡れそぼった、粗末な旅人の服だけ。だが、その顔には見覚えがあった。忘れるはずもなかった。
一年ぶりに見る彼は、少しだけ痩せ、無精髭を生やしていたが、あの灰色の瞳は変わらない。
ジークハルト・アスター。
自分を断罪し、地の底へ突き落とした男が、なぜ、ここに。
「……どうして……。私を、笑いに来たの? それとも、罪人の最期を、その目で見届けに……?」
リディアの声は、か細く震えていた。
だが、ジークハルトは、静かに首を振った。
そして、まるで、長い旅路の果てに、ようやく目的地にたどり着いた旅人のように、深く、安堵のため息をついた。
彼は、一年前の、あの冷たい表情とは似ても似つかぬ、不器用な、そして、どうしようもなく優しい笑顔を、彼女に向けた。
「待たせてしまった、リディア」
彼のその一言に、リディアの思考は、完全に停止した。
ジークハルトは、一歩、小屋の中へ足を踏み入れると、呆然と立ち尽くす彼女を、その腕の中に、力強く抱きしめた。
「俺は大馬鹿者だった」
彼の声が、耳元で震えていた。
「君を裁いた夜、俺は自分の正義が正しかったのか、一睡もできなかった。君の涙を見た瞬間、俺の心は既に決まっていたんだ」
リディアの体が、震え始める。
「聖騎士ジークハルトは、三ヶ月前、北の国境でのモンスター討伐任務中、名誉の戦死を遂げた。……少なくとも、公式記録の上ではな」
彼の声が、さらに囁く。
「俺は、俺の務めを果たした。法を犯した魔女を、聖騎士として裁いた。……そして、全てを捨てて、君を探しに来た。俺の愛した、たった一人の女を」
「毎日、君の名前を呟きながら歩いた。君の光を頼りに、この場所を見つけた」
リディアの瞳から、一年間、枯れ果てていたはずの涙が、熱い奔流となって溢れ出した。
彼は、共犯者になることを選ばなかった。
彼は、聖騎士としての正義を、最後まで貫いた。
そして、その全てを完璧にやり遂げた後、たった一人で、国も、地位も、名誉も、信仰さえも、全てを投げ捨てて、自分を迎えに来てくれたのだ。
それは、どんな禁断の魔法よりも強力で、どんな聖なる奇跡よりも尊い、愛の証明だった。
世界で最も高潔な騎士は、世界で最も大きな嘘をつき、今、ここにいる。
「もう二度と、あなたに嘘はつかない。魔法も使わない。ただ、このままの私を愛してくれるなら……」
リディアの声は、涙で掠れていた。
「世界に嘘をついても、君にだけは本当を言おう」
ジークハルトは、彼女の髪に顔を埋めた。
「愛している、リディア。君なしでは生きていけない」
リディアは、彼の胸に顔を埋め、子供のように泣きじゃくった。
嵐の夜の、忘れられた森の小屋の中。
世界から見捨てられた二人の、本当の物語が、今、静かに始まろうとしていた。
――叶わぬ恋などない