この手を、離さなければそれでいい
「リゼリア様、お戻りの際に、王都西門付近で、揺れが観測されたとの報せがありました」
エリスがもたらした報告は、小さなものではあったけれど、不穏な響きを含んでいた。
「揺れって、地震のような?」
「正確には魔力の波動のゆらぎです。自然現象というよりは……何かの兆候」
「……召喚魔法か?」
エリスは小さく頷いた。
「はい。ですが、今回観測されたものは、通常の召喚とは位相が異なります。逆位相です」
「……逆、ってことは……?」
「この世界から、何かが外側に引きずり出されようとしている……あるいは、この世界に、存在してはいけないものが干渉している可能性があります」
エリスの言葉に、リゼリアがふと視線を落とす。
その手が、さりげなく胸元に添えられた。
「もしかして……私に関係しているのかもしれません」
「リゼ……」
「私の記憶が戻り始めたのと、時期が重なっている。偶然とは思えないんです。あの契約のとき、確かに何かを封じた感覚があった」
「何かって……まさか、自分自身じゃないよな?」
リゼリアは静かに微笑んだ。
けれどその微笑には、かすかな痛みが滲んでいた。
「分からない。でも――」
彼女の視線が、まっすぐ俺を捉える。
「もしこの身に、危険な何かが宿っていたとしても……私はもう、逃げたくない。蒼真様と出会って、記憶を取り戻し始めた今、私は私として、ここにいたいんです」
彼女の言葉は、まっすぐだった。
その強さに、俺の胸は締めつけられた。
「……ああ。だったら、俺が一緒に向き合うよ。お前がどんな存在でも、どんな過去があっても、もう一度選ぶ。お前を」
「……うれしい。ほんとうに」
リゼリアは、俺の手をそっと握った。
そのぬくもりは、前よりもずっと強く、確かにそこにあった。
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数日後、王都の空がにわかに曇り、魔力の空気が濃くなる。
揺れは再び起こり、ついにその中心が特定された。
――王都地下、封印図書館の最深部。
「地下の最奥……?」
「そこには、契約召喚に関する最初期の記録が保管されています。そして、リゼリア様が召喚された夜、偶然にもその封印が一部緩んでいたのです」
エリスの報告は淡々としていたが、その内容は重かった。
「……つまり、リゼリアは本来、封印されていた存在ってことか」
「彼女自身というより、彼女の内にある力が、です。記憶の一部がそこに吸い込まれ、代わりに異界の力が流れ込んだ可能性があります」
「俺たちの契約が……きっかけだったんだな」
「ですが、同時に……ふたりの想いがあったからこそ、彼女は、ただの魔力の器にならずに済んだ。あなたが彼女を、名前で呼び、彼女が恋をしたことで、魂が守られたのです」
恋が、彼女を彼女のままでいさせた。
それは――言葉では表せない、強い奇跡だった。
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その夜。リゼリアは再び温室にいた。
夜風に揺れる白花の前で、彼女は立ち尽くしていた。
「……やっぱり、ここが好きです」
彼女は振り向かずに言った。
だが、その背に宿る気配は、確かに揺れていた。
「私は、かつて器だったかもしれない。記憶も、存在さえも造られたものだったかもしれない。でも、いま――私は、ここにいる。蒼真様が呼んでくれた、名前のある私として」
「リゼリア……」
「それが偽物でも幻でもいい。私はあなたを好きになった。その気持ちは本物です」
俺は彼女の背に近づき、その肩に手を置いた。
「偽物じゃない。お前が泣いて、笑って、俺と一緒に過ごした時間がある。それが、今のお前だ」
リゼリアが振り向き、ゆっくりと抱きしめてきた。
「……ありがとう。私は、あなたがいるから怖くない」
その温もりが、何よりも真実だった。
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そして、夜明け。
地下封印図書館への調査が、正式に始まる。
俺とリゼリアは、共にその扉の前に立っていた。
「ここから先に進めば……すべてが分かるかもしれません。でも、何かを失うかもしれない」
「それでも進むよ。お前となら、何が来ても怖くない」
リゼリアは一瞬だけ目を伏せ、そして小さく笑った。
「あなたと、もう一度恋をして……それが私の真実になったのですから」
手を繋ぎ、ふたりはゆっくりと扉の奥へと進んでいく。
その先に待つのは――過去か、未来か。
けれど、たったひとつだけ確かなことがあった。
――この手を、離さなければそれでいい。