触れた手のひらに、昔と同じ温度を感じた
「……『しょうま』って、どういう意味なんですか?」
そう問いかけたリゼリアの声は、どこか怖がっているようにも、期待しているようにも聞こえた。
それは、散歩の帰り道。王宮の裏庭で、彼女とベンチに座っていたときのことだった。
「……俺の名前だよ。藤堂蒼真。君が、昨日……いや、もっと前に呼んでくれた気がしてる」
「……不思議です。その響きを聞くと、心の奥が少しあたたかくなる気がして……」
リゼリアは、自分の胸にそっと手を当てた。
まるでそこに答えが眠っていると信じるように。
「名前って、不思議ですね。記憶より先に、感情がついてくるなんて」
「……本当にな」
俺はふと、彼女の手をそっと取った。
指先は冷たかったけれど、その温もりを伝えるように、しっかりと握り返した。
リゼリアは一瞬、驚いたように目を見開いたが――次の瞬間には、ゆっくりとまぶたを閉じていた。
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その日の夜。眠れずにいた俺は、ふたたび中庭に出ていた。
夜風が心地よく、空には満天の星が広がっていた。
「……また眠れないのですか?」
声に振り返ると、そこにはリゼリアがいた。
「君こそ」
「……眠っても、夢に見てしまうのです。誰かの声、何かの約束、そして……」
彼女はそっと目を伏せた。
「誰かを幸せにすると誓ったあの日のことを。けれど、顔も名前も思い出せない」
「それって……」
リゼリアが小さくうなずく。
「はい。きっと、私が契約の前に抱いていた、最後の想い。魂に刻まれた大切な記憶」
俺は息をのんだ。
それはつまり――
「……俺、だったのか?」
「分かりません。けれど……あなたの瞳を見るたび、手を握るたび、心が騒ぎます。それは怖いほどに――優しい感情で、満たされていくのです」
リゼリアの声は震えていた。
けれど、彼女は逃げなかった。真正面から俺を見ていた。
「蒼真様。私……あなたを知っていた気がするのではありません。あなたを愛していた気がするのです」
言葉は夜の風に乗り、まっすぐ俺の胸に届いた。
「……ありがとう。たとえ全部忘れていても……その気持ちがあるなら、もう十分だ」
俺は彼女の手を両手で包み込んだ。
その体温が、記憶よりも確かな絆に感じられて、目の奥が熱くなった。
「俺も、君を好きだった気がする。ずっと、ずっと前から」
リゼリアは、そっと微笑んだ。
それは涙を浮かべた、壊れそうなくらい繊細で――けれど、確かに恋する人の表情だった。
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数日後、リゼリアの記憶にさらなる変化が訪れた。
王都の図書館を訪れた際、一冊の古びた魔術書に触れた瞬間――彼女の手が止まり、青ざめた。
「この本……知っている……この文字も……っ」
彼女はページをめくり、震える指先である一節をなぞった。
それは――召喚獣と契約者が結ぶ、永遠の誓いについて記されたページだった。
《この契約は、ただ一度。魂が互いを選んだときにのみ成り立つ。過去を忘れても、想いは魂に残る。真に結ばれし二者は、再び出会い、再び愛す》
リゼリアは、震える声で呟いた。
「……蒼真様。もしかして、私は――」
そのとき、突如として彼女の意識が遠のいた。
気を失う寸前、彼女の瞳に――涙と、確かな確信が宿っていた。
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彼女が目を覚ましたのは、城の医務室だった。
ゆっくりとまぶたを開いた彼女は、俺の顔を見るなり、声を震わせた。
「……しょうま」
その一言に、俺の胸が締めつけられた。
「思い出したのか……?」
「少しだけ。でも確かに、あなたの名前を……呼んでいた私がいた。温室で花を見ながら、『しょうま、いつか花が咲いたら、また一緒に見に来てくれる?』って」
彼女の瞳から、ぽろりと涙がこぼれた。
「それが、私の一番大切な記憶です。失ってしまっても、心に残っていた、唯一の想いでした」
俺はそっと彼女の手を握った。
「また行こう温室に。今度は、全部取り戻すために」
彼女はうなずいた。
「……はい。今度はじゃなくて、もう一度ですわね」
その言葉に、俺は思わず笑った。
そうだ、これははじまりじゃない。
続きなんだ。かつて結ばれたふたりの――忘れられた物語の。
そして、リゼリアの記憶の扉は、確かにいま、ゆっくりと開き始めている――