忘れていたはずの温もりに、心がほどける
静かな朝だった。
目を覚ました瞬間、俺は自分の胸に手を当てたまま、しばらく動けずにいた。昨夜のリゼリアの声が、まだ心の奥で響いている。
「……しょうま」
名前を呼ぶ、あのかすかな声。優しくて、懐かしくて、少しだけ泣きたくなるような響き。
どうしてだろう――あれは、初めて聞いたはずの声なのに。
そのとき、扉の向こうからノック音が聞こえた。
「おはようございます、蒼真様。失礼いたします」
扉を開けたリゼリアは、いつも通りの端整な顔で立っていた。
けれど、その瞳の奥が、どこか昨日よりも柔らかく見える。
「おはよう、リゼリア」
俺が笑いかけると、彼女は小さくうなずいた。
「本日は、お時間が空いております。もしよろしければ……少し、散歩でも」
その誘いは、どこか不自然に見えるほど慎重で、でもどこか……勇気のいる提案のようでもあった。
「うん。行こうか。今日は君と、ゆっくり話したい気分だよ」
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連れてこられたのは、王宮の南に広がる温室庭園だった。
春の花々が咲き誇り、光の差し込む天井のガラスには、朝の陽光が降り注いでいる。
「こんな場所、あったんだな」
「この庭園は、王家でも限られた者しか入れません。……でも、私はよくここに来ていたのです」
リゼリアは、咲き始めた白い花の前で立ち止まった。
その花は、小さく可憐で、まるで風に溶けるように咲いている。
「この花、見たことある気がする」
「ルミナフロアです。アルフェンの言葉で、記憶の花と呼ばれています。風に揺れるたび、想い出が香りとなって蘇ると」
記憶の花。
それは彼女の心にどこか響いている言葉だったのかもしれない。
「……なぜか、この花の前に立つと、胸がぎゅっとなるのです。思い出せないけれど、ここで誰かと笑っていたような……そんな気がして」
リゼリアの声は、空気よりも静かだった。
「それって……やっぱり、前の記憶?」
「分かりません。でも、あなたと出会ってから、少しずつ変わったのです。日々の景色が、心に残るようになってきて……。蒼真様と話すと、鼓動が速くなる。そんな感情すら、最初は怖かった」
「今は……?」
彼女は少しだけうつむいて、小さく笑った。
「少しだけ、怖くなくなりました」
――そう言ったリゼリアが、ひどく愛おしかった。
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昼過ぎ、温室の一角で休んでいたときだった。
風がそよぎ、空気の中に花の香りが広がったそのとき――
「……っ!」
突然、リゼリアが頭を押さえて膝をついた。
「リゼリア!? 大丈夫か!」
「頭が……っ。声が……聞こえる……あの日と、同じ……っ!」
顔をしかめ、苦しげに震えるリゼリアを、俺は咄嗟に抱き留めた。
腕の中の彼女は、何かを振り払うように身を縮めていた。
「誰かが……私の名を……呼んで……でも、顔が、見えない……!」
「無理しなくていい! ゆっくりでいいから……!」
その瞬間、彼女の目から、ぽろりと涙が落ちた。
「……ごめんなさい……わたし……こわい……」
震える声。泣きじゃくる声。リゼリアは、これまでの彼女からは想像できないほど、無防備だった。
その姿に、俺の胸は張り裂けそうだった。
「……大丈夫。俺がいる。ずっとそばにいる。君がどれだけ忘れていても、どれだけ思い出せなくても……俺は、君を忘れない」
強く、しっかりと抱き締めた。彼女が崩れてしまわないように、何かから守るように。
しばらくして、リゼリアの震えが少しずつ収まっていった。
「……すみません。情けないところを、見せてしまいました」
「情けなくなんかない。泣いても、頼ってもいい。君が守ることだけに縛られなくていいんだよ」
俺の言葉に、リゼリアは少しだけ微笑んだ。
その笑顔は、儚くも温かかった。
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夕暮れ時、王宮の中庭で、再びエリスと顔を合わせた。
彼女は俺を見るなり、静かに問いかけてきた。
「……リゼリア、泣きましたか?」
「……ああ。記憶の断片が蘇ったみたいで、すごく苦しそうだった」
「でも、それは大きな一歩ですわ。彼女が、泣けるということは、心が感情を受け止める準備ができたということ」
エリスは穏やかにそう言って、そっと微笑んだ。
「リゼリアにとって、あなたは……記憶の扉を開ける鍵なのかもしれません」
――鍵。
もしかしたら、俺と彼女は、本当に何かを約束していたのかもしれない。
忘れられても、なくならないもの。想い。
そのとき、エリスがふと顔を近づけてきた。
「でも、どうか覚えておいてください。記憶が戻れば、リゼリアは、あなたが彼女にとって何だったのかを知るでしょう。そしてその事実が、今の関係を変えてしまうかもしれないことも」
「それでもいい。……彼女が本当の自分を取り戻せるなら」
俺がそう答えると、エリスは静かにうなずいた。
「勇者様。あなたはやはり、あの頃と変わっていないのですね」
「え?」
だが、その言葉の意味を聞く前に、彼女はそっと背を向けて去っていった。
残された俺の胸に残ったのは――
ひとつの確信だった。
リゼリアの記憶の中に、確かに俺がいる。
彼女を笑わせ、彼女と手を繋ぎ、彼女を――愛していた、誰かとして。
「リゼリア……」
君の涙は、忘れていたはずの未来を、少しずつ照らし始めている――