恋心は、名前のないまま揺れている
王宮の応接間。磨かれた大理石の床と、シャンデリアの光がまばゆく反射する空間の中央で、少女は優雅に頭を下げた。
「改めてご挨拶を。私はエリス・アルフェン。アルフェン王国の第一王女ですわ、蒼真様」
「え、あ、どうも……藤堂蒼真です」
ぎこちなく頭を下げながら、俺は彼女の姿に目を奪われていた。
金色の長い髪に、吸い込まれそうな碧眼。白百合のような気高さと、どこか掴みどころのない微笑。
まさに、王女という称号がそのまま人の形を取ったような存在だった。
「ご挨拶が遅くなってしまってごめんなさい。勇者様が召喚されたと聞いて、ずっとお会いしたかったのです」
エリスは柔らかく微笑みながら、俺の隣の席へと腰を下ろした。その動作すら絵になるって、どれだけ完璧な人なんだ。
「お疲れではありませんか? 異世界から来られたばかりで、慣れないことも多いでしょう」
「……正直、まだちょっと戸惑ってます。昨日の市の賑わいには驚きましたけど、楽しかったです」
「ふふ、リゼリアが案内したのでしょう?」
名前を聞いた瞬間、心が少しだけ跳ねた。
「ええ、彼女がずっと案内してくれてました」
「彼女は真面目な子ですから。でも……ときどき、自分の心を隠しすぎるところがあるのです」
エリスの目が、窓の向こうを見つめるように細められた。どこか遠い記憶を辿るような、切ない表情だった。
「……リゼリアの過去について、何かご存じなんですか?」
「ええ、少しだけ。リゼリアは……一度、全ての記憶を失ったのです。魂の守護を司る契約の儀により、かつての彼女の人生は、白紙になった」
――記憶を失った。
その言葉が、まるで刃のように胸に突き刺さる。
「でも不思議なことに、彼女は、想いだけは忘れていなかった。理由もなく泣いたり、知らないはずの名前を呟いたり……私にはそれが、いつも不憫でなりませんでした」
知らないはずの名前――それって、もしかして……
「エリス様。それって……俺のこと?」
「さあ、それは彼女にしか分かりません。でも、もしそうなら――とても素敵なことだと思いませんか?」
エリスの瞳は微笑んでいたが、どこか悲しげでもあった。
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夜の回廊を歩くリゼリアの背中を、俺は思わず追いかけていた。
「リゼリア!」
足を止めた彼女が、静かに振り返る。月明かりが彼女の髪に銀の光を宿していた。
「どうかされましたか?」
「……少し話せる?」
「はい。もちろんです」
並んで歩くと、彼女はまるで自分の足音すら消すように静かだった。その気配ごと溶けてしまいそうで、俺は言葉を選ぶ。
「さっき、王女様から……君の記憶のこと聞いた」
「……そうですか」
彼女の声は、どこか冷たい響きを含んでいた。だが、それは俺に向けられたものではない。ただ、自分を閉ざすための鎧のようだった。
「リゼリア。……俺が言うのも変だけど、無理しないでほしい」
「無理などしていません。私はあなたを守る存在。それが、この身の意味ですから」
「でも、それだけじゃないだろ? 君にも、想いがあって、気持ちがあって……」
ふと、リゼリアの足が止まった。月明かりの下で、その横顔がひどく寂しそうに揺れていた。
「……思い出せないのです。名前も、風景も、誰かを好きだった記憶も。けれど――」
リゼリアが、ゆっくりとこちらを見つめた。
「あなたと一緒にいると、胸が痛くなるのです。なぜかは分かりません。でも、初めて感じたのではない気がして……怖いのです」
「……リゼリア」
言葉では伝えきれない想いが胸を満たしていく。彼女に触れたくて、でも触れてはいけないような、そんなもどかしさ。
「君は俺を召喚者って呼ぶけど……本当は、もっと他の名前で呼んでた気がするんだ」
「……例えば?」
「わからない。でも、蒼真って呼び方が……すごく、懐かしい」
その瞬間、リゼリアの瞳がわずかに揺れた。
「……しょうま」
「え?」
「……昔、誰かがそう呼んでいた気がしました。ずっと昔に……大切な人が」
リゼリアの声は、風に溶けるほど小さかった。
でも、確かに聞こえた。俺の名前を呼ぶ彼女の、優しい声が。
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その夜、眠れずにいた俺は、ふと窓の外に目を向けた。
月明かりの下、リゼリアが中庭でひとり立っていた。
――あの日の、夜と同じだ。
いつか見た景色。誰かを想いながら、名前を呼べなかった夜。
でも今は違う。
「……リゼリア。もう、君をひとりにしない」
胸の中に、静かに火が灯った。
彼女の記憶が戻るその日まで、俺は側にいよう。
たとえ、名前を呼んでも届かなくても――それでも、想いはきっと届くはずだから。