この距離が、近すぎて遠い
「――っ、痛っ……!」
額をぶつけた先が、硬い何かだった。いや、正確には誰かだった。
「申し訳ありません、蒼真様!」
慌てた声が響く。見上げると、銀色の髪がさらりと揺れて、琥珀の瞳が真っ直ぐ俺を見ていた。
「リ、リゼリア……? なんで……」
「お呼びに上がる途中、ちょうど角で……すみません、私の不注意です」
ぴしりと背筋を伸ばし、申し訳なさそうに頭を下げるリゼリア。
いや、完全に俺の方も前を見てなかったし、むしろ体当たりしにいったようなもんだ。
「いやいや、俺こそごめん。こっちこそ前見てなかった」
互いに顔を見合わせ、なんとなく気まずい空気が流れる。だがその一瞬、俺はリゼリアの表情が、かすかに緩んだように見えた。
「……それより、用って?」
「あっ、はい。今日は陛下の命により、王都の西門までご同行いただきたく……」
西門? なんでそんなところへ?
「異世界から来られた蒼真様に、アルフェンの文化を知っていただきたいとのことです」
なるほど、つまり王の観光案内ってわけか。
「それでリゼリアも?」
「当然です。あなたの召喚獣として、常に傍におりますから」
まっすぐに言われて、思わず視線を逸らす。冷静な言い方なのに、どうしてこんなにドキッとするんだろうか。
====
王都の西門を抜けると、そこには市場が広がっていた。色とりどりの布や香辛料、見たこともない果物が並び、賑わいはまるで祭りのようだ。
「うわ……すげぇ……」
「ここは風の市と呼ばれており、四日ごとに開かれる特別な市です。交易商たちが王国中から集まるのですよ」
リゼリアの説明を聞きながら、俺は露店を眺めていた。見た目は異世界だが、どこか懐かしい。匂い、空気、人の声――俺がいた世界の夏祭りに、少し似ている。
「蒼真様、あれは……」
ふと、リゼリアが指差した先には、屋台で売られている串焼きがあった。肉が香ばしく焼けていて、腹が鳴りそうになる。
「うまそう……。買ってくるよ」
「お待ちください。召喚者であるあなたに、私が奉仕するのは当然のことです」
そう言ってリゼリアは、屋台に近づき、金貨を差し出して串焼きを二本受け取って戻ってきた。
「はい、蒼真様。どうぞ」
「ありがとな。って、リゼリアも食べるんだろ?」
「私は……」
「ほら、そういうのも文化体験ってことで」
言いながら、片方の串を手渡すと、リゼリアは戸惑いながらもそれを受け取った。
「……いただきます」
一口食べた瞬間、彼女の目がふわっと丸くなった。
「……おいしい……」
その素直な反応に、思わず笑みがこぼれる。硬質な仮面の下に、こんな柔らかい表情が隠れていたんだ。
====
市を歩き回った後、少し高台の丘に立ち寄った。そこからは、王都の全景が一望できた。風が優しく吹いて、リゼリアの髪がさらさらと揺れる。
「……今日はありがとう。なんか、やっと、ここにいる実感がわいたかも」
「いえ。むしろ……私の方こそ楽しかったのです」
リゼリアは、少しだけ視線を逸らした。
「いつもは、守護獣として、任務として……ただ命じられるまま、あなたを守っていました。でも今日は、少しだけ――違いました」
「違うって?」
「あなたの隣にいることが、ただ……嬉しいと感じてしまったのです」
リゼリアの声は風に溶けて消えそうだったが、確かに届いていた。
心臓が、また早鐘のように鳴る。
「俺も……」
言いかけて、喉が詰まる。何を言おうとしてた? 俺も嬉しいか? 俺も君といるとドキドキするか?
リゼリアが、そっとこちらを見つめた。
「蒼真様。あなたは――どうして私の名前を聞いた瞬間、懐かしいと感じたのですか?」
その問いに、言葉が詰まる。
わからない。でも確かに、最初に彼女の名を聞いたとき、胸が締めつけられた。名前を呼ぶたび、何かがこみ上げてくる。
「……多分、昔どこかで出会ってたんだと思う」
「けれど、私はあなたを覚えていない」
「でも、心が覚えてる気がするんだ。たとえばさ……初めて会ったとき、お互い知らないはずなのに、すぐに名前が馴染んだ。リゼリア、って呼ぶのが自然だったんだよ」
リゼリアは、目を見開いたまま沈黙した。
その表情が、静かに緩む。
「……ふふ。変ですね」
「何が?」
「私も、あなたを蒼真様と呼ぶことに、最初から違和感がなかったのです」
その瞬間、何かが確かにつながった気がした。
言葉ではない。記憶でもない。けれど、心のどこか深いところで、俺たちはすでに知っていた。
――再会だということを。
====
夜。王宮に戻った後も、俺の頭はリゼリアのことばかりだった。
距離は確実に近づいている。でも、まだ彼女の心の奥には届いていない気がする。
もしかして、あの記憶を失う前の彼女を、俺は――
そのとき、不意に扉がノックされた。
「失礼します。蒼真様、今夜はご挨拶だけでも……」
現れたのは、金髪碧眼の少女。気品に満ちた微笑と、堂々とした佇まい。
「初めまして。私はエリス・アルフェン。この国の王女です」
その瞬間、何かが静かに、動き出した気がした――