名前のない彼女
第一章:はじまりは、知らない名前から
中学2年の春。
新学期、空いた席にひとりの転校生がやってきた。
「……今日から、よろしくお願いします」
少しおどおどしていて、声が小さくて、けれど不思議と目を引く子だった。
「名前、言ってなかったけど……あれ? 言ってた?」
教室がざわつく中、僕は不思議なことに気づいた。
先生も、クラスメイトも、誰も彼女の名前を呼ばなかった。
出席番号にも、彼女の名前はなかった。
「ねえ、君の名前って――」
「ナイショ」
彼女はそう言って、笑った。
その笑顔が、ちょっとだけズルかった。
第二章:名前がない彼女と、隣の席
彼女は僕の隣の席だった。
ノートをよく忘れるくせに、僕の分のプリントには名前を書いてくれる。
「代わりに書いといたよ、君の名前」
「ありがとう。……でも、やっぱり君の名前は?」
「ナイショって言ったじゃん。まだ秘密なの」
僕たちは次第に、昼休みを一緒に過ごすようになり、
放課後、校門で待ち合わせるようになった。
名前はわからないけれど、
彼女の声、表情、歩き方、指先の癖――
全部が僕の中で、確かに“彼女だけのもの”になっていった。
第三章:遠ざかる春と、秘密
冬が来て、卒業が近づいたある日。
「ねえ、来年もこの学校にいるよね?」
僕が聞くと、彼女は小さく首を振った。
「たぶん、いないよ」
「転校……?」
彼女は何も答えず、空を見上げていた。
少しだけ泣きそうな顔で。
その日、彼女は初めて僕にプリントを渡してきた。
“きみのとなりのせきにいられて、よかった。”
“でも、ごめんね。名前は、やっぱり言えない。”
「……なんで、そんなに隠すの?」
そう聞いても、彼女は笑って、「秘密だよ」って言うだけだった。
最終章:名前のないまま、好きになった
卒業式の日。
彼女は教室にいなかった。
呼び出しても、探しても、見つからなかった。
式が終わっても、名前が呼ばれることはなかった。
だけど、最後の帰り道。
僕は校門の近くで、彼女を見つけた。
「……ずっと、名前を教えてくれなかったよね」
「うん。でもね、それは――」
彼女は胸から、古びた学生証を取り出した。
そこにはこう書いてあった。
氏名:春海 心
状態:入院中(精神ケア特別制度)
「私、実は“この学校の生徒じゃない”の。
通えるのは“午前中だけ”。病院と連携して、勉強しに来てたの」
「……じゃあ、名簿にも、名前がなかったのは」
「うん。本当は、ここにいちゃいけなかったんだ。
でも、君と出会えてよかった」
涙がこぼれるのを、彼女は隠さなかった。
「名前を知らなくても、私は君のことが好きだったよ」
僕も言葉にならなかった。
「今度は、本当に“生徒”としてここに戻ってくる。
そのときは――となりの席、また空けててくれる?」
僕はうなずいた。
泣きながら、笑っていた。
エピローグ:名前を呼ぶ日まで
次の春。
教室の扉が開いたとき、新しい転入生が入ってきた。
「今日からお世話になります。春海心です」
僕はその名前を、ずっと待っていた。
ずっと、呼びたかった名前だった。
彼女は僕の席の隣に座ると、にっこり笑った。
「今度は、ちゃんと“名前”から始めるね」
たとえ何も知らないところから始まっても――
心だけは、ちゃんと繋がっていたから。