22 礼儀作法の時間①
ウィクト家の養子となってから、一日が経った。
私は自分の部屋で、月明かりに照らされながらベッドの上でぼんやりと天井を見つめていた。
未だに、ジュリアンが私のことを嫌いだった事実が頭から離れない。
今ここにおチビちゃんがいたら、私の今の状態を気にして可愛い顔で覗き込んでくれるだろうけど、そのおチビちゃんはいない。
まあ、おチビちゃんは一応オスですし、同じ性別のジュリアンと一緒にいた方が何かといいでしょうね。
自分に言い聞かせるように呟きながら、枕に顔を埋めた。
孤児院にいた頃は、誰かが傍にいるだけで安心できたけれど、ここではなんだか少し違う気がする。
広すぎるこの部屋の静けさが、逆に心をざわつかせる。
前の世界とあまり変わらないわね。
「こんなことで悩んでたら、明日からやっていけませんね」
気を取り直して、自分の頬を叩く。
ライリーはきっと今頃夢の中で大暴れしているだろうし、ジュリアンも疲れてぐっすり眠っているはず。
私だけがこんなことで立ち止まっているわけにはいかない。
「よし……明日からは頑張らないと」
そう呟き、目を閉じる。
月明かりが静かに部屋を包み込む中、私はようやく眠りについた。
●●●
目が覚め、メイドさんが私の身だしなみを整えてくれていた。
私の髪を整えてくれているのは、昨日、物凄く褒めてくれたあのメイドさんだった。
そういえば、この人の名前を私は知らない。
こういうのって、聞いてもいいのかしら。
まあ、名前を聞くくらいだし大丈夫でしょう。
「……あの、お名前を伺ってもいいですか?」
私が恐る恐る尋ねると、メイドさんは驚いたように目を見開いた後、にこりと微笑んだ。
「私の名前はミリーと申します!」
「……素敵な名前ですね」
「ありがとうございます! ライラ様にそう言っていただけるなんて光栄です」
なんだか、こちらが恥ずかしくなりますね。
褒めたつもりはなかったのですが、どうやら喜んでもらえたようです。
いや、褒めたのかしら? どっちなのか分からない。
ミリーさんは、嬉しそうに私の髪を整えてくれた。
「さあ、できました! 今日も大変お美しいです、ライラ様」
ミリーさんが満足げに微笑みながら言うものだから、私は少し気恥ずかしくなってしまう。
ここに来てから、こんなに褒められるなんて慣れていないから困ります。
「その……ありがとうございます」
「はい! それでは、そろそろ朝食を取りに食堂へ向かいましょう!」
「分かりました。案内をお願いします」
「かしこまりました!」
ミリーさんが先導してくれる中、私は広い廊下を歩く。
朝の柔らかな陽光が窓から差し込み、大きな屋敷の静けさに不思議と心が落ち着いた。
ライリーは今頃何をしているのかしら。
もう食堂にいたりして。
それに既に、礼儀作法は始まっているのでしょうね。
「ライラ様は歩き方も、とてもお上品ですね」
ミリーさんが前で満面の笑みを浮かべながら褒めてくれる。
いやいや、それはただ普通に歩いているだけであって、お上品とかそういう意識は全くしていないんですけど。
「そんなことないです。普段からこんな歩きですので」
「いえいえ! とてと自然で美しい歩き方ですよ! まるで、礼儀作法のお手本みたいです!」
「……ありがとうございます」
凄い、この人物凄く褒めてくれる……。
もう何を言っても、褒めまくるでしょうし、否定するのも疲れるので、素直に受け止めておきましょう。
そんなことを考えながら、食堂の扉の前に到着した。
扉の向こうからは、ライリーの元気な声が聞こえてくる。
「これが貴族の朝食か! 凄いな!」
やっぱりもう来てましたね。
扉を開けると、目の前には豪華な朝食がずらりと並んでいた。
黄金色のパンや、新鮮な野菜が盛られたサラダ、大きな銀のプレートには香ばしい肉料理まで。
ライリーは椅子に座りながら目を輝かせて料理を見つめていた。
孤児院にいた時は、このような食べ物はなかったですもんね。
すると、自然とジュリアンと目が合う。
とても気まずいですね。
ジュリアンは一瞬だけ目を逸らし、すぐに視線をテーブルの上に落とした。
「ライラ! 来たのか! 私の隣に座れ」
ライリーが満面の笑みで手を振りながら、私に隣の席を示してくる。
「はい」
気まずい空気を引きずりたくなかった私は、素直にライリーの隣に腰を下ろした。
ジュリアンは私の向かい側に座っているけれど、相変わらず視線を合わせようとはしない。
一瞬だけ横目で私を見た気がしたけれど、それもすぐに逸らされてしまった。
仕方ない。
「さてと、お前たち揃ったな」
すると、上座に座る当主が嬉しそうに声を発した。
何故、そんなに嬉しそうなのかしら。
あ、隣に立っているのって昨日の御者の人じゃないですか。
馬車を操るだけじゃなく、こんなところにも現れるなんて。
どういう立ち位置なのかしら。
しかも、満面の笑みでこちらを見ているし。
ど、どうしましょう、ずっと見てくるから気まずいわ。
ジュリアンといい、あの御者といい、なんなんですか。
顔を上げられない……。
「今日から貴族としての生活を本格的に始めるわけだが、まずは礼儀作法をしっかりと学んでもらう。特に食事の作法は基本中の基本だ」
私が俯いていると、当主の威厳ある声が響いた。
「食事の作法って、具体的に何をやるんですか?」
私の隣にいるライリーが質問をした。
うん、そう思いますよね。
私も、幼い頃は……って今は幼くなってしまったけれど、作法を覚えるのに苦戦したものです。
母は自分の家から縁を切ったくせに、私だけに礼儀作法を叩き込んだんですよね。
まあ、知っておいて損はありませんけど。
「簡単なことだ。ナイフやフォークの使い方、姿勢、食べる順番……全てを完璧にする。それが貴族だ」
当主がそう言いながら、テーブルの上のナイフとフォークを軽く持ち上げて見せた。
当主自ら教えてくれるなんて、相当暇なんですね。
ナンシーさんが教えてくれると思っていたのに。
「ちょっと待って、それを全部やるのか?」
ライリーが驚きの声を上げると、ジュリアンが冷たい視線を向ける。
「そんなことで驚いてどうするの? これくらい常識だろ」
「常識って……そんなの孤児院にいた私たちが知ってるわけないだろう!」
「だから学ぶんじゃないか。黙って聞いていればいい」
二人のやり取りを聞きながら、私は静かにスープのスプーンを手に取る。
とりあえず、私は自然体で過ごそう。
「ライラは心得ているようだな」
当主が私に目を向けて言う。
あ、また御者の人と目が合った。
もう、そんなに見ないでほしいです。
「ラ、ライラ……。どうしてそんなに平然とやれるんだ? 私は、全然できないのだが」
ライリーがスプーンを握りしめ、困った顔で私に尋ねてくる。
どうやらスープのすくい方すらおぼつかないようですね。
「そんなに力を入れる必要はありませんよ。普通に手を添えて、優しくすくうだけです」
「優しく、か……」
ライリーは、枝を振る癖がついてしまったようですね。
孤児院の時も、スープを飲む時はスプーンなんて使ってなかったもの。
頭は良いとルーカスに褒められていたのに、こういうことに関しては苦手なんですよね、ライリーは。
すると、当主は不思議そうに口を開いた。
「ライラはどこかで礼儀作法を教えてもらったのか?」
当主の問いかけに、私はスプーンを置いて少し考え込む。
どう答えたものかしら。
「……特に教えてもらっていません」
当主はきっと嘘だと思ってるでしょうけど、母から教えてもらったのは随分昔のことだもの。
一応、嘘ではありません。
母が生きていた頃、私はしっかりとした教育を受けさせられていた。
ただ、それが好きだったかはそうでもありませんが。
「ほう……。だとしたら、ライラは本当に感覚だけで身に付けたということか」
当主は私の答えに感心したように頷いた。
でも、本当は母から教わっただけなのだけど、それを言う気にはなれない。
そもそも、あの世界にもこの世界にもいないのだから、言ったところで意味がないです。
私はもう、あの世界に捨てられたようなものだから。
世界に捨てられるだなんて、なんだかゾクゾクします。
「それなら、エドワードと同じだな」
当主は隣に立つあの御者へ視線を向けると、エドワードと呼ばれた御者は満面の笑みを浮かべた。
「お嬢様と比べたら僕はまだまだ未熟者ですよ」
「謙遜をするな、俺は本当のことを言っているんだからな。ライラとお前はとても似ている」
なんですか、これは。
ジュリアンがエドワードと呼ばれたあの人を物凄く睨んでいるけれど、当の本人は気にしてないのか、私を見てはまたもや満面の笑みを浮かべてますし。
ライリーなんて、スプーンやフォークと戦ってますよ。
「公爵様、少し聞いてもいいですか」
ジュリアンは立ち上がって、指をさした。
エドワードと呼ばれたあの男の人を。
指をさしちゃいけませんよ。
「彼は、御者ですよね。どうして、御者の彼がここにいるんですか」
「ああ、そうだったな。まだ説明していなかったか」
当主は椅子の肘掛けに肘を置いて、彼に視線を向けた。
「こいつは、ウィクト家の三男、エドワードだ」
「は? ウィクト家の三男……?」
「おい、エドワード。挨拶してやれ」
「はい。初めまして、ジュリアン様、ライリー様、それとライラ様。僕の名前はエドワード・ウィクトと申します。ウィクト家三男で、四番目の子です」
その自己紹介に、ライリーは目を丸くして驚き、ジュリアンは困惑した表情を浮かべた。
嘘でしょう、まさかウィクト家の三男だったなんて。
でも、どうして御者なんかやっているのでしょう。
「全くこいつは、俺が甘やかしたせいで、好き勝手にやりたいことをやるようになってな。次男は、家業を継ぐのが嫌だと言ってさっさと結婚してウィクト家を出ていったというのに、こいつは縁談を全て断って俺の傍を離れたがらないんだ」
どうしようもない人じゃない。
「兄上、僕は結婚しないわけではなく、相手が見つからないだけですよ」
「だったら、縁談を断るのは何故だ?」
「それは……」
え? 私を見てる……? まさか、新しいおもちゃが見つかったとか言いませんよね。
そんなの、おチビちゃんが許しませんよ。
「僕はエリック兄上のように、決まった縁談候補から選びたくないからです。素性も知らない人となんて、結婚はする気もありませんので」
エドワードさんは物凄い笑顔でそう言ったけれど、その笑顔が逆に怖い。
まるで、「縁談なんかよりも、自分で探して見つけたい」という独特なオーラを感じます。
物凄いニコニコしているわ。
彼とは、少し距離を取っておかないと、万が一何かされたら困ります。
ジュリアンが、警戒していたのがなんとなく分かった気がします。
「まあ、お前の言い分も分からなくはないが、ウィクト家の人間として相応の相手を見つけるのも大切だぞ」
「もちろんそのつもりです、兄上。ただ、今はまだその時ではありません」
エドワードさんは相変わらず笑顔を浮かべながら返事をする。
どうしてこんなに笑顔で話せるのかしら。
なんだかとても策士の匂いがしますね。
すると、ライリーがそんな会話を全く気にせずにスープを飲みながら呟いた。
「それで、いつになったら次の食事の作法を教えてくれるんだ?」
「そういえばそうだったな。まあ、丁度いいからエドワード、お前が直接教えてやれ。ナンシー並みに礼儀作法を教えるのが上手だからな」
「分かりました」
エドワードさんは満面の笑みを浮かべたまま、当主の言葉に応じる。
私は教えてもらわなくていいです。
どうせ、私は礼儀作法は上限に達していると言ってもいいくらいに、叩き込まれていたのだから。
ライリーは、エドワードに教えてもらいながら、苦戦している間、私は静かに紅茶を飲む。
飲みながら、少しだけ目線を上げるとジュリアンと目が合う。
……気まずい。
ジュリアンも驚いたような顔をし、一瞬だけ目を逸らす。
私は何事もなかったかのように紅茶に視線を戻したけれど、なんとなく心臓が速くなった気がする。
――なんなの、この微妙な空気。
ジュリアンは何も言わずに、スープのスプーンを手に取ると、静かに一口飲んだ。
その動作が妙にぎこちなく見えるのは、私のせいでしょうか。
「ライラ、ジュリアン。お前たちは初めてなのによくできているから、俺と話をしないか?」
当主の声が響き渡る。
話す気はないけれど、一応助かりました。
「僕は話す気になれません」
「まあそう言うな。ずっと思っていたのだが、ジュリアンのそのペンダントは誰から貰ったんだ? ルーカス殿か?」
やっぱり、触れられましたか。
どうしましょう、「これはペンダントではなく魔族です」だなんて言えるわけないし。
ジュリアンは、私を見たあと、ペンダントをそっと手で押さえた。
「……これは、孤児院にいた頃にライリーと……ライラと一緒に作ったものです」
え? 何を言っているの……。
さすがに、あんな豪華そうなペンダントを子ども三人が作ったなんて無理があると思いますけど。
おチビちゃんもきっと驚いているでしょうね。
「……ほう」
「このペンダントには、僕たち三人の思い出が詰まっているんです。孤児院では、自分で作りたいものを作ってそれを宝物にすることが流行っていたので」
あまりにもスラスラと嘘が出てくるから怖いのだけど。
「それにしては、不思議な雰囲気があるな。装飾も見事だし、ただのペンダントとは思えない」
「僕たちが嘘をついているとでも?」
「いや、そういうことじゃない。ただ、そのペンダントから力を感じるのだ」
当主の言葉に、ジュリアンの肩が一瞬だけピクリと動いたのを私は見逃さなかった。
「……力なんて感じるはずがありませんよ。ただのペンダントですから」
ジュリアンは淡々と答えるものの、その声にはどこか冷や汗を感じるような硬さがあった。
「そうか? 俺の勘違いかもしれんな」
当主は興味深そうに目を細め、さらにジュリアンをじっと見つめる。
お願いだから、それ以上は追及しないでちょうだい。
おチビちゃんは、今頃冷や汗を大量に流しているでしょうね。
そうこうして、朝食が終わった。
ライリーは、エドワードさんに丁寧に教えてもらったおかげなのか、すぐに上達していた。
さすが、ライリーです。
そして、私たちはダンスの練習をすることになった。




