第百四十三話 意外な依頼
第百四十三話 意外な依頼
「はたして、血管より太い針は注射針と言えるのか……」
有栖川邸にて、左腕を押さえながら黄昏る。
傷は治ったはずなのに、まだ痛みが残っている気がした。
「はっはっはっ!良かったじゃないか、ババ様の紹介で美人看護師さんにお注射してもらって」
「そうですね。御年71歳のベテランさんでしたから、初めての太さだろうに1発で上手くやってもらえたのは幸運でしたよ……!」
「初めての太さだなんて……自信満々かつセクハラじゃぁないか!」
「脳天叩き割るぞこの残念女子大生……!」
机越しに腹の立つ笑みを浮かべるアイラさんに、頬を引きつらせる。
美人……まあ、いい歳の取り方をした人ではあった。若い頃はさぞやモテただろうなという、看護師さんである。なんでも、教授とは40年近くの付き合いらしい。
「いやぁ、あのいかにも百戦錬磨という看護師さんが、正気を疑う様な顔で注射器と君を見比べていた時は笑いを堪えるので精一杯だったよ!」
「その後、貴女を視て『有栖川だし』と納得していた事については?」
「あの御仁は爺様とも面識がある。それがわかるリアクションだったな……」
「何なんですか、貴女がたのお爺さんって……」
「私とミーアの祖父だが、それ以上の説明が必要かね?」
「あ、はい。結構です」
有栖川教授が滅茶苦茶苦労したという事だけはわかった。
まあ、あの人は旦那さんに関して口を開くと、惚気しか出てこないので良い夫婦だったのだろう。
「でも無事に血が取れて良かったね!」
「あ、お帰りなさい」
「お帰り、エリナ君」
「ただいま!」
リビングの扉を開け、エリナさんがVサインと共に戻ってくる。
「血はちゃんとシーちゃんに届けておいたよ!後で京ちゃんも連れて来いって言っていたけど!」
「うっす……でも、ちょっと今は動くのが億劫なので……」
「逆に、致死量の3倍は血を抜いたのにそれで済むとか人間やめているな、君」
「ほっときやがれください、残念女子大生」
あの看護師さんもドン引きしていたが、生物学的な意味では既に問題ない程に回復している。
だが、それはそれとしてあの量の血が自分から抜かれる様を見るのは、それだけで貧血になりそうだった。精神的にだいぶくる。
「まあまあ!血を抜いたなら栄養を取らないとだね!はい、京ちゃんあーん!」
「あ、あー……!?」
満面の笑顔でチョコクッキーを差し出してくるエリナさんに、硬直する。
アーン、だとぉ!?
『阿暗』
古来より伝わる暗殺技術。
傍目からは一切の殺意を感じ取れない為、暗殺が露見するリスクが極めて低い。
その代償に9割がた食べる側に幸福感が発生するだけで終わり、対象の心臓が緊張と興奮で炸裂する可能性は1割にも満たないとされる。
世の理亜充は互いにコレを行う事で暗殺への耐性をつけており、同時に信頼関係を確かめ合っているのだ。
古代。ヤマトタケルノミコトが女装し、まずは阿暗によって熊襲の長である兄建を殺害。次に『実は男だ』と明かす事で弟建の脳を破壊して暗殺した事はあまりにも有名。
古事記にもそう書いてある。
「おぉっと、どうしたのだね陰キャコミュ障童貞の京ちゃん君!エリナ君のクッキーが食べられないと言うのかぁい?」
「黙れ残念女子大生……!」
「そうなのか京ちゃん!てやんでいべらんめい!私のクッキーが食べられねぇってぇのかい!?」
「謝れ。江戸と江戸を愛する全ての存在に」
「そこまでかね?」
「心の底からごめんなさい!」
「素直だねぇ」
明らかにわかって言っている残念オブ残念と、天然なのか揶揄っているのか不明の自称忍者。
差し出されたクッキーを前に躊躇うが、エリナさんに引く気はないらしい。動物園ではしゃぐ子供の様に目をキラキラとさせて、こちらが食べるのを待っている。
恐る恐る顔を彼女の手に近づけ、絶対に指と唇がぶつからない様にクッキーを咥えた。そして、舌と口の力で引き寄せる様に口腔へと入れる。
ほんのり彼女の温もりが残っている気がして、胸がドキリと跳ねた。
「美味しい?」
「……うっす」
「はい美味しー!」
何がそんなに楽しいのか、元気よく拳を突き上げるエリナさん。着物越しに、すぐ近くで揺れたお胸様から全力で顔を逸らす。
しかし、その逸らした先で。
「珍獣の餌やり体験コーナーはここかね」
「はっ倒すぞ残念女子大生」
いつの間に移動してきたのか、反対側から親指大のチョコレートを差し出すアイラさんがいた。
やばい。何がやばいって、先ほどのクッキーと違いこっちは食べようとすると確実に指と唇が当たる。彼女の白魚の様に白く、芸術品の様に綺麗な指先に思わず生唾を飲み込んだ。
え、これどうすれば良いの?わからない。脳が上手く働いていない事を自覚する。
混乱しながら、どうにか指に接触しない様に咥える距離を模索しながら顔を近づけ……。
「時に京ちゃん君」
ニヤリ、と。アイラさんが意地の悪い笑みを浮かべる。
「別に私は『あーん』と言っていないし、このチョコは手で受けとっても良いのだよ?」
「…………!?」
こ、この残念女子大生……!
耳まで真っ赤になるのを自覚しながら、掌を上に向ける。そっと、その上に一欠けのチョコレートが置かれた。
「……ありがとう、ございます」
「よろしい。食べたまえ」
「いただきます……」
ほんの少し溶けたチョコの表面に、不覚にもドキドキしながら咀嚼する。
緊張のし過ぎで、味がまったくわからない。こっちのそんな心情を察しているだろうに、アイラさんはニヤニヤと笑いながらこちらを見下ろしている。
「美味しいかね、京ちゃん君」
「うっす……」
冷静に考えれば、先ほどのクッキーも素直に『あーん』を受ける必要はなかった。普通に手で受け取れば良かったのである。というか、何なら断るという選択肢もあった。
……マジで貧血になっているのだろうか、自分は。
「よし、京ちゃん!次はこれね!」
「餌やりコーナーは終了しました……!」
「そんなー!?」
「待ってくれ!今度はこのロシアンルーレットクッキーをだね!」
「どっから持ってきたこのアホウ。1人で食べてろそんなもん」
「この天才に向かってアホとな!?あと1人でこれをやるのは嫌だぞ!?」
「わかった、パイセン!はい、アーン!」
「らめぇ!?それ覚醒者でもダメージ入る劇物ぅ!?」
「そのリアクション。貴様、さてはどれがハズレか自分にだけわかる様にしていたな?」
「し、しまったぁ!」
「とぅ!」
「あがぁああああ!?」
大口を開けてリアクションしたアイラさんに、エリナさんが投擲。見事口の中にハズレのクッキーがホールインワンする。
残念の世界チャンピオンがどたどたと部屋を出た後、入れ替わりに焦った様子でミーアさんが入ってきた。
「すみません、ここで何かエッチなイベントが起きていませんでしたか!?」
「起きてねぇですよ残念女子大生その2」
「残念じゃないです!?」
いや残念だよ。残念の世界2位だよ。
「先輩も食べる?たぶんパイセンの手作りクッキー」
「食べます!!」
凄い食い気味にいったな。
「じゃ、あーん!」
「ふぇ!?そ、そんなアーン、だなんて……や、優しくしてください……!」
「節操ねぇのかこの変態……」
頬を赤らめ、アーン待ちするミーアさん。不覚にも、その表情がエロいと思った事を自省する。この残念姉妹、本当に見た目は良いからな……。
金髪美少女が金髪美女にアーンするという、拝みたくなる光景なのだが。何故だろう。この隠しきれないギャグシーンみたいな空気は。
「どう?美味しい?」
「はい……これが、エデン……!」
「幸せそうっすね」
「ようし、じゃあ皆で食べよう!」
「え?まさかこの人ミーアさんに毒味させた……?」
笑顔で戻ってきたエリナさんと、まだトリップしているミーアさん。うん、なんかツッコミに疲れてきた。血を大量に抜いた後にやる事じゃねぇのよ。
思わず遠い目をしていると、アイラさんが戻ってくる。
「ふう……牛乳とヨーグルトが無ければ即死だった……」
「それ、激辛食べた後でも効くんですか……?」
額の汗を拭い、何やらやり切ったとでも言いたげな顔の残念女子大生。
それはそうと、今日の彼女は白いTシャツ姿なので……その、少し透けている。
黒いブラジャーが薄っすら見えている気がして、顔を下に伏せた。なお、ミーアさんは『目を皿にする』という言葉の見本みたいな事になっている。
「時に最近ダンジョンへ行けていない3人」
「はあ……」
自分の状態に気づいていないのか、自信満々に胸を張るアイラさん。
返事をする時に反射で顔を上げてしまったが、その際にハッキリとシャツ越しに浮かぶ飾り気のない黒いブラジャーと、それに包まれた巨乳が小さく揺れる様を見てしまった。
隣では、残念その2が『神は実在する……!』とかほざいている。
「君達に面白い仕事が舞い込んでいるが……キャンプに興味はおありかな?」
「……はい?」
この人からおよそ出るとは思わなかった言葉に、3人揃って首を傾げた。
自分達の様子に満足した顔で胸を張っていたアイラさんが、己の汗でピッタリとくっついたシャツに気づいたのはこの5秒後の事である。
先ほどの発言の説明をする前に、残念女子大生は無駄に可愛らしい悲鳴と共に撤退した。
とりあえず、眼福だったので内心で手を合わせておく。ありがたや……!
それはそうと、血がまた頭から遠のいた気がする。大丈夫?マジで倒れない?
読んでいただきありがとうございます。
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Q.は?弟建はヤマトタケルノミコトが男と気づいてむしろ興奮したんだが?古事記にもそう書いてある!
A.これはフィッッックションッ!!フィクションはだいたい何でもあり。古事記にもそう書いてある。