序-4 It is a pleasure to see you.
「帰るのか。」
「うん、帰る準備をするから水場を作る手伝いをしてほしい。」
「水場?不死国の住人は鏡やら水に映りこむだけじゃなくて移動もできるのか?」
「戸や水場があればね。今回は水場だとありがたいな。あ、水場はそれ相応の大きさが必要だ。」
一般家庭で用意できる最大の水場は一つだけだ。
「風呂に水を溜めればいいんだな。」
レンジは笑みを浮かべてうなづく。視線は静かに刻まれる秒針を追っている。追われる身としては余裕な振舞をしているが、心中穏やかではないようだ。空知要としても追い出したい気持ちは変わらない。怪我をしていようが、誰かに命を狙われていようが、空知要の優先順位は家族と自身の安寧だ。不死国の存在、奉神に興味はあるが、日常を脅かすならば話は別である。レンジが逃げ切れば穏便に事は済むはずなのだ。
…今思い返せば、少し前に“レンジをさっさと帰そう”と思わなければ酷い目には合わなかったのだが、悔やんでも仕方のないことである。選択をしたならば変えられない。時を戻すことはできない。
もしもあの時なんて考えは、いつの時代、どの世界でも通用しないのである。
「あと5分ぐらいで溜まりきるよ。満杯になればいいんだろ。」
「充分だ。ありがとう」
空知要は台所に入り、今朝洗われて乾かされていたカトラリーを片づける。
先ほどジャムを掬ったスプーンを手に取ったとき、レンジが黒い番傘を広げて、内側をじっくりと覗き込んでいるのが見えた。傘の裏側なんて骨組みしか見えないだろうに、奉神であるレンジには何が見えているのだろうか。視界の端にちらりと見えた内側には、花々が咲き誇っているように見えて空目する。
「不死国の持ち物ってすごいんだな。傘の中に花が咲いてる。」
傘を開き、猿回しでもするかのように回していた手をピタリと止めて、レンジはゆっくりと振り返った。
「みえる?なにがみえてる?」
瞳孔の開いた緑の瞳が爛々と輝く。
「花だよ。たぶん菊の花かな。よく仏花にされてる。」
「白い菊か。」
レンジは乱暴に傘を閉じた。時計の細長い針は2を指している。
「少し早いけど誤差だよな。」
レンジは空知要にむかって頭を下げた。
「ありがとう。これで俺は帰れるよ。」
「浴槽から帰れるんなら、この時間まで居座る必要あったか?」
「あるんだなこれが。まあそれは知る必要はないよ。
俺は不死国に帰るから、ここでお別れだしな。」
レンジはしなやかに空知要の左手首を掴み、浴室へと向かう。
何故掴む。力は強くないが、振りほどくことができない。
「放してくれないか。」
「お別れが名残惜しいんだよ。見送りぐらい付き合ってくれ。」
浴槽の前に二人で立つ。LEDの青白い光の下では、レンジの顔が不健康気味に映し出されて恐ろしい。
「白い菊の花言葉って知ってるか。」
「花言葉には縁遠いんだ。」
「残念だ。ならよく使われる場面なら知ってるだろ?さっき言っていたじゃないか。」
「ああ…葬式…」
第六感
しかし、あまりにも遅い第六感だった。
空知要は宙を舞った。
レンジに握られた左腕を起点に身体が空に浮き、浴槽に張られた水面に叩きつけられる。放り上げられた瞬間に、遠心力で大きく動いた空知要の足が浴室のLEDを蹴り壊した。暗闇が訪れる。左腕が濁音をたてた。背中、左腕、水中という息苦しさ。痛みに息が詰まった。浮上した身体は起き上がることができず、水に浸かったままレンジに首を掴まれる。話せないほど力は強くない。突然の暴力を受けた少年が抵抗できるわけがないとタカをくくっているからだろう。
レンジは口の端だけを持ち上げて笑みを浮かべた。好青年の面の皮なんてどこかの野犬にでも喰わせたのだろうか。面影は皆無だ。
「傘が教えてくれただろ?白い菊を供えるのは今だと思ったんだ。」
あいにく俺には傘の骨組みしか見えなかったんだがとレンジは独り言ちる。
「幸福なんて名前…似合わないな。」
「俺だけの幸福だ。他の奴に与える幸福なんてあるかよ。だからこその幸福の名だ。俺だけの、俺だけが冠することができる名前だ。それにしても図太いな。普通人間てのは怯えるもんじゃないのか。」
「生憎と肝の座り方だけは一人前なんだ。」
左腕の痛みに意識が飛びそうだ。腕を折るのは初めての経験だ。運動部に入っているわけでもなしに、16年の人生でそうある経験ではないから、痛みに耐えられないのは許してほしい。
「嘘つき野郎。お前の方が逃げ出した罪人かよ。」
「あの牢獄から逃げ出すのには骨が折れたよ。あ、今折れてるのは君の腕だけど」
笑えない冗句を言い放つさまは悪辣で、レンジの浮かべた表情を見るだけで気分が悪くなるほどだった。
「…零時まで逃げ切るんじゃなかったのか。」
「君が、リミットは21時半だっていうからだ。
君が俺の計画を崩すような事を言わなければ、俺は機嫌を損ねることなく、穏便にこの浴槽から 帰ろうと思ってたんだぜ。」
「それに何の意味が…」
「お前の言う“確定”は絶対だからだ。
俺とあいつの遊戯は本来なら零時までだったが、お前が期限を短くしたんだ。おまえが教えてくれた傘の柄も不吉だったし、あいつに一矢報いるにはお前を手にかけたほうが良いと思ったんだ。」
あいにく右腕は使い物にならないし、水に今の君一人鎮めるくらいなら俺にもできると彼は宣う。自分の死に場を自分で作ったことには失笑モノだが、普通に生きてたら自分が殺されるとは思わないだろう。少なくとも現代日本で死の覚悟をもって日常を過ごす人間は少ない。
しかも、自分と無関係の存在のせいで死ぬことなんて予期しえない。
「俺はその人と関係ないだろ…」
「大いにある。じゃ名残惜しいがお別れだね。呉越同舟もここまでだ。舟は沈めなきゃ。君の死体と共に不死国に帰還したら、あいつどんな顔をするかな。」
首を握る手に力がこもる。
仲が悪いことには納得するが、こいつと協力した記憶はない。
一方的に協力させられただけだ。
沈みそうな舟に乗り合わせたわけでもなし、安定していた舟を沈めようとしているのはコイツだ。
実際問題沈められているのは舟に見立てられた空知要一人だ。
呉越同舟と言うのなら、お前と見知らぬ冥の奉神の二柱も舟と共に沈みかけろ。
上手いこと言った気になってるんじゃないぞ。
歪んだ視界で、闇雲に右手に握ったものを突き出す。
何か柔らかいものに刺さる感触。
うめき声が聞こえ、首を掴む手が緩んだ。
急浮上した空知要は勢いよくせき込む。
明滅する視界で、右手を確かめる。
右手の中には小さなスプーンがあった。
台所にいた時から持ったままだったスプーンにはいちごジャムではなく、生々しい赤色が付着している。
「お前…」
浴室には、苛立たし気に空知要を片目でにらみつけるレンジの姿があった。
左目からは血を流している。
「…ジャム以外も掬えるみたいだな。」
咄嗟に放った言葉は挑発でしかなかった。
つまり、絶体絶命の自分には不適切な言葉だ。全身ずぶぬれ、左腕は折れ、呼吸も整っていない自分と、右腕は負傷中、左目は見えなくなったばかり、しかし奉神という利がある幸福の奉神
考える間もなく、空知要が負ける。浴槽に座り込んだままの空知要の元に幸福の奉神の大きく広がった影が忍び寄る。奉神って影も操れるものなのか…生態が一切分からないため新しい発見だった。できれば発見などしない安全な状況下にありたかった。
身をすくめた瞬間に頭上から声が降り注いだ。
「白い菊はお前に供えられるものだ。対象をすり替えるんじゃない。」
黒い人影が狭い浴槽に立っていた。
レンジの陰の浸食は人影の目前、浴槽の淵で止まっていた。
「あと五分お前の行動が早かったら導師でも危なかった。」
「間に合わないことに定評があるんじゃなかったか。」
「誰が言ったんだいそんな話。この世に生まれ落ちてから、間に合ったことしかないね。」
暗闇に満ちていた浴室に、蒼い柔らかな光がともる。身の丈ほどの持ち柄の先に、蒼い光を放つ提灯が付いていた。明かりに照らされ青年の姿が浴室に現れる。青年はふらりと提灯を揺らす。
空知要には温かく心地よい明かりに思えたが、幸福の奉神にとっては死刑宣告のようなものだったのかもしれない。片足を引き、逃げの姿勢を見せた罪人を獄主が見過ごすはずはなく、軽く片手で握るような動作を見せて簡単に幸福の奉神を掴みあげた。青年の影が、罪人を掴みあげているようだ。
「時間が短くなって焦ったよ。“確定事項”が変わって、お前のことだから焦って短絡的な行動に出るんじゃないかって。」
思った通りだったよと首をすくめて、右手の握る力を込めたようだった。
ぐ…と呻き声をあげる幸福の奉神は、血走った目で青年を睨みつけた。
「ずっと手を出せなかったくせに何を言ってる。」
「そうだね、どうしたものかと悩んだよ。
この子を救い出す手段が思いのほかたくさんあったものだからね。」
お前の計画はお粗末だと暗に含んだ青年の言葉に、幸福の奉神は押し黙る。
「さて、お前をどの道に送ろうか。」
悩まし気に提灯を揺らす。
「おまえ、逃げ出してから丸一日経ったからといって人に手を出していい理由にはならないよ。
それと導師の傘を盗んでいったからね、罪状は倍に増やしておこう。」
「糞奉神、おまえの弱みを握った俺を“道”に戻していいのかよ。
“空知”がお前の弱みだと言い触らせるんだぜ。」
「やってごらん。お前が思うより“道”はたくさんある。」
「はっ…お前が弱っていることは知ってるんだ。やりようはある。
そこの呆けてるお前も、俺の片目の代償は払わせるからな。」
「お前に払うものは何一つないよ。この子はお前の手当てをして供物を渡した、それで充分だ。」
「…“空知”に逆上せてるお前を見守っててやるよ。」
「ご勝手に。お前の行く“道”は決まったよ。いっておいで。」
「てめえが辿るべき“道”だろうが。この反逆者どもが!」
何事か喚く幸福の奉神を締め上げて宙に放った。本来なら浴室の壁に激突するところだが、壁に昔ながらの木の引き戸が現れ、幸福の奉神は戸の向こうへと姿を消す。
からりと黒い番傘が浴室の床に落ちた。
静寂
水音を立てて青年は振り返り、持っていた提灯を浴室の壁に立てかけた。
おかげで明るさは保たれたままだ。
青年は軽々と空知要の脇の下に手を入れて、浴槽の淵に腰掛けさせた。
痛む左腕を抱えて青年を見上げると、青年は半身が濡れることも厭わずに浴槽の中にしゃがみこみ、空知要と目線を合わせた。
「約束を果たせそうだと思って会いに来た。」
青年の鼈甲飴のような瞳が空知要を一心に見つめる。
「貴方が…冥の奉神?」
幸福の奉神の言葉から推測できる人物は一人だけだ。
青年はゆっくりとうなづいた。
見る人を安心させる重厚感を伴った振舞いは、他者を従え慣れている者の動きだ。
一目しただけではすらりとした高身長の青年だが、同じ奉神を一掃する力、男子高校生を軽々と持ち上げる筋力と揺るがぬ体幹といい、強者なのは間違いない。
ただ、冥の奉神という青年を見ても思い出すようなことはない。
幸福の奉神の言葉が真実であるならば、彼と空知要にどのような縁が結ばれているというのだろうか。
「人は短い生のなか、沢山のことを忘れることで生きている。
忘却は、逆らえるようなものじゃない。」
神曰はく、空知要は何か忘れているらしい。
君が言ったんじゃないか、と神は宣う。
「一緒に国を滅ぼそうって、君が言ったんじゃないか。」
予想外に物騒な言葉に目を見開く。
この瞬間だけ、左腕の痛みを忘れた。
郷愁と再会の喜色を淡く笑みに浮かべた青年に、自分の心が震えた気がした。
「君と縁を結びにきたよ、空知要。」
淡い光に照らされた浴室で、一人と一柱は邂逅を果たした。