序-3 知るべきことを知るために
空知要は、未だ散らかったままのリビングのソファに座っていた。自身が手に持つ黒猫のマグカップに不機嫌そうな自身の表情が映る。マグカップの中の麦茶には、目元の黒子も歪むほどに警戒した面持ちの自分が映っていた。対面には右腕の傷の手当てを終えた不審者が両手にマグカップを持ち、おとなしく座っている。不審者に入れてやる茶はない主義だが、とにかく喉が渇いたと騒ぐため、流しに置いてあったマグカップに冷たい麦茶を注ぎ渡せば、少年は静かになった。
マグカップが汗をかいている。
無言の時間を持て余し、空知要は疑問を投げかける。疑問を投げかけた程度で手を挙げるなら、逃げようとした段階で空知要は負傷しているはずだ。今その状況にないというのなら、疑問程度なら大丈夫だろうと推察した。となれば、空知要の疑問を解決するいい機会である。
「なんでこんな民家に奉神が現れるんだ?いままで鏡とかに映りこんでもこちら側に来たことはないんだろう?」
世間一般での不死国の認識には、大きく三本の軸がある。一つ、人ではない不思議な存在がいること。二つ、“反射するもの”に映りこむこと。三つ、奉神という存在が統治しているということ。それら以外の情報は無いに等しい。
「そうだな、奉神は此方側に現れちゃいけないからな。」
やっと話しかけてくれたとでもいうように、少年の声音からわかりやすく機嫌がいいことが伺える。
「じゃあどうして…」
「言っただろう?追われてるんだ…不死国にいるおっかないやつさ。
あの箱のなかの人間が言ってた戸やら窓が開く現象だって、俺を探している奴の所業だ。」
箱の中って、眼前の少年はテレビのことを知らないのだろうか。奉神は人間の世界を覗き込む割には、文明の利器についての造詣は浅いようだ。ただし、眼前の少年が人間の世界を知らないだけという可能性もある。空知要にテキトーな考察をされているとは露知らず、少年はチと忌々し気に舌打ちをして唇をかみしめた。典型的な悔しさを滲ませているポーズである。
空知要はやれやれと頭を振った。
「逃げてきたって言われても、俺にできることなんてない。」
なんてったってただの高校2年生である。
「いいや、お前は傍にいてくれたらいいんだ。」
同級生の女の子たちなら、少年の言葉にときめいたかもしれない。
しかし、空知要としては人質に取られた気分だ。
(なんなんだ?不死国では人間に手を出してはいけないという決まりがあるのか…)
不死国については、先の三軸以外の詳細が判明していない。不死国という呼称の由来も同様である。かつて名も知らぬ誰かが“不死国”と呼称し始めたのだ。不死国に存在する者が奉神という存在であることは10年前の事件で話題になっている。名称は知っていても、姿形や生態などは把握されていない。人間と同じ知性体であることだけが判明している。質問すれば答えてくれる、自身への危害は今のところ心配しなくていいとなれば、空知要は肩の力を抜き、改めて少年を見据えた。本人も気づかぬうちに、灰色の瞳が鋭利な煌めきを放っていた。少年は、魅入られ惚けたような表情をしたが、瞬時に切りかえて居住まいを正した。
「あんたが何かやらかしたのか。その傷も。」
「あんたなんて寂しいじゃないか。名前で呼んでくれ。あ、奉神名で呼ぶなよ。
罪人が気づいちまう。それに俺は何もやらかしてない。」
「じゃあレンジ」
「電子レンジってか…まあいいか。不死国の牢から罪人が抜け出してな…。そこに遭遇しちまったもんだから、口封じに追われてるのさ。右腕の傷も追われてるときに負ったものだ。」
「おまえ、好き放題自分の話したいことだけ話す自分勝手な奴って指摘されたことないか。」
「身に覚えがない。ひとまず俺の話を聞いてくれ。
命からがら不死国から逃げ出したところ、偶然“戸”の管理が甘かったこの家に逃げてきた訳。今 も奴は俺を探してる。俺は見つかったら困る。奴にも人間には手を出しちゃいけない規則が適用 されているから、お前といれば俺も下手には消されない、で何か質問あるか。」
「何も分からないのに質問できると思ってるのか…。わかることがあるから、わからないことがわかるんだろう。俺は1mmも話を理解してない。だから今まっとうな質問ができるとは思えない。」
「わからないことをわからないって言えることが大事なんだぜ。」
にかりと口の端が持ち上がり、気持ちの良い笑みを浮かべる。
レンジは笑みを浮かべていないと死んでしまう質なのだろうか。レンジの言動が気に食わず、屁理屈を捏ねてしまったが、わからなくても出来る質問はあった。
「レンジ、あんた何時までこの家にいるんだ。」
芽吹き始めたばかりの木々を閉じ込めたような瞳がくるりと動く。その動きは無邪気に感じ、人々は気を許してしまいそうである。空知要自身も、魅力的なそぶり、なんだろうなと感じていた。
「今夜だな。今夜だけ俺に付き合ってくれ。」
母は出張、父は残業で今日は帰宅が遅いとの話だった。自分にこの強引な不審者を追い出せる力はないし、父母が暫く帰宅しないなら多少は居座られても問題ない。
「22時前には帰ってくれ。」
「つれないな。」
「21時半には帰れ。これは確定だ。」
到底22時前には帰らなさそうな素振りのレンジに確定事項としてより早い時間をつきつける。淀みなく自分の口から発された “確定”という言葉に、はてと首を傾げる。異様に口にし慣れた二文字だ。少なくとも記憶にある中では発した機会は少ないのだが...。
「は?」
レンジは口を開いたまま動かない。何を焦っているんだか。
「その言葉に偽りはないか。」
「ああ、ない。さっさと帰ってくれ。」
目を白黒させたレンジだが立ち直りは早かった。腹をさすり、空腹をアピールしてくる。
「ところで、腹が減ったんだが何か食べ物はないか。」
「図々しいことこの上ないな。」
しかしながら腹が減ったのは事実だ。レンジが電子レンジから出て来ることがなければ、空知要はカレーにありつけていたのだ。カレーの恨みを込めて一睨みする。ちょうどテレビで夕飯特集を放送していて、焼きたてのハンバーグが美味しそうだった。この映像を見てレンジは空腹という感覚を思い出したのだろう。
「奉神も食事をするんだな。」
「食べなくても存在できる。
食べたほうが存在を保ちやすいが、普通に不死国内にいたり、不調がなければ存在の心配をす る必要もないからな。」
「今は不死国じゃないから、食事をしたいと」
「その通り。理解が早いって言われないか。」
「…そう見えるだけだ。」
すこし嬉しいと思った自分を取り繕いつつ手を動かす。かろうじて余っている作り置きのカレーはレンジにはもったいない。戸棚より食パンを取り出して、マーガリンと隣家のおばちゃんお手製のいちごジャムを塗りこむ。少しの怒りの分だけ自分のパンにいちごジャムを多めに塗る。レンジの分は少なくていい。何ともない顔で席につき、互いにパンを取り口に運ぶ。もぐもぐと互いの咀嚼音だけが静謐な部屋に響いていた。楽しくない食事だが、腹を満たすには十分だった。時計の針は八時を指していた。時折右腕が痛むようで、動きが鈍くなっている。
「痛いなら、そこで少し寝たらどうだ。ちょっとはましになるかも。」
「寝た瞬間に見つかりそうだからやめておくよ。
「あんたを追ってる奴ってどんな奴なんだ?不死国はそんな物騒な処なのか。」
「なんだ質問できるじゃないか。」
「わからないなりに質問を考える時間はあったからな。話を逸らすな。」
負傷した右腕に巻かれた包帯をなぞる。ありとあらゆる戸が開く現象により、案の定散乱していた救急箱の中にあった包帯だ。傷の手当てに食事に…まったく感謝してほしいものである。包帯の上からかるくはたき、痛みにうめくレンジを尻目に空知要はコップを仰いだ。
「不死国は人間の基準で言えば、幻想的で麗しい場所だ。菊の花が咲き誇り、澄んだ水場、豊かな土地に高層の木造建築が聳え立っている。奉神にも階位があるんだが、低位が大半でな。低位の奴らや神妖は平和に暮らしてる。」
「レンジは低位なのか。」
「なんでだよ。しいていうなら中位だな。
まあ、俺含め中位の奴らは高位に上がりたいと望む。だから中位から高位は殺伐としていること が多いな。高位の奴らは俺らのことなんざ気にも留めていないけど。」
「神様も大変なんだな。」
「不死国の外殻はこんなもんだ。今回俺を追ってる奴は、位置づけするとすれば高位だな。不死 国に存在する牢獄みたいな場所出身だ。立ち入っただけで奉神も狂うような場所。奴の名は“冥の奉神”という。」
冥の奉神、名前にも出身地にも当然のことだが思い当たるようなことはない。寂しそうな名前だと、端的な感想を抱いただけだった。名前を告げた瞬間に、レンジの目が観察するように空知要を見据えていた。こいつが何か思い出さないかと監視しているようだった。
(思い出すも何も、まったく知らない名前だ。)
「あいつにとって大事なものを俺が知っちまって、それで追いかけられてる。ここに逃げ込まなかったら消されてたな。あいつもまだ様子見って訳だ。それも奴が本調子じゃなかったから、この腕の傷で済んでいるわけだ。」
本調子だったら真っ二つだよ真っ二つ…と右腕の傷から胴体の前を左手で横に薙ぐ動作をする。
「そんなに強いやつが相手だってのに、今夜だけ逃げきればいいってのはおかしいんじゃないか。」
「今夜だけでいいんだ。過去に俺に与えられた“確定事項”が今夜なんだ。奴も理解しているから、現状俺を見逃している。」
「よくわからないが、あんたに何かしらのアドバンテージがあることはわかった。」
テレビは21時台の番組に変わっている。特徴的なテーマが流れ番組タイトルが映し出される。
「お、21時だな。そろそろ動くか。」