あなたが聴こえる
残業で帰りが遅くなった私は、冬の寒空の下を一人歩いていた。
就職して9カ月。
まだまだ、仕事に慣れたとは言えない。
ミスもたくさんする。
今日も、簡単な数字入力を間違え、訂正処理をしていて、遅くなってしまった。
また、私の直属の先輩が一緒に残ってくれたが、それがかえって、申し訳なく感じてしまった。
「また、迷惑掛けちゃったな…。」
仕事でミスをした日は、とても落ち込む。
周りの同期入社の同僚は、どんどん仕事を任され始めている。
それに比べて私は…。
「はぁ。」
特大のため息がこぼれる。
こんな日は、早く帰りたい。
早く帰って、あなたに抱き締めて貰いたい。
そして、「大丈夫だよ。」と、優しく囁いて欲しい。
「あ、ダメだ。喧嘩してるんだった…。」
昨日の夜、同棲している彼と喧嘩した。
きっかけは些細な事。
女子の日で、気持ち的に余裕のなかった私は、折角彼が干してくれた洗濯物の干し方に、イライラしてしまった。
「なんで、シワを伸ばしてから干してくれないの?!」
私は彼の前に、シワのついたシャツを突き出した。
「私、忙しいんだから、自分でアイロン掛けてよね!」
「分かってるよ。」
彼は怒りもしないで、さらっと答えた。
「もう、いい!」
その後私は怒って、自分の部屋にこもってしまった。
そんな私にため息をつきなから、彼も自分の部屋に戻ったのだろうと思う。
しかし、朝起きたら、もう彼は仕事に出ていて、私はごめんも言えないままだった。
「あっちが悪いんだし!」
そう決めつけていたが、なんだか後味が悪かった。
どう考えても、昨日の私は、彼に八つ当たりしていた。
(仕事もうまく行かない…女子の日は痛みがキツいし…最悪だわ。)
そんな気持ちが良くなかったのか、簡単な入力作業でミス。
(私って、勝手だ…。)
昨日の夜は、あんなに怒っておいて、自分が辛いときには彼の優しさに甘えたくなる。
彼の温もりが欲しくなる。
寒さに身を縮めながら歩き、ある角を曲がり、家が近づく。
「早く会いたい。」
家で待ってくれているであろう彼の顔が浮かぶ。
ピーポー ピーポー ピーポー。
こっちに向かってサイレンを鳴らした救急車が近づいてくる。
「うちのマンション?何かあったのかな?」
まるで他人事だった。
だって、救急車が自分のマンションに居るなんて、そうそうない。
それに、呼んだこともない。
22才の私には、それくらい救急車が身近な物ではなかった。
だから私はすれ違う救急車をなんとなく目で追って、すぐにまた前を向いた。
マンションの前で、管理人さんが寒そうに体を擦りながら、立っていた。
先程の救急車を見届けたのだろうか?
「本田さん!」
私の姿を認めると、管理人さんは私に手招きをした。
その表情は、寒さからなのか、マンションから救急車が出たからなのか、こわばっていた。
「本田さん!今、同居人の人、運ばれたよ!あんたも病院に行った方が良いんじゃないかい?。」
一瞬、時が止まった。
意味が分からなかった。
同居人?彼の事?
「何かあったんですか?」
この時の私はまだ、事の重大さが分かっていなかった。
彼が怪我でもしたのかと思っていた。
「事情はよく分からないけど、心臓マッサージされてたよ。」
(え?心臓…マッサージ?)
まだ事情が飲み込めない私をよそに、管理人さんは自分の携帯でタクシーを呼んでくれた。
「あの、ほんとに信也でしたか?人違いとかじゃ?」
私には、心当たりがなくて、管理人さんの思い違いではないか、見間違いではないかと疑った。
だって、私の彼、同棲している信也が心臓が悪いなんて聞いたこともない。
「確かに、あんたの同居人だよ。いつもマンションから出る時には会釈してくれる人だったから、よく覚えているもの。」
管理人さんからそんな説明を受けているとタクシーが来た。
「○○病院だよ。分かったね?」
まだ、にわかに信じられない思いの私の腕を管理人さんが引っ張り、タクシーに乗せた。
そして、私に5000円を握らせて、こう言った。
「本田さん!気をしっかり持つんだよ!」
管理人さんがそう言うと、タクシーの扉が締まり、私の帰ってきた道のりを遡るようにタクシーは進んだ。
私が病院につく頃には、信也は冷たくなっていた。
「うそ。」
そんな言葉しか出なかった。
嘘であって欲しかった。
お葬式も終わり、信也のお母さんが私に教えてくれた。
「体に悪いとこなんてなかったの。ただ、運が悪かったのかしらね。お医者さんが言うには、突発性の心臓発作だって…。そんな事が起こるなんてね…。」
信也のお母さんは憔悴しきった表情でそう語った。
それでも私には、「信也が居ないこと」に実感が持てなかった。
一人の部屋に帰ると、急にお線香の香りを感じた。
(さっきまで、お葬式だったもんね。)
-でも私は、誰のお葬式に行ってたんだろう?-
分からない。
分かりたくない。
そんな想いだけが私の中にあった。
その日の夜中に、目が覚めた。
玄関から鍵を開ける音がしたからだ。
(信也かな?)
半分寝ていた体を起こした。
(謝らなきゃ。喧嘩したこと。)
自分から謝るなんて、しゃくだけど、これ以上顔を見ないで過ごすのは嫌だった。
それに、早く信也に抱き締めて欲しかった。
私は自分の部屋を出て、玄関を見た。
「あれ?」
そこには、誰も居なかった。
(気のせいか。)
私は落胆して、仕方なくベッドに入った。
(明日の朝、謝ろう。)
そう思いながら。
しかし、次の朝も、その日の夜も信也は帰ってこなかった。
(よっぽど、怒らせたのかな?)
悲しい気持ちなのに、なぜか涙が出ない。
(私、どうしちゃたんだろう?)
その日の夜中、廊下を歩くスリッパの音がした。
(信也?トイレかな?)
私はまた、眠たい目をこすり、自室を出た。
しかし、廊下は真っ暗。
トイレをノックしてみた。
「信也?」
返事はなかった。
(もう。早く謝りたいのに。そんなに私に会うのが嫌なの?)
モヤモヤとしながら私はまた、ベッドに戻った。
朝を迎えて、窓から光が入り始め、私が覚醒しだす頃、キッチンから小気味良い包丁の音が聞こえてきた。
(信也、帰ってきた?)
私は嬉しくなって、慌てて自室を出た。
「信也!あのね、私!…あれ?」
キッチンに信也は居なかった。
何かを作っている形跡もなく、そこには私が昨日の夜に食べたカップラーメンのカップがそのまま置いてあった。
最近食欲のない私は、料理をすることもなく、インスタント食品を食べていた。
(だって、一人だし…。)
キッチンに立っていると、信也と二人で料理をした日の記憶が甦る。
信也は料理が上手で、不器用な私は信也に教えて貰いながら、恐々包丁を握っていた。
「裕子はほんとに、ふぎっちょさんだな。」
拙い私の包丁さばきを見て信也がクスクスと笑った。
「悪かったわね。」
私は子供みたいにそっぽを向いた。
すると、信也が大きな手で私の頭を優しく撫でて、こう言った。
「そんなところが好きなんだ。守ってあげたくなる。」
そう言うと信也は後ろから私をハグした。
優して、暖かい腕に抱かれると、私の機嫌はすぐに直ってしまう。
「もう。」
素直じゃない私は、まだ不機嫌を装って、もう少し信也の腕に包まれていたいと思った。
「寒い。」
信也の腕の温もりを思い出してしまった私の体には、キッチンの冷たさが、辛かった。
「信也…。寒いよ…。」
呟いて、リビングのドアを見た。
信也が入ってくる気配はない。
(なんで、来てくれないんだろう。)
そう思うと、寂しさが込み上げてきた。
「なんで、居ないの?」
信也がいないことを実感してきた。
目が熱くて、両手で目を押さえた。
(ダメ!泣いちゃ。泣いたら、認めてしまう。)
本当は分かってる。
信也がいない理由を。
でも、認めたくない。
カチャカチャ
カチャカチャ
「この音は?!」
私は音がする方へ向かった。
リビングのドアを開け、音のする部屋のノブを掴んだ。
そして勢いよく部屋のドアを開け、その部屋の住人の名前を呼んだ。
「信也!」
部屋に、私の声だけが響いた。
「居ない…」
私はずるずると体を落とした。
まるで、身体中の力が抜けてしまったようだ。
「なんで…居ないの…?」
何を言っても、信也の声は帰ってこない。
「なんで?音はするのに…信也の音が…。」
信也が玄関の鍵を開ける音。
廊下を歩く信也の足音。
料理をする信也の包丁の音。
そして、部屋でパソコンを操作する、信也の音。
その音、全てが日常で、当たり前に聞いていた音だったのに…。
そこに、信也の姿はない。
目の前には、信也が生活していた時のままの部屋がある。
なのに…。
「…あれ?…」
私は信也の部屋で、ある違和感を感じた。
(信也の机、こんなに物が散らかってたっけ?)
綺麗好きな信也は、自分の部屋を整理整頓していた。
なのに、目の前の机の上は、ノートや本、ペン等が散乱している。
(ベッドの布団。あんなにずれてる。)
床に半分落ちた、信也の掛け布団。
まるで、ベッドから落ちたみたいだ。
「あれ?」
ベッドの下にスマホが落ちている。
私はそのスマホを拾い、画面を見た。
真っ暗な画面は、横のボタンを押すと、光を取り戻した。
その画面には、私と信也の姿が写っている。
(信也のだ。)
私は指を画面に添えて、下から上にスクロールした。
「これ…。」
そこには、最後に信也が使ったと思われる最新の痕跡が残されていた。
画面には発信履歴。
119
日付は信也が救急車で運ばれた日と時刻。
信也は自分で救急車を呼んでいた。
私は改めて、部屋を見渡した。
信也にしては珍しく部屋が散らかっている。
あの日、この部屋で一体何が起きたのか、私には想像できてしまった。
あの日、私より早く帰宅した信也は、体の不調を感じ、ベッドに寝ていた。
しかし、苦しくなってきて焦ったのか、急いで机の上に置いたスマホを取ろうとして、ベッドから半分落ちた。
そして、上半身を上げて、手探りで机の上のスマホを探した。
やっとの思いで手にしたスマホで、119を押したのではないだろうか?
私は居ても立ってもいられなくなって、マンションを飛び出した。
外は雪が降り始めていた。
しかしそんなこと構っていられない。
私は大事な事を見落としていた。
信也が最後に過ごしたあの日、どんな状態だったのか、ちゃんと知らなきゃいけない。
私は何をしてたんだろう?
信也の苦しみや絶望を知らないまま、現実から目をそらし続けていた。
(私はなんて、自分勝手なんだろう?信也は苦しい思いをしてたと言うのに!)
最後まで、信也を気遣うことも出来ずに、自分の世界にこもってしまった。
息を切らした軽装の私を見て、救急隊員の方は驚いていた。
こんな雪の日に突然女が必死の形相で消防署に現れれば、ビックリするだろう。
でも、私にはそんな事、どうでも良かった。
「すみません!教えて欲しいんです!12月3日、夜の22時に心臓発作で運ばれた人の事を!」
救急隊員の方は、私を気遣い、中にいれてくれた。
そして、改めて私はここに来た理由と経緯を説明した。
すると、話を聞いていた一人の隊員が手を上げた。
「その方。僕ともう一人の隊員で運びました。」
「ほんとですか?!」
「はい。間違いありません。到着した時、連絡が取れなくなっていて、管理人さんにお願いをして、鍵を開けて貰ったので…。それに、奇跡的な体験をしたので…、よく覚えています。」
それは、私が初めて知った信也の姿だった。
隊員の方が、玄関を開けると、すぐそこに信也は倒れていた。
救急車が来た時、すぐ出られるようにその場に居たのではないかと、隊員さんは言う。
そしてすぐに、信也の脈を取ったが、確認できなかった。
耳を口元に近づけ、呼吸の確認をしたが、息をしている様子もなかったと言う。
しかし、仮死状態と判断し、すぐに心臓マッサージをその場で施す。
すると、微かに脈が確認できた。
そこで、すぐにタンカーに乗せ、救急車の中へ。
心臓マッサージは、車内でも続けられた。
そして、救急車が発進して、1分か2分した頃、急激に信也の呼吸が息を吹き替えした。
その事に安心して、心臓マッサージを止め、声を掛けたそうだ。
すると、信也はうっすらと目を開けて、こう言ったそうだ。
「ごめんな…。」
そう呟いたかと思うと、また呼吸が止まってしまった。
そこからはまた心臓マッサージを続け、病院に着いたが、信也が再び息を吹き返すことはなかった。
「誰かに、話し掛けてるみたいでした。」
隊員さんはそう言った。
それを聞いて、私は思い出した。
それは、マンションの近くで走っていく救急車とすれ違った事。
あの救急車には、信也が乗っていた。
それを知らずに私は走っていく救急車を見ていた。
もしかしたら…。
私は自分でも信じられない位の奇跡を想像した。
救急車が発進してすぐなら、スピードも出ていない。
ゆっくりと進む救急車が私とすれ違うまでに要す時間は1~2分ほどではないだろうか?
私とすれ違う瞬間だけ、神様が信也に時間を与えてくれたのではないだろうか?
「ごめんな。」
その言葉は、すれ違う私に向けられた物だったとしたら…。
そう考えると、私の体は切なさに震えた。
息もしずらい位の嗚咽が口から漏れる。
目からは止められなくなった涙が溢れ出す。
悪かったのは、私なのに…。
私が信也に、八つ当たりしてたのに…。
なんで、信也が謝るの?
その時、私は信也が居なくなってから、初めて声を出して大きな声で泣いた。
周りには救急隊員さんが居たのに、人の目も気にせずに、子供みたいに…。
信也の最期を知り、信也の死を認めた私には、もう信也の音は聴こえなくなった。
私に聴こえていた「信也の音」は、信也からのメッセージだったのかも知れない。
自分の最後の言葉に、気付いて欲しかった、信也の…。
数日後私は、一人暮らしには広すぎるマンションを引っ越した。
部屋を変えても、信也の事を忘れることなんて出来ない。
死を受け入れても、まだまだ悲しみからは抜け出せない。
それに、信也に意地を張って素直に謝る事が出来なかった事は、ずっと後悔として残っている。
人は突然、居なくなってしまう。
その事を知った私は、これらを背負って生きていこうと決めた。
最期の最後まで私を思ってくれた信也の為にも…。
読んで頂き、ありがとうございました。
気に入って頂けたら、幸いです。