お給仕日誌 春
お給仕日誌 春
時は流れ、夏休みの間だけ空いている社宅を使ってもらっていいという許可をもらった春は今日から社宅で暮らす。毎回終電と戦うのは心臓に悪いからだ。
あの日、あの場所で見たものが気になって仕方がない。栞が死んでいるだって?あんなに普通に働いていたではないか。
チリン、と鈴が鳴った。
「おかえりなさいませ、お嬢様」
雑念をひっこめ作業に集中する。
春が働きだしてから女性客が倍以上に増えたらしい。
しかし、春目当てでご帰宅されるらしい女性客からの黄色い声援を春はどう受け止めていいのか混乱していた。
「執事さぁん、お水お願いしまぁす」
これで何度目だろうか。
現場は水の限界大会だった。春と少しでも近くに行きたいという欲望とお金との戦いでどうしたら良いかと考えたお嬢様方は、どうやら水を飲むという結論に至ったらしい。
我先にと水を飲みほし、追加を求める。
理解できない。
だが自分を外見だけでも好いてくれるお客様だ。誠心誠意努めなくては。
「お待たせ致しました」
本日のメインディッシュだ。丸ごとリンゴを使った蜂蜜リンゴパイ。
甘いリンゴの香りとパイの香ばしい香りが堪らない。
「ごゆっくりお寛ぎ下さいませ」
チリン
「おかえりなさいませ」
「あら、お久しぶりねえ、随分にぎわっているようじゃないの。今日はここで良いわ。貴女に話が合って来ただけだから」
この前ご主人についての御話を聞かせて頂いたご婦人だった。
「いえ、大したことはしていませんから」
出まかせで安心させて、もっと酷い事になったというクレームだろうか。
「全部あなたの言う通りだったのよ、主人も打ち明けるタイミングを失ってしまって追い詰めていたようだわ。今はもうぎくしゃくしてないし、本当にありがとう」
「客観的に可能性の高い話をしただけですから」
春は無感情に告げる。
「じゃあ、今日はそれだけ伝えに来ただけだから。あの女の子にもよろしくね」
ご婦人は本当にそれだけ言って帰ってしまった。
それから淡々と仕事を覚えては行動という繰り返しの一日だった。ただ水をお注ぎする所作は美しくなった気がする。
「本日も、お疲れさまでした~」
急に後ろから声がして飛び上がった。足音がしない。
「メっメイド長もお疲れ様でしたってもうクローズの時間ですか……」
考え事をしていたらあっという間すぎて気づかなかった。
「あのこと、誰にも言ってないですよね~?」
「――っ‼ 言っていませんよ」
背中を汗がつーっと伝ってゆくのを感じた。
「死⁉一体どういうことですか?何かの間違えですよね?」
ふふふと不敵に笑う店長が人ならざる者に見える。
「どうゆう事も何も~そのままですよ~」
何が何だかわからない。この女は一体何を言っているのだろうか。
「死んだといえば死んだし~生きていると言えば生きているんですよ~」
すっと息を吸い込み、そのあとに続く言葉が紡ぎだされるのを聞き漏らしてはいけない気がして注意深く待った。
「機械人形―オートマタ―」
「⁉」
「時は二千百年、技術が発達したこの時代で機械仕掛け人形というものの製作技術はめまぐるしいものなのですよ~ご存じでしたか~?」
つまり……栞は機械人形ってこと……?あんなに普通に動いているのに?
「そういうことではなくて!」
「事故以前の記憶がないので、事故を経て本物の栞になったといっても過言ではないですよね~そうね、確か――」
店長が何を話しているのかわからない。言葉が耳に入ってきているはずなのにただの文字の羅列のように聞こえてしまう。
栞が機械人形だって?
どうやって?
何のために?
感情はあるのか?
自覚しているのか?
聞きたいことが多すぎて混乱してしまう。
「ただ――一つ言えることは、自分が死んだと、機械人形であると自覚することとなったら、ただの機械人形に戻ってしまいますからね~努々忘れないことですね」
言うわけがない。言えるわけがない。
人形に戻ってしまったらどうなってしまうのだろうか。
静かに目を伏せる。考えを改めよう。自分には関係ないことだ。
「お疲れ様でした」
クローズの作業は完璧にこなした。元々頭も良く容量も良い。
そそくさと二階の春に割り当てられた部屋に向かう。
必要なものをまだ完全には運べていない部屋は、かなり殺風景だった。
コンコン。
誰かが扉をノックしている。こんな時間に誰だろうか。
扉を開ける。誰もいない。なんだろうか考えすぎなのだろうか。
ふっと下を見ると頭が見えた。
今まで春の頭を悩ませる原因の彼女だった。
身長が小さいせいで、視界に入っていなかった。
「夜分遅くに失礼します。あの、隣の部屋に住んでいます栞です。まだ面接の時でしかお給仕被ったことないですが、どうぞよろしくお願いします」
ペコリとお辞儀する栞を見て人形だなんてそんな風には見えなかった。
「春です。素敵な名前を付けてくださってありがとうございます、あの時何も言えなかったですけど少し嬉しかったです」
にこっと微笑む。嘘だ。春なんて一番嫌いな季節だというのに。
「本当ですか⁉有難うございます‼ちょっと心配だったので、嫌じゃなかったかな、なんて」
「でもなんで、春なんて名前思いついたのですか?」
彼女がもじもじしながら、こちらを見る。
「春さんって実はとっても優しい人……なんですよね?なんとなく分かる気がして」
「いや……栞さんが思うほど優しくは……」
「オーラというか、分かるんです。気づいてらっしゃらないかもしれないけど‼だからだから‼ぴったり……だなって」
必死に自分のことを優しいと伝えようとして頑張る彼女が可笑しくて。
「ぷっ」
いつだろうか、可笑しいなんて。
人に感情を動かされるなんて。
「なっどうして笑うんですか……何もしていないのに。それであの、隣の部屋に居るので、何かあったら遠慮なく入ってきて構いませんので」
入ってきて構わないって、そんなセキュリティが甘いのは一人の女性として結構アウトな発言ではないか?一人の女性……と呼んでいいのかは分からないが。
「あっ、もうこんな時間じゃないですか‼すみません遅くに。失礼します‼」
バタバタと隣の部屋に帰っていく彼女の背中を春はどこか温かい目で見送った。
あれが人形?ドッキリか何かだろうバカバカしい。そう思いながら就寝の支度を整え、静かに目を閉じた。