お給仕日誌 栞
お給仕日誌 栞
「おかえりなさいませ」
そういって今日もまたお客様、ここでは旦那様、お嬢様を迎えるのが栞の日常である。
おかえりなさいませ、に続く呼称をいまだ言えずにいるのは自覚がある。少し恥ずかしい。
厳密に言うと、おかえりなさいませだけで良いとは言われているが、言わねばという使命感が栞にはあった。
都心の閑静な住宅街をまっすぐ突き進んだ先にぽつんとある洋館、メイド喫茶「秘密の洋館」に勤めるメイド、栞は研修が明けてやっと一人前を認められたメイドである。黒いロングワンピースにふんだんにレースをあしらった白のエプロン、加えて首元を覆い隠すほどの襟元にはカメオのブローチがついた紅のリボン、後ろでまとめた長い髪の上には真っ白なヘッドドレス。
このお店は一般の人が想像するメイド喫茶のような、いわゆる萌え系のメイド喫茶ではない。
ここではメイドがお嬢様や旦那様の一歩後ろでお仕えし、飲食物の配膳、居心地の良い空間を提供するという純クラシカルなメイド喫茶だ。
呼び鈴が鳴る。
「失礼致します、ご注文をお伺い致します」
「いつもの栞さんのブレンドで」
「栞ブレンド、茶葉二倍ミルクティーですね、かしこまりました。ご用意致します」
注文をお伺いし、準備に取り掛かる。オーダーしたのは、まだ少女の面影がちらりと見えるクロネコお嬢様、本名は知らない。
店にはメイドが五人所属しており、立地が住宅街の外れというのもあってあまり客入りは良くないが、一度洋館に訪れたお客様は必ずもう一度通ってくれるという驚異のリピート率を誇る。
「お待たせ致しました」
アッサムの香りとラベンダーの香りが鼻腔をくすぐる。
「お注ぎしても宜しいですか?」
「お願いします」
ここではお客様のカップにメイドが飲み物を注ぐことになっている。
洋館ではメイドが作る料理、デザートに加え、紅茶が楽しめる。リーフティから紅茶のゴールデンルールを守って作られた紅茶は、美味しいと評判だ。
「栞さんはラベンダーがお好きなのですか?」
「はい」
トーク力は乏しい。普段口下手であると自負がある栞にとってお客さんとの会話は少し苦手だった。だがここに来るお客さんは皆温かい人ばかりで大好きだ。
自然と頬が緩む。
「今日も栞さんはとっても麗しいです」
ぽっと頬を赤く染めながらお嬢様が言う。
麗しい…そんな美しい言い回しを使って違和感が無いのはこのお嬢様くらいだ。
「有難うございます。お嬢様もいつも通り可愛らしいですよ」
事実だ。実際クロネコお嬢様は可愛らしい。近所に住んでいるらしく、よく来る常連さんだ。艶やかな長い黒髪を背中あたりまで伸ばし、身長は百五十センチぐらいだろうか、服もレトロな花柄のワンピースを着ていて、色白の肌に丸い金縁眼鏡がよく似合っている。
「最近はお変わりありませんか?」
「元気にしていますよ、でも最近なんだかミーコが元気なくて……ほら、この前足を怪我してね」
ミーコというのはクロネコさんが飼っている猫だ。
「ケガもそうですが、夏バテも、でしょうか、心配ですね」
「ええ、でも最近……」
バタバタとメイド長がこちらへ走ってくる音が聞こえる。
「新入りさんの面接しますよ~」
この独特の語尾を伸ばす話し方、おっとりとした雰囲気も相まって年齢は不詳。丁度ミルクティーのような色の髪をきちっと束ねている。噂によると過去に沢山の旦那様が我が物にしようとしたとかしなかったとか。
「かしこまりました。お嬢様、お話の途中で申し訳ございません、失礼致します」
お嬢様との会話を途中で切る形になってしまったが、面接の準備に取り掛かる。
新しいメイドさんだろうか、可愛い子なのかなとウキウキし出した心を静め、紅茶を入れる。
耐熱ポットを沸騰したお湯で温め、ポットも同時に温める。茶葉を入れ、再び沸騰したお湯で可能な限り高い位置からお湯を注ぎ入れる。注ぎ入れ終わったらタイマーをセット、残ったお湯でカップを温める。研修で先輩メイドに叩き込まれたこの紅茶の作り方は、もう体に染みついている。
ふわっと風が吹き、空気が動く。目を向けると、見慣れない青年がいた。
黒縁の眼鏡から覗くのは切れ長の目、通った鼻筋に薄い唇。少女漫画から飛び出してきたような、美貌を兼ね備えた青年だった。が、何も映っていないかのような黒いガラス玉のような目が印象強い。
「お待たせいたしました、紅茶こちらに置いておくのでお好きにお召し上がりください」
面接が始まるので、そそくさと立ち去ろうとしたところだった。
「面接に参りました、神崎 実です。 よろしくお願い致します!」
お辞儀は九十度、眼鏡を上下するその仕草は初めの印象とは打って変わって某子供向けアニメの学級院長のそれだった。
「あのですね、私がこの面接に受かりました暁には‼」
立ったまま志望動機を述べる様はなにかの選挙にしか見えず、というかそのルックスでそれはアンバランスすぎやしないかと栞は頭を抱えた。
メイド長はというとにこにこしたまま固まっている。
「まあまあ、落ち着いて~」
軽くいさめて席に座らせる。
「はぁっ!」
なぜこんなキャラが濃い人間が迷い込んでくるのだろうか、ルックスが良い為余計に残念さが際立つ。
面接はメイド長に任せ、自分の仕事に戻る。
チリン、という音とともに扉が開く。
「おかえりなさいませ、あれっ」
現れたのは黒髪ボブの溌溂とした少女、同僚の小町だった。
「栞~、早く来すぎちゃったからちょっと休ませて~!」
小町は元気だ。彼女がいる洋館はパッと明るくなる。
「いいよ、アイスティで、いい?」
返事を聞く前にアイスティを入れる。今日のアイスティはアールグレイだ。
「いいよ~」
たっぷりの氷が詰まったグラスに透き通ったオレンジ色の液体を入れる。同時に氷がぱちぱちと音を立て溶けていくのはとても涼やかで好きだ。
アイスティーをレースのコースターの上に置き、シロップを添える。シロップなしでも絶品だが、甘党にはシロップが欠かせないらしい。小町はドバドバとシロップを入れる。
「今日もあの旦那様来てるねぇ」
小声で小町が冷やかす。
店内にはメイド長と面接のキャラが濃い青年、小町と栞、そして常連さんのクロネコお嬢様とタナカさんという旦那様がいる。
「やめてよ」
冷やかされてカッと頬が熱くなるのを感じた。
こちらをタナカさんがチラッと見たのを感じてこちらも思わず見てしまった。カップが空になっている。
「失礼致します、お紅茶お注ぎいたしますね」
冷静さを取り戻しながらいつものように注ぐ。こちらも栞のブレンドティだ。
「栞さん、今日はなんだか雰囲気が違いますね」
「あら、そうですか?」
「前髪が三㎜程短くなったか、いつもより巻きが強いか……」
鋭い。些細な変化にもすかさず気づく。
「さすが、タナカさんは鋭いですね」
「もちろん、栞推しだからね」
どや顔で言い切った。
「あ~、旦那様はお上手ですね、いつもありがとうございます、失礼致します」
恥ずかしくていつも顔が見られない。すぐに退散する。
物腰の柔らかそうな男性で、年齢は三十程と聞いたことがある、黒髪を横に流した清潔感のある旦那様で、メイドたちからの信頼も厚い。栞推しと言ってくれる唯一のお客様だ。
「あら、栞さん様子がおかしいわ、どうしたの?」
クロネコお嬢様がいらない心配をしてくれる。
「大丈夫です」
なんとか作り笑いをしてごまかす。
「お嬢様、そろそろお時間ですが、いかがなさいますか?」
「お出掛けしますね」
「かしこまりました」
会計を済ませ、お嬢様を扉までお見送りする。
「いってらっしゃいませ」
外までお見送りをするが、特に通りを通行人が行き来するわけではないため、特に恥ずかしいことはない。ただ、時たまタイミングが合うと、通行人にじろじろ見られるのは、居心地が悪い。
一時間ワンオーダー制なので一時間でこちらからお声掛けをする事になっている。
大体のお客様は一時間でお出掛けする為、その一時間の中で紅茶を飲み、料理を召し上がる方、メイドさんと少しお話をする方等様々だ。
チリン、とまた扉が開いた。
やってきたのは、見てわかるほど質の良い洋服に身を包んだご婦人だった。
「おかえりなさいませ」
奥様、というと結婚していない方に対しては失礼に当たる気がしてその呼称は使わなかった。めずらしい、四十過ぎだろうか、あまり来ない年齢のお客様だが、そんなことはさして問題ではない。
「今日はね、ちょっと話し相手になってほしくて来たのよ。あ、アッサムのミルクティーを一つお願い。」
話し方はハキハキとしていて、見た目よりは老けていない印象だ。
紅茶を作りながら耳を傾ける。
「わたしの夫がね、最近私を相手してくれないのよ、昔はたくさんお話ししてくれたのに……昔からおしどり夫婦なんて呼ばれて有名だったのよ」
ウフフといいながらご婦人は昔に思いを馳せる。たしかこんな夏の頃だっただろうか――ご婦人、本田美幸は昔を思い出す。
幼少のころから両親からの厳しい教育を受けてきた美幸だったが、両親の期待には難なく応えてきた方だと思う。中高一貫の女子高に通い、清く健全な生活をしてきた。そんな美幸にとって男女共学の大学は憧れだった。
「おはよう」
「美幸、お手紙来ているわよ」
そういって母に手渡されたのは一通の手紙だった。
当時携帯はそこまで普及していないというわけではなかったが、教育熱心な親にとって携帯など不必要なものと判断したらしい。外界とつながる方法は文通以外なかった。
昔居た友人は勉強漬けの美幸を遠巻きに見ているだけで徐々に疎遠になっていた。
当時の美幸はこの生活をどう抜け出せるかばかり考えていた。
差出人不明
大学のオープンキャンパスで知り合った文学サークルの学生で、連絡先を聞かれたので家の住所を教えた。携帯を持っていないので手紙でしかつながることはできない、と。
翌日から手紙が届くようになった。携帯が普及している時代に手紙など付き合ってくれる人がいるのだなと深く感心していた。そんな優しい彼のいる大学に進学したい、だがそんなこと言えば、頭の固い両親が賛成するわけがない。
男女共学の大学であったが偏差値が高い大学の為、文句は言われなかった。同機は伏せて猛勉強し、念願
の大学に無事合格することができた。
大学に入学した美幸は真っ先に文学サークルへ急いだ。
「失礼します」
ノックをして返事を待たずに入った。会いたいという一心でここまで来たわけだが、尋ねると部員に美幸が出会った男子学生はサークルに在籍していないことが分かった。
手紙で大学での話を聞いてみるとなぜか手紙のやりとりも途切れてしまい、初めは途方に暮れたが日々の忙しさでだんだんと意識が薄れていった。
大学を卒業し、服飾系の会社に就職したが、両親から親交が深い方との縁談の話が上がり早々にまとめた。そこで出会ったのが今の夫、本田 優である。生真面目で穏やかな性格である彼と、朗らかで笑顔の絶えない美幸の相性は良く、ぶつかることがなければ、喧嘩も無い。
親が決めた相手とは言え、お互いに居心地の良い結婚生活だったと思う。
ぎくしゃくしたきっかけは二人で昔のものを整理していた時のこと。
「これは捨てていいものかい?」
「いいわよ~、あら、これ、可愛いわね、昔の思い出箱みたいなものかしら?」
夫の持ち物の中では一番古そうな、長方形の木箱が置いてあった。優の若いころを知らない美幸にとっては昔のことを知れるのではという期待が大きく膨らんだ。
「それには触るな」
ビクッとして手が震えた。穏やかな優が大きな声を上げた。顔を上げると優は今までに見せたことのない顔をしていた。
しゅん、としながら手を引っ込める。すると温かい大きな手が美幸の頭を包んだ。
「大きな声を出してしまってごめんね」
人には誰しも見られたくないものもあるなと、納得し優しい夫の手を包み返す。温かい。人の愛情というのはやはり温かいものだ。閉鎖された家に一生いたのでは味わうことができなかった幸福に触れ、自身の名前を恨むこともなくなったのである。
夫が美幸の本を持ち上げたときにパサッと何かが落ちる音がした。
手紙、だった。止める間もなく夫が二つ折りになっているそれを開く。
やましい内容ではなかった。だがそれを夫に見られるのは憚られた。今の今まで幸せすぎて手紙のことなど忘れていた。
翌日から夫の様子がおかしくなった。
「他の人と文通していたということを知って旦那様が嫉妬されたのではないですか?」
「やっぱり?そう思うわよね……私ったらつい、気が動転してしまって初恋がどうとか口走ってしまったのが良くなかったのよね。いつになったら期限直してくれるのかしら、嫉妬でへそを曲げているとしたらなんだか可愛いわね、ふふっ」
「なるほど、話は聞かせて頂きました」
びくっとして後ろを見るといつの間にか容姿端麗な執事が居た。盗み聞きしていたことを咎めるつもりが、あの独特のキャラからの変貌に口をぱくぱくさせるしかなかった。
しかも、なぜか眼鏡が無い。
「奥様、あなた今おいくつですか?」
「それはそれは……女性にそんなこと聞くものでは、無いと思います!」
メイドさんはお淑やかに、そう心がけていたはずだったがつい取り乱してしまった。
注意されても尚涼やかにしている見習い執事を静かに睨みつけ、口を噤む。
こちらの行動をにこにこと眺めていたお嬢様は、
「今年でちょうど四十になったところよ」
「そうですか、有難うございます。貴女の御話を聞いているといくつか矛盾する発言がございました」
奥様の眉間にしわが寄った。
「どこが、ですか?」
居た堪れなくなって代わりに口を出してしまった。
「ただいま四十ということは大学だと約二十年前、世の人間はスマートフォンを誰もが持っている時代です」
確かに、何となく奥様の御話と世間が一致していない違和感があった。
「お手紙が翌日届いたと言いますが、その日に送って翌日届くというのは郵便の配達の時間を考えると不自然なように思います。一通目の消印の日にちを見て頂けると判明することだと思います」
「つまり……私が文通していたのはあの文学サークルの人ではなかったということ?」
「その可能性が高いです。正直な話、スマートフォンで気軽に繋がれる時代に、住所を教えられて手紙を送るなんて人間は少ないと思います、さらにお嬢様から外界からの情報を制限するような両親が男性との文通を許すとお思いですか?」
「……確かに。ではサークルにあの人がいないのはどうしてかしら?」
「いい話ではないですが、仮にその彼がただのナンパ目的であった場合、そこの在校生を名乗った方が警戒心が解けると考えるのが普通です」
「ならあの人はただのナンパ男で、私が本当に文通していたのは……」
「両親からの親交の制限がかからず、住所を知っている男性ということ、そこから考えられる可能性としては……」
「本田 優さん、貴女の旦那様、ということになります。差出人不明な訳も、きっと親同士の周知の上だったからというと納得がいきます。奥様が他の男性だと思って自分と文通していると知った時の旦那様の気持ちは僕には分かりません、ですがきっと旦那様は奥様に秘密を知られてはいけない、奥様の初恋を守らなければならないと思ったのでしょう」
なんとも素敵な話ではないか、と栞は感動した。
同時にズキッとした鋭い痛みを感じたが、すぐに収まった。
「なるほど、それなら納得がいきますね、なんだかスッキリ致しました。」
「確証も保証はないです、なので――」
「いえ、結構です。夫と話し合います」
晴れやかな笑顔でご婦人が立ち上がった。
「お見送り致します」
栞もすかさず奥様の前に出る。
「アッサムのミルクティー、美味しかったわ。ありがとう。行ってきます」
「いってらっしゃいませ」
私だけではただ話を聞くことしかできなかった。自分への悔しさとお嬢様の幸せに満ちた笑顔を思い出すとなんだか感情がぐちゃぐちゃになってゆく気がした。
「ちょっと~、まだ面接終わってないでしょ~」
明らかに遅いタイミングでメイド長がパタパタと走ってくるのが聞こえる。
「メイド長、この人採用で……良いと、思います」
癪だが、はったりにしても一人のお客様の気持ちに寄り添って前向きな気持ちにさせるというのは能力だと思う。
「栞が言うなら間違いは無いですね~じゃあ今日から執事とメイドの喫茶に決定~」
随分軽く宣言したが、結構重要な変化が今日起こったようだ。
「小町、もうそろそろ、交代の時間だよ。……準備しなくていいの?」
「いっけない!もうこんな時間?」
ガタガタと音を立てて小町が準備に急ぐ。
栞も引き継ぎのために、自分が使った器具を片付け始めた。
どこからか栞を呼ぶ声が聞こえた。
「栞さん、お出かけします」
タナカさんだ。いつも栞の出勤の初めから終わりまでいる彼のお見送りして、栞のちょうど退勤時間だろうか。
「本日もありがとうございました、旦那様お気をつけて、いってらっしゃいませ」
深々とお辞儀をし、姿が見えなくなるまで頭を挙げないこと。これも体に染みついている。
身を翻して、旦那様が使ったテーブルを片付け始める。ふと紙ナプキンに何か字が書いてあるような気がしたが、流石に使用済みのナプキンを凝視するのは躊躇われた、静かにゴミ箱に捨てた。
「栞、着替え終わったから上がっていいよ~」
いつの間にか準備が完了した小町が後ろに居た。
閲覧有難うございます。
投稿は初めてなので、何でも良いので感想が御座いましたらお願いしたいと存じます。
ここはちょっと良く分からないだとか、アドバイスも受け付けておりますのでお気軽にどうぞ。