狩人はひとりずつ
五作目の短編です。よろしくお願いします。
1
七月六日。午前九時。
窓の外から見えるのは、灰色の空。そこから落ちているのは、冷たい雨。コンクリートに当たって、まるで飴玉を落としたみたいな音を鳴らす。
僕は読み終わった小説を棚に戻す。何処にも傷がつかないように、丁寧に、慎重に。爆弾処理に従事している気分を味わった後、僕は立ち上がり、居間へ向かった。居間のテーブルには、当然のように朝食は用意されていなかった。
僕は母子家庭なのだが、母親が滅多に帰らず、帰ってきたとしても夜明け前の数時間という有り様である。実質独り暮らしだ。母の帰らない理由は、恐らく男だろう。離婚する前から男癖の悪い母だった。
学校では三者懇談が行われる季節だ。高校三年の三者懇談という、受験上の重要ポイントだが、僕は出席するつもりはない。そもそも、ここ数日は無断欠席が続いている。元からサボり癖のある僕なので、担任は電話などはしない。ある意味、融通の利く教師で助かる。それに担任は、僕が進学するつもりがないこと、仮に私立を受けたとして、学費を払える要素が乏しいことを承知している。気を遣っているのか、諦めているのか、どちらでも僕は構わないが、干渉してこないのは誉めるべき点だ。
遅めの朝のニュースを見る。天気予報では、今後、一週間ほど雨が続くとのことだった。このうんざりする天気が一週間も続く、そう考えるだけで動く気は磨り潰される。ニュースを惰性で見続ける。何かの大臣が失言で失脚しただとか、何処かの県で殺人事件が起きただとか、何処かの誰かが自殺しただとか……。すべてがどうでもいい。全部、この長雨に曝されて流れてしまえばいい。僕はベランダで、少し雨に打たせて、熱を冷ました。
呼吸が苦しくなって、目眩がする。自室の机の上にある錠剤を手に取って、規定の服用量とおまけの一粒を飲み下した。途端に目眩が加速して、僕はベッドに倒れ込む。何の薬だったっけ? 精神安定剤? 頭が痛い。けれども、目眩は小さくなり、僕は頭を振った。頭痛も消えた。
僕には悩みがある。そう言うと、家庭の問題とか、受験の問題とかって訊かれるけれど、そんな具体的な悩みなら噛み殺せばいいことだ。しかし、僕の悩みは、際限なく、断続的に僕を苛んでいる。癒えないケロイドが熱を持つみたいに、僕から離れないまま十余年。悩みは加速し、僕では抑えきれず、臨界点を突破しそうな勢いだ。
僕の悩みは「殺人欲求」だ。それは雨が溜まっていくように、膿が溜まっていくように、僕を蝕んで、いよいよ、外に出さなければならない時がやって来た。殺したい。殺したい。何でもいいから命を奪いたい。精神安定剤を取って、四粒を一気に飲み下す。頭の中で数えきれない星がぐるぐると回転して、次第に澄んだ世界を創り出す。
「そうだ、殺しに行こう」
脳内の複数の僕が、最も極端で直線的な解を満場一致で導き出した。
リュックにナイフ、財布、読み掛けの小説、スマホを入れて、部屋の観葉植物に水を与え、鍵を締めて家を出た。
僕の家は離婚した父親が建てたものだ。少し剥げた壁の白が醜いので、僕は残りの白も剥ぎ取った。ポストには母宛の手紙が何通かあり、どれもこれもロクなものではないと思ったので、ポストに放置しておいた。
雨が冷たいので、レインコートを着た。真っ黒なレインコートだ。
僕は傘が好きではない。持っていると、手が錆びたようにぎこちなくなってしまう、その感覚が耐えられないのだ。だから、レインコートを着て移動する。
時間は十時半。
まずは場所を絞らないといけない。ひとまず、スマホのマップで、三キロほど離れた団地へ向かうことにした。お金は節約したかったので、準備運動も兼ねて歩くことにした。普段、歩かない所為か、一キロも歩くと足が痛み始めた。靴の裏から鈍い痛みが伝わって、踏み出す度に響いてくるのだ。おまけにこの天候だ。いくらか回復したとはいえ、アスファルトに注いだことに変わりはなく、滑りやすいので自然に強く踏み込んでしまうのだ。それが足に負荷をかけているようで、少し歩いては止まり、少し歩いては止まり、を繰り返していた。
川原を歩いていると、同じようにレインコートを着て、犬の散歩をしている老人を見掛けた。彼の方がよっぽど強い足腰をしているに違いない。大型犬の部類に入るであろう犬に引っ張られながら、足を進めていた。推進力というものは大切で、何か目的や欲求があればあるほど、人は前を向いて進むことができる。今の僕は「殺人欲求」で動く出来の悪い木偶人形だ。一見、自我のように見える欲求でさえ、自分では制御できないのだから、僕は操られているのと同じだ。ただ、よくあるマリオネットよりも糸の数が遥かに多いだけだ。
漸く目的地の団地に到着した。まるで要塞のように聳え立つコンクリートのそれは、余所者を受け付けないという固い意思を見せつけているようだった。
ひとまず、監視カメラの位置を確認する。少し古めのものを選んだのだが、やはり、監視の眼は設置されていた。しかし、そんなに数は多くない。死角も探せばありそうだった。それに、この黒いレインコートがあれば、多少は特定を防げる筈だ。
一号棟エリアを彷徨いていると、赤いレインコートを着た少女が遊んでいるのが見えた。水溜まりを飛び越したり、そこに飛び込んだりしているようだ。いかにも子供らしい、単純で非生産的な遊びだが、何処か愛しく思えるのは、幼い頃の自分に重ねるからなのだろう。僕の幼い頃の、本当にちっぽけな幸福の記憶。
僕は考えるより先に動き出した。これこそ、マリオネット状態で、僕が「欲求」に支配されている証拠だ。普段の僕なら、もう少し、慎重に動けたのではないだろうか。
少女に静かに近付く。叫ばれたりしたら終了だ。なるべく、フレンドリーに、それでいて怪しまれないように。
「やぁ、雨は好きかい?」
履き違えたフレンドリーが口から流れる。「欲求」はどうやら、僕が思っていた以上に低能らしい。
「うん、好き」と少女。怪しんでいる様子はあまり見受けられない。赤いレインコートに赤い長靴。頬も少し赤いのは、跳ねて遊んだからだろうか、空気が冷たいからだろうか。熟れかけの林檎を想像した。
「ねぇ、何処か、遠くへ行ってみない?」
呆れるほど怪しい誘い文句である。僕に少しだけでいいから、脳の制御権を返して欲しいものだ。
「遠いところ?」
僕の不安を掻き消すような少女の煌めく瞳。この後、殺されるなんて夢にも思っていないだろう。僕はこの少女をターゲットに定めた。
「そう。遠いところ。君が見たこともないような。ついておいでよ」
僕が歩き出すと、少女もついてくる。子供の簡単さに感謝する一方で、進展が早すぎて不安が募っていくのを感じた。
2
僕は少女を団地の敷地から連れ出して、「秘密基地」と呼んでいる廃工場に向かった。レインコートで身を守ったので、カメラに顔は映っていない筈だ。
「ここなぁに?」
少女が期待と不安を混ぜ合わせたような声で言う。
「僕の秘密基地だよ」
遠くに聞こえる雨の音。錆びた鉄の匂い。薄暗い足元。
少女は怯えているようだった。
「怖いよ……」
「大丈夫だよ。僕がいるから」
何が大丈夫なのだろうか。僕の脳の麻痺具合は深刻なようだ。
「うん、わかった。怖くない」
少女は顔を上げて、僕の元へ来る。
ひとまず、安心だ。この怯えようならば、廃工場から逃げ出そうなんて試みは不可能だろう。僕がいなければ、少女は動けない。そして、ここなら、叫んでも、喚いても、誰ひとりとしてやって来ない。僕が小学生の頃に友人と開拓した廃工場。もう十年近く放置されているのだ。
「ねぇ、君、名前は?」
「……メグミ」
「いい名前だね。安心していいよ。この秘密基地のことなら、僕は全部知ってるんだ」
「オバケとか出ない?」
「大丈夫。君を迎えるために、ちゃんと退治したからさ」
普段の僕には言えない言葉たち。きっと、麻痺した結果、封印されている引き出しが次々と開けられてしまっているのだろう。僕の箍が外れかけている、というのもある。
「お腹空いた」
「ごめんね、今は何も持ってないんだ。何か食べたいものはある?」
「チョコクッキー!」
少女は状況を認識できていないような元気さで言う。
「いいよ。じゃあ、買ってくるからね。大人しく待っててね」
「うん」と少女は答えて、まだ錆が少ない鉄骨の上に座った。
僕は少女に尾けられないように、素早く廃工場から出た。「秘密基地」は廃工場の奥にある。それに、基地までの道のりは、侵入者が辿り着けないように、迷路のようになっている。薄暗さも相まって、正確なルートを知っているのは、僕と小学生以来の友人のふたりのみだった。
チョコクッキーをコンビニで買ったついでに、ホームセンターに寄って、必要なものを買い揃えた。新しいレインコートも買った。前の黒いのは、廃工場の入り口付近で捨てた。
僕は早足で廃工場に戻った。雨は霧のように細かい。廃工場の入り口を開けて(実は鍵がある)、薄暗い迷路を開けた空間まで進んだ。
「チョコクッキー、買ってきたよ」
僕は少女を呼ぶ。空虚な空間に僕の声が響き渡る。しかし、肝心な少女の声は帰って来ない。
逃がしたか?
確かに不相応なくらいに落ち着いていた。僕の後をこっこり尾けて、廃工場から出たのだろうか? そうなると、僕が少女を連れ出したことが露見する。「欲求」がどうとか、そんなことを言っている時ではない。ひとまず、廃工場内を探す。物陰、物陰と、人が隠れることができそうな場所を探し回る。
くそっ。
歯を軋ませて、廃工場内を走り回る。下手に動くと、僕でさえ迷ってしまいそうだ。
少し離れた空間に入ると、嵩張った鉄屑の山の麓で蹲っている影を見つけた。僕が影に触ると、声がした。
「見つかっちゃったぁ」
少女の声である。
「探したよ。何してたの?」
「かくれんぼだよ」
「暗いから迷っちゃうよ」
「大丈夫だよ」
大丈夫? 根拠はないだろうが、少し背筋に寒気を感じた。この少女がルートを把握しているとしたら? 結論はひとつ。
早く欲求を叶えないといけない。
僕は少女を基地に連れ戻した。
「地面もガラクタが沢山あって危ないから、あんまり遠くへ行かないでね。それに暗いし」
「うん。大丈夫だよ」
さて、どのタイミングで殺そうか。初めての殺人。長年、蓄積した「殺人欲求」を吐き出す記念すべき時。下手な殺人はしたくない。
少女を見ると、鼻唄を歌っている。子供とは恐ろしいもので、この状況に順応しているようだ。いや、この少女だけだろうか。ここまで落ち着かれると、殺すのに少しだけ抵抗がある。それは単純に僕の理想していたシーンと齟齬があるのだ。僕は少年少女趣味はないが、泣き叫んだり、暴れたりして、その幼い顔が苦痛に歪むのが理想なのだ。フィクションの見すぎかもしれないが、これが理想だ。
今は午後三時。そうだ、今日中に終わらせてやろう。
3
午後七時。
廃工場の割れた窓から見える空は、多少の雲があるようだが、その隙間には黒く澄んだ夜が広がっている。月が出ているようで、仄かな光が差し込んで、廃工場の寂しさを演出している。
少女は眠そうに眼を擦っている。眠られると、殺す時の反応が鈍りそうだ。しかし、まだ時間はある。一度、仮眠をさせるのも手だ。下準備が大切、なんて一端の料理人かアーティストのようなことを呟く。
「眠いなら、眠って大丈夫だよ」
「でも……、お母さん……」
「お母さんなら大丈夫。ちゃんと、連絡はしてあるよ」
そう言うと少女は安心したように眼を閉じる。危機感のないところが不気味だ。
少女が眠ったことを確認して、スマホを取り出す。まず、ネットニュースを開くと、当然のように「幼児行方不明」の文字。タップして、記事を開く。
「……七歳の女の子、高戸芽実ちゃんが昼から行方不明。まぁ、この子だろうな……」
その後の記事にあったのは、監視カメラに黒いレインコートの人物が少女ちゃんを連れ出した、という内容だった。
「まぁ、進度は予想通り」
どんなルートで捜索をすれば、この廃工場に辿り着くだろうか。この周辺には監視カメラはないし、人通りも非常に乏しい。
少女を基地に置いて、僕は廃工場の外へ出た。夏のものとは思えない冷たい空気。今年は冷夏なのだろうか。月が綺麗だ。「満月の狂人」と呼ばれた殺人鬼を思い出したが、僕と彼で共通するのは「殺人欲求」だけだろう。外の雨上がりの新鮮な空気を肺に勢いよく押し込んで、錆びた空気が充満する工場に戻った。
薄暗い中で、唐突にスマホの通知音が甲高く鳴った。見ると、友人からのメールだ。例の小学生以来の友人である。僕の唯一の友人だと言っても過言ではない。彼は僕を唯一の友人だとは思ってはいないだろうけれど、それは仕方がない。
「学校いい加減来いよー」という内容。しかし、僕には行く理由がない。進学などどうでもいい、早く働いて自立して、母親という存在から逃げ出したい。
僕は「気が向いたら」と返信して、スマホを閉じた。
廃工場の鉄屑と瓦礫の混じった道を歩いて、基地に戻った。もしかしたら、少女がいないかもしれないという懸念があったが、それは杞憂だった。少女はさっきと同じ場所に、変わらずに寝ていた。しかし、今から彼女は劇的に変わった後、永遠に変わらなくなる。その変化、まるで各駅停車の電車のような想像をして、僕は心の外側に近い場所で火を灯した。
午後十時になったら、少女を起こして、実行する。取り敢えず、僕は買ってきた唐揚げ弁当を食べた。すっかり冷めてしまっていたが、僕には丁度良かった。
僕は時間を潰すために、工場内を散歩することにした。
月の光に照らされた廃工場は、まるでファンタジーの世界の聖域のように、冷たい光に満ちている。小学生の時の落書きが所々に見つけることが出来て、当時の僕はこうだったんだな、とかノスタルジックが頭を巡っていた。あの頃は、まだ父親がいて……。人生の選択というものは、常に自分の傍にいて、ここぞとばかりに飛び出してくる。あの時、選び間違えた選択肢。正しい選択肢を選んだ僕もきっといるのだろう。
ここで僕はまた選択肢に直面している。それは、本当に殺すのか、踏み留まるのか。僕の理性は少なからず生きている。本当に「欲求」に身を任せてもいいものか。
「どう思う?」
僕は脳内の僕たちに話し掛けるが、恐らく半分の僕は「欲求」の支配下にあるのだろう。頭の中に赤い靄がかかっているようで、考えようとすると頭が痛い。
「わかったよ」
殺せば、この赤い靄も消えるだろう。
僕は基地に戻って、少女の頬に触れた。
温度を感じるのは、生きている証拠だ。
4
午後十時。
少女を優しく揺らして眼を醒まさせる。
「起きて」
少女が寝惚け眼で虚空を見つめている。
「……お家に帰りたい」
少女は言う。残念だが、この言葉は見過ごせない。この言葉が出た時点で、少女の未来は閉ざされる決定がなされたのだ。
「わかった、すぐに帰ろうね」
僕はそんな優しい言葉を投げて、少女の首を掴む。手袋はホームセンターで購入済みである。
「何処へ帰りたい?」
「……お家」
少女は苦しそうに言う。少しずつ、顔が歪んでいく。
「お家って何だろう? 長い時間を過ごす場所のこと? だったら、今日からは、ここが君のお家だよ」
僕は手の力を強めて、ゆっくりと緩める。首に赤い線がくっきりと残っている。
「お洒落だね」
僕が言うと、少女は泣き出した。今まで感じていなかった恐怖が、ここで顕現したのだろう。割れそうに泣くので、口を押さえた。眼から溢れ出してくる大粒の涙が月の光を映して煌めいている。
「お願い、助けて?」
少女は自分の状況を理解したようだ。何とも賢い少女だ。しかし、状況を理解しても、どれだけ願っても、彼女に救いの道はない。あるとしたら、死ぬしかない。
僕は少女の右の頬を強く叩いた。少女は一瞬だけ固まった後、さっきよりも甲高く、姦しく泣いた。
取り出したナイフで左の頬を刺す。またしても、一瞬だけ固まり、夜を震わせるように泣き叫んだ。僕の手も震えていたが、僕の脳内は酷く落ち着いていた。
「痛いよ、痛いよぉ」
辛うじて言葉になったそれは、あまりに典型的で、僕はこの賢い少女に無駄な期待を抱いていたことを知る。
「痛い? じゃあ、これあげるよ」
僕は彼女の所望したチョコクッキーを、彼女の口に捩じ込んだ。苦しそうに、痛そうに、眼を細めたりしていたが、ゆっくりと噛んで、喉を小さく動かした。
「美味しい?」
少女はこくりと頷く。さて、最期の晩餐も終えたことだし、そろそろ本番だ。
「最期にさ、何か言いたいことはある?」
「……痛い」
「それでいいんだね」
僕は少女の右腕にナイフを刺して、ゆっくりと回転させた。少女がショック死しないように、ゆっくりと慎重に。少女は少し動かす度に、割れそうな声で叫ぶ。
煩いなぁ。
僕はホームセンターで購入したタオルを口に突っ込んだ。少女がもごもごと何か言おうとしたが、腕から飛び散る血と痛みに怯えたのか、すぐに黙ってしまった。
ナイフを動かす作業に戻り、半周ほどさせた後、ナイフを抜いた。血がゆっくりと流れ出る。
次はどうしようか。ひとまず、左腕をナイフで刺して、横に引いた。そして、ナイフを抜く。
「痛い? 大丈夫?」
少女はゆっくりと首を振る。精一杯の自己主張だ。
「そっか。もう少しだからね、我慢だよ」
ナイフを少女の腹に突き刺す。恐らく絶叫しているのだろうが、タオルが邪魔をするので伝わることはない。
力を入れたり、抜いたり、ナイフを揺らしたりして、彼女の歪む顔を眺める。気付いたことは、今の僕の顔が表情のひとつも作れていないことだ。僕の脳はこれで満足しているのだろうか。
「そろそろ、フィナーレだよ」
少女の口からタオルを外す。
激しく泣き叫ぶのかと思いきや、消え入りそうな声で何かを呟いている。僕は少女の口元に耳を近付けた。
「どうして……、どうして。メグは悪くないのに……。何で、何で、何で……」
「うん、そう。君は悪くないよ。でも、強いて言うなら、あの時、あの場所で、雨の中、遊んでいた君が悪いんだよ。君が、部屋の中にいたら? 君が他の場所で遊んでいたら? 君の命はあと何十年も生き続けたかもしれない。でもね、これは君が背負ったストーリーなんだよ。君が生まれた時から避けることのできないストーリー。君があの時、遊んでいたことも、僕が君を連れ出して欲求のままに殺すことも、決まっていたんじゃないかな? 僕はそう思うよ」
下らない「運命論」を、僕の頭の赤い靄が流暢に語り出す。オリジナルの人格を乗っ取ったみたいだ。
少女は何も言わずに、幽かな呼吸を、熱を持った呼吸を繰り返している。それと地面の血溜まり、そして、彼女の身体に大量に固張りついた血が、彼女の余命を教えてくれる。
「謝って欲しい?」
僕はナイフを握り締める。
そして、首元に振り下ろす。脳内で赤いランプが灯り、ビービーと不快なサイレンが流れる。そうだ。僕は「欲求」の望まない最期を少女に与えた。僕は抗えるのだ。しかし、それがわかったのがあまりに遅過ぎた。少女の白い首から流れる赤いそれは、少女の命そのものだ。その命が、彼女の身体からとろりと流れ出て、鉄屑の上にぽとりと落ちる。
少女こと高戸芽実は死んだ、これだけが現在わかる、明確な事実で、僕の手には、命を奪ったという確かな感触のみが残されていた。頭の赤い靄は、吐息とともに基地に漂う鉄の臭いに紛れてしまった。脳内の僕たちが、疲弊した様子で各々の椅子に腰掛けて、僕に「休ませてくれ」という合図を送る。
「ごめんね」
オリジナルの僕は、空気みたいに形のない謝罪をして、少女の亡骸のすぐ傍で眠りについた。
とても、安らかに。
4
眼を醒まして、スマホを見ると、友人からの返信があった。
「留年するぞ笑」
内容の軽さが疲れた身体に染み込む。「欲求」が消えた後の疲労がこんなにあるとは思いもしなかった。フィジカル的なものもあるが、やはり、メンタル面での疲労だ。
人をひとり殺す。地球規模で考えると、それは蟻を一匹潰したり、大樹から青葉を一枚引きちぎったりするのと同じに思える。事実、この少女がいなくなったところで、直接的な影響は殆どないと言える。精々、ニュースに取り上げられ、親は我が子をより守ろうとする、それだけのことである。しかし、考えると、蟻を一匹殺すことが、もしかしたら、そのグループにおける崩壊を齎すのではないか? 引きちぎった青葉が、大樹の死を呼ぶのではないか? 少女の死が……? 考えても、具体的な内容は浮かばない。恐らく、僕が死んでも同じだ。でも、愛されているだけ、少女の方が生物らしかったのではないだろうか。
少女の身体に手の甲で触れると当然のように冷たくて、かつてあった命を想わせる。命は果たして何処から出ていくのだろうか。刺した傷口からだろうか、それとも口や鼻からだろうか。まだ、この廃工場の錆びた空気に浮いているのだろうか。ふと顔を上げて空を見ると白くなり始めている。天国の空ってのは、こんな風に白く光り輝いているものなんだろうな、と思った。
僕はリュックに荷物を詰めて、少女の眼を閉じて、廃工場から出た。鍵をしっかりと掛けて、背伸びをする。
午前四時。何処か遠くでトラックの走る音が聞こえる。
人生ってこんなもんだよな。
「欲求」が消えて、空虚な心ひとつが残されて、朝の冷たい空気に揺れる。世界の透明度に僕は気圧されて、頭が痛くなる。きっと、修復中だったからだろう。
人生ってこんなもんなのかな?
本当は母親を殺せばよかったのかもしれない。そうすれば「欲求」も、僕の苦悩も、同時に解決できたのに。そうしなかったのは、きっと、僕が捕まりたくないという卑怯な理由なのだろう。
歩くと、足が痛む。
息を吸うと、肺が痛む。
空を見ると、頭が痛む。
眼を閉じると、心が痛む。
そうだ、何処か遠くへ行こう。
また、「欲求」が生じても大丈夫なように。
あの日から一週間が経っただろうか。ニュースでは、政府が何処かの国と条約を締結したとか、冷夏で野菜の高騰が見込まれているとか、僕には関係のない、至って日常的な報道がされていた。三日程度で、高戸芽実の名前はあまり聞かなくなった。つまり、彼女はまだ、あの鉄の臭いが漂う廃工場にひとりで眠っているのだ。
僕に、一週間経っての変化は特に見られなかった。家に帰っても、誰もいない。必要なものを持ち出して、電車に揺られて、少し遠い何処かへ向かう。
無人駅で降りて、息を吸い込んで、夏の空気を肺にしまい込んで、噎せて、不意に頭に靄が生じた感覚がした。
僕は、まだ、あの「欲求」と付き合っていかなければならないのだろうか。けれども、あの「欲求」は僕が幼い頃から封じ続けたものの暴走だ。そうなら、人を殺めるほどに膨れ上がるだろうか。小動物を虐めれば満足できるだろうか。
不安なのは、「欲求」が味をしめてしまったりしていないか、である。どうやら、「欲求」は僕とは違う生き物、既に出逢ったしまったドッペルゲンガーのようで、僕よりも強大なのだ。影が光に曝されれば、本物よりも大きくなれるのと同じように、オリジナルの僕のドッペルゲンガーは、僕を丸呑みできるほどに大きくなれるだろう。そうしたら、それが、「欲求」の所為という言葉で、正当化できるのだろうか? 正当化したところで、誰が満足するのだろうか。
今、僕の背後では、肥大したドッペルゲンガーと少女の暗い影が、僕を取り殺そうとチャンスを窺っている。僕の首に鋭くて冷ややかな爪を当てているのだ。
奴らの言い分はわかる。
「もっと、殺せ」
僕は自分の「欲求」の所為で、いくつもの重りを背負わなければならないのだ。
僕は狩人となって、僕に重くのし掛かる影の為に、ひとりずつ、狩らないといけない。それは僕が背負う罪の形であり、僕が僕の影に殺されないようにするための卑怯な正攻法なのだ。
ほら、また影が僕を染めていく。