勇者様は優しくできる
レンの心の声は、私にしか聞こえていない。
その後もレンは様々な人に声をかけられていたが、彼の不思議な声を聞きとっている様子の人間は現れなかった。
なぜ私にしか聞こえないのか、本当に誰にも聞こえないのか、もっと検証すべきなのだろう。
——でも今は、そんなことに思考を巡らせてなんていられないっ。
私はレンにとんでもないことをしてしまった。大勢の人の前で、「あいつは体臭がひどい」と叫び晒し者にしたのだ。
全ては、彼に人を近づけまいと、そして彼を守ろうとしての行動だったけれど。
もし「声」が聞こえているのが本当に私だけだとしたら、そもそもレンを人々から遠ざける必要なんてなかったことになる。
つまり私は、何の罪もないレンに、いたずらに事実無根の誹謗中傷を浴びせたのだ。魔王を倒した勇者に、この仕打ちはいくらなんでもあんまりだ。
私は罪悪感で胸を押し潰されそうになりながら、木桶の浴槽から這い出る。
体を清潔なタオルで拭きながら、またさっきのことを思い出して「あああ」と声をあげて頭を抱えた。
——あの体臭騒動のあと、デネルの町長だという中年男性が鼻を摘みながら私たちのところへやって来て、「ぜひ私の屋敷でおもてなしさせてください」と言った。
こんな町の状態では宿屋に泊まれるかも分からなかったし、私とレンは喜んでその申し出を受け、今は町長の屋敷に厄介になっている。
お屋敷は一市民のものとはとても思えないほど立派で、館専用の浴室まであった。夕食前にまずは旅の疲れを落としてください、と言われて私はこうしてお風呂に入っていたわけだけど……。
レンに申し訳なさすぎて、久しぶりのお風呂をまるで堪能できなかった。
あれはガチで傷ついていた。いや、誰だって傷つくはずだ。私も同じことをされたら立ち直れない。
声のことといい、体臭騒動のことといい、色々な意味でレンと顔を合わせづらくなってしまった。
けれど、王都につくまでは……いや、彼の呪いが本当に安全であると確かめるまでは、私はレンの側にいないと……。
私は、本日何度目かわからないため息をついて浴室を出た。
これから夕食の時間だ。そこでまたレンと顔を合わせることになる。気が重いけれど、これは全て私のせい。
どうにかして、彼に謝罪をせねば。
そんな風に考えてとぼとぼ歩いていると、廊下を横切る見慣れた影があった。
——レンだ。
「あ、あの——レン!」
慌てて声をかけるが、レンは立ち止まることなく、むしろ足を速めてしまう。
あまりに速いので、私は風呂上がりにもかかわらず、全速力で彼を追いかけた。流石に自分も全速力で対抗しては体裁的に問題があると判断したのか、途中で苦々しげに、レンはこちらを振り返る。
ほっとして歩み寄ると、あと数メートルというところで「そこで止まれ」と声がかかる。
「え……レン……」
「俺に……近寄るな」
ああああ……。やっぱりすごく気にしている……。
この距離だと彼の声は聞こえないけれど、どうか近寄らないでくれという意思は、はっきりと分かる。
私はそのまま立ち止まって、おずおずとレンの顔を見た。
「レン、どうしてもお話ししたいことがあるんです」
「……後にしろ。今はお前と話す気分ではない」
そう言ってレンは、私に背を向ける。
彼が動いた瞬間、ふわりと花のような良い匂いがした。
ああぁ。レン、一生懸命お風呂入ったんだ。良い石鹸を使って体を洗ったんだ。
彼から漂うフローラルな香りが、私の罪悪感をチクチク刺激する。
「後じゃダメなんです! 私、貴方に謝らないといけなくて……!」
「体臭がひどいと気付いていながら、黙っていたことについてか?」
皮肉っぽい笑いが返ってくる。私は全身で否定しようと、大きく頭を振った。
「違います! レンは、臭くなんてありません! さっきのは——咄嗟に出てしまった、私の嘘なんです!」
「……何だと」
またレンが振り返る。良い匂いと鋭い眼光が私を襲った。
険しい瞳に射抜かれて、私は思わず身を震わす。
今日はおかしな声のせいで幾分かレンに対して気安い気持ちになっていたけれど、そう言えば、元々私たちはさして仲の良いパーティーではなかったと思い出された。
この一年で、レンと楽しいお喋りをしたことなど一度もない。戦いはいつも黙々と、あるいはレンの厳しい言葉のみを響かせて行われていたし、オフの時間は常に別行動だった。
会話も戦いの反省点や、次の目標について相談するときだけ。
ビジネスライクな関係だったからこそ、2人きりのパーティーでも上手くいっていたのだとは思うけれど、仕事とプライベートを割り切りすぎた故に、私は彼のことを何も知らない。
彼の心の声らしきものは、随分と私に好意的なようだったけれど……。それだって、真実かどうかは分からないのだ。
命を預け合った仲間に拒絶されるかも、という不安が胸の奥をきゅっと締め付ける。
「え……えっと。レンは、魔王の呪いを浴びたでしょう。しかも、私を庇って」
「庇ったのではない。お前の油断に巻き込まれただけだ」
「そう、ですね……。とにかく、私のせいでレンがひどく凶悪な呪いにかかってしまったのは事実です」
「……凶悪?」
「あっ、いえ、凶悪かもしれない呪いです」
つい口を滑らせて、私は慌てて誤魔化す。
「大部分の呪いを打ち消すことには成功しましたが、それでも、確実に呪いは貴方の身体に刻まれています。それがいつ貴方に、あるいは周囲に牙を剥くかもわかりません。呪いの原因である私がなんとかせねばと思い、貴方を人々から遠ざけようとしたのですが……。ついあんな嘘が口に出てしまって……」
「……もう少し、ましな嘘をつこうとは思わなかったのか」
もっともすぎて、ぐうの音も出ない。
「ごめんなさい……。呪いがあるから、なんて人々に言い触らしたら、色々と支障が出るかと思って……」
「……」
レンは沈黙する。
言葉も、心の声もない時間は、ひどく私を不安にさせた。
許されなくても仕方はない。けど、せめて事実は伝えておきたかった。
やがてレンが、ぽつりと吐き捨てるように言う。
「侮るな。お前ごときが、俺の身を心配する必要などない」
「でも、呪いが」
「今の所、特に問題もない。王都についたら、魔導院で解析を進めてもらうつもりでいる。呪いの素人にあれこれ気遣われても、迷惑なだけだ」
これは……。彼なりに、「気にするな」と言っているのだろうか。
ぶすっとした表情からだと判断しかねるが、少なくとも私を責めようとする意思は感じられない。
「そうですね……。余計なことをしてしまいました。今後は慎みます」
「分かったなら、うじうじするのはもうやめろ。そう陰気な顔をされては、この後の食事がまずくなる」
「レン……。はい!」
少しだけ心が軽くなって、私は強く頷いた。
初めて、彼と会話だけで通じ合えた気がした。レンはいつも、口を開けばきつい言葉ばかり。だから私は、いつしか彼の言葉を聞き流して、その真意を汲み取ろうとしなくなっていた。
今の会話も相変わらず手厳しいものばかりだったけれど、その中に含まれていた、彼の優しさに少しだけ気付くことができた気がする。それが何だか、嬉しい。
「ちゃんと謝れて良かったです。それじゃあ、私、髪を乾かして身を整えてきますね」
「さっさとしろ。女はやたら身支度に時間がかかるからな」
「分かりました。では、また後で」
思わず漏れる笑みと共に頷いて、私は自分の部屋へと向かうためその場を後にする。
謝罪の気持ちを、少しは伝えることができた。そして、レンもそれを、恐らく受け入れてくれた。
あんな変な声のせいで、彼との関係が歪になりかけていたが、ちゃんと向き合えば、レンともいつか、友達みたいに分かり合える日がくるのかも——
(いやいやあれは反則だろう)
……え。
私はそっと振り返る。先ほどよりも遠く離れたレンの背中が、廊下の先にちらりと見える。
(風呂上がりはまずい。濡れた髪に火照った頰と、条件が揃いすぎている。その上、潤んだ目で見つめられては、まともに思考などできるわけないだろうがッ。……くそっ、勢いに任せて適当なことを言った気がする。今の会話で自分が何と言ったか、まるで思い出せん! )
「……」
去っていくレンの背中を見送ったあと、私は急ぎ足で、自分の部屋へと向かう。
……とりあえず、呪いの効果範囲については再考の余地があると分かった。
とにかく部屋に戻って、さっさと髪を乾かそう。
ここまでご覧頂きありがとうございました。




