初日
この物語に出てくる、所在地、団体、及びに、心霊関連は全てフィクションです。
そして、わたしたちは対峙する。
わたしの想像していた通りの彼と、少し早めに咲いた、ライラックの甘い匂いが漂う中で。
ハート形のかわいい花びらが揺れ、わたしの右手首が宙を舞う。
しかしそれは、痛みより落胆の感情の方が大きかった。
だって――――。
「蒼、一歩、遅いよ」
彼の、瞬きするような、ほんのわずかな躊躇のせいで、間に合わなかったから。
一 総本山
イライラした様子で、三十代半ばの絲〈AA〉クラスの瀬戸 洋介が建物から少し離れた場所で待っていた。
バブル時代に建設された三棟の団地。
そこは老朽化が進み、取り壊されることとなったのだが、解体業者から霊が出ると総本山に依頼が来たのだ。
瀬戸は二人の若い囲い師を引き連れやって来て、依頼主に説明している間に、その囲い師達に二十四囲いの、お札を地面に刺す貼り手を頼んだのだが、その貼り手の二人はまだ戻ってこない。
二十四枚のお札を地面に刺すだけの、簡単な行為だというのに、二人して何をしているのであろうか。
最初でこんなに時間を掛けては、残り二棟にどれほど時間が掛かるのか見当も付かないし、依頼人の解体業者にも不振がられてしまう。
それに、ここの悪霊は危険なので素早く片付けてしまいたかった。
「くそっ! こんな事なら、さっき電話番号を聞いておくんだった」
瀬戸は小声で、依頼人に聞こえないようにそう呟いた。
若い貼り手の一人は、総本山に入りたてで、まるで常識を解っていない。学生気分のままで仕事に来ているのか、お札を刺しに行く前に瀬戸の電話番号を聞いてきた。
祓いの前に電話番号を教えろなど、呑気なものにも程がある。一体、仕事を何だと思っているのだろうか。その時は「今はそんな事をしている時間は無い!」と一喝してやったが、それでヘソでも曲げたのだろうか。
全く、最近の若い者に多い勘違いで、親が総本山で位が高いからと言って、自分まで位が高くなったつもりでいる。
親の七光りだけで、使えない貼り手だ。これなら、嫌味が多いがきっちりと仕事をこなす、篠田のほうに来てもらえばよかった。
一度、しっかり教育をしなくてはいけない。
そう思っている所に、その若い貼り手が戻ってきた。
色褪せたピンクのスニーカーで、しっかりとアスファルトを踏みしめ、こんなにくそ暑いのにも係わらず、ロングコートをなびかせて、もう一人の貼り手の前を堂々と歩いて帰ってくる。
後ろを歩いている貼り手は、どこか呆れ顔だ。
「遅い! 何をチンタラやってるんだ!」
怒りを表す瀬戸に、砂那は焦りの表情を浮かべ、後ろの貼り手に尋ねた。
「えっ? 翠さん、わたし遅かった?」
「いえ、多分、類を見ないほどの最速よ」
その翠の意見に、瀬戸は更に怒り出す。
「どこが最速だ! ちゃんと二十四枚刺して来たのか!」
「いえ、わたしの見極めでは、十六囲いだったので………」
「十六しか刺さなかったのか? お前の見極めはどうなってるんだ? この悪霊が十六では祓えないのが解らないのか! しかも、十六にこんなにも時間を掛けやがって!」
「すいません!」
砂那は素早く頭を下げてから、翠に小さな声で尋ねた。
「二十四囲って、やっぱり三棟全てを、一気に囲うつもりだったのかな? さすが総本山ね。そんな広大に囲うのは、わたしには無理ね」
砂那のその台詞に、翠はため息まじりに首を振る。
「違うわ、あなたと瀬戸さんの話が食い違ってるだけよ」
「何をコソコソ話してる! とにかく、早く二十四枚刺し直しに行くんだ!」
「えっ? まだ何か祓うんですか?」
砂那は驚き、意味を理解出来ない瀬戸は、お互いの顔を見たまま不思議な顔で、何度か瞬きを繰り返した。
「………まだ?」
そんな二人のやり取りに翠は呆れ顔だ。
「だから言ったでしょ。祓っては駄目だって」
「あれって、本当だったんだ」
「おい、祓ったて、どう言う事だ?」
意味の解らず、眉間にしわを寄せながら瀬戸が翠に聞く。
「霊は彼女が祓ってしまいました」
「祓ったのか?」
瀬戸は大きくため息を吐いた。
せっかくの段取りが狂ってしまった。これだから素人は困るのだ。貼り手の意味すら解っていない。しかし、それなら、これ程まで時間が掛かったのも解る。
「祓ったのか。まぁ、でも、祓ったものは仕方がない。とにかく次の棟に行って貼り手とは何なのか教える」
「えっ? まだ棟があったんですか?」
「あと二棟残っている」
「まだ、二棟も有るんですか?」
ここに来ても、まだ話の食い違っている二人に対して翠は首を振った。
「違います」
「何も違わない。――――この棟の浄霊は終わりました。次の棟に移動して祓いを続けます」
依頼人にそう説明して、瀬戸は前を歩いていく。そして砂那に対して、依頼人に聞こえないように小声で説教じみたことを言い出す。
「いいか、貼り手とは………」
砂那は彼の隣に並び歩くと、素直に言われた事をメモしていく。
「待ってください。だから、違います」
「さっきから何だ? なにが違うんだ?」
あまりにしつこい翠に対して、瀬戸は立ち止り聞いた。
「だから、折坂が祓ったんです。全て」
瀬戸は翠の言っている意味を理解しようとするが、今一つ何が言いたいか理解できない。
一つの棟を全て祓ったのは解った。しかし、団地はあと二棟ある。
「だから、次に移動すると………」
理解していない瀬戸にもう一度言った。
「そこも、折坂が祓い終えてます」
ようやく彼は翠が何を言いたいか解ったが、理解しきれなかったのか半笑いで答えた。
「冗談を言うな。全て祓ったとは、三棟全てか? こんなこと、この短時間では不可能だ」
この短い時間でこれほどの悪霊達を、三棟すべてなんて祓えるなんて自分には無理だし、そもそも、そんな囲い師など、総本山の中でも見たことは無い。
冗談と思っている瀬戸に、翠はしぶとく答えた。
「本当です。三棟とも全て祓い終えてます。それも、私が手伝わずに、全て折坂一人で」
「………本当なのか?」
ようやく瀬戸は驚きの顔で、隣の砂那を見た。砂那は不思議そうに頷く。
「はい。だって、これってわたしの実力を見る試験ですよね?」
「………」
どういう説明を受けてこの現場に来たのか解らないが、砂那の発言に瀬戸は言葉を失った。
「それに、翠さんは祓うなって言ったけど、祓っても良かったですよね? この程度の悪霊に囲い師が三人も要らないはずだし」
砂那が言ったこの程度と言う悪霊は、そこそこ霊力のある悪霊だ。秒〈A〉では対処できないと思われ、絲〈AA〉の瀬戸が呼ばれるほどなのだから。
彼女は当然のようにそう言ってから、恐る恐る尋ねた。
「でも、他に棟が有るのは見逃していました、すいません。これって、減点ですか?」
「………まずは確認してからだ」
瀬戸はみんなを引き連れ、三棟を全て霊視してから翠だけを呼び、砂那と依頼人から離れると尋ねた。
「どうやったんだ?」
確かに翠の言ったとおり、すべての建物の悪霊は綺麗に祓われていた。
「特別なことをした訳ではないです。ただ、建物ごと囲って祓っていただけで」
お札を張る作業に、使い魔のこぐろを使っていたのが、砂那に口止めされたので、そこだけは伏せておいた。
瀬戸も建物ごと囲おうとしていたのでそこは同じだ、解る。しかし、こんなに早く祓う方法がわからない。
「二十四囲いでか?」
「いえ、十六です」
瀬戸は思わす節句だ。
さきほど無理だと言った十六囲いで、綺麗に祓われている。しかも、この速さだ。これは、生半可なレベルでは無い。砂那はただの親の七光りだけでは無いと分かった。
「………これを、十六でか?」
速さだけでない、自分では祓えなかった囲いの数に、瀬戸はもう一度、その大きな建物を見上げた。
翠は少しだけ口元をあげ、依頼人の近くに居る砂那を見る。
奈良では自分の実力がわからず、ずっと足掻いていたのだ。今は絲〈AA〉クラスの瀬戸でもできないほどの実力があると、彼女に伝えてあげようとしたが、思わず翠の足が止まる。
さきほどまで、他の棟を見逃していたと不安を口にしていた砂那は、暑いのに未だにロングコートを脱がず、睨んだ様子でその団地を見て唇をかんでいた。
それはまるで、納得できない様子で。
絲でも囲えないような速さで祓って、一体何に納得していないのであろうか。
その時の翠には、まだ、砂那のその表情の理由がわからなかった。
すいません、ダンディーライオンの後書きで、次は待たせないと嘘をついたオトノツバサです。
いや、構想は出来上がっていたのですよ。だけど、書く時間が。
まあ、ここで言い訳をしても始まらないし、言い訳は活動報告の方で山ほどします。
今回は内容で悩むことは少なく、書く時間の方で悩むと思いますが、頑張って書いていくので、どうか、見捨てないでね。
せめて、これを読んでいるあなたには、最後までついてきてほしいと願いつつ、二話目を書きます。
ちょっと眠いが、もう少しだけ。
ちくしょう! 頑張るぞ!
次回は、なぜ、砂那が総本山に行ったのかがわかります。