待っててくれ
きぃきぃときしむ音に何気なく庭へ目を向ける。朝とは思えないほど暖かなオレンジ色の日だまりの中、木のぶらんこがゆらゆらと揺れていた。
もう誰も乗ることはないぶらんこ。もし孫が遊びに来て乗りたいと言ったとしても、危ないから、と止められることになるのだろう。娘のために休日を返上して作ったことは今となってはもう懐かしい出来事だ。
「また二人きりになったね」
真奈がお嫁に行って、家を出たその日、君はそう言った。真奈の成長が嬉しくて、でも真奈が自分たちから離れていくようで寂しかったあの夜。親としては喜ぶべきなんだろうけど、そんな簡単に割り切れるものでもなかった。
「また、孝ちゃんって呼んでもいいかしら」
「うん、いいよ」
「やだ、冗談よ。恥ずかしい」
なんだよそれ、言い出したのは君だろう。いくらか湿っぽくなった家の空気を払いのけるように、年甲斐もなくじゃれあった。
「孝ちゃん!」
恥ずかしいと言っていたくせに、すぐにそう呼ぶようになった君。最初はこっちが恥ずかしくて、なかなか顔を見られなかった。
「あの遊園地、久しぶりに行こうよ」
ようやくその呼び方に慣れてきた頃、君はそう言ってチケットを見せたよな。
二人の付き合いが始まったあの場所。いろいろなところが変わってしまっていたけれど、それでも甘酸っぱい思いは抑えきれるわけはなくて。思い出話に花が咲いたね。
それからまた日々は流れて、俺も定年まであと三年。君は天国へ旅立った。寂しがりで、優柔不断で、弱虫な俺を置いたまま、
「孝ちゃん、ありがとう」
そう言い残して。
早い。早すぎだよ、柚希。俺は君と、おじいちゃんおばあちゃんになった生活ものんびり楽しむ予定だったんだ。俺の考えに考えた人生計画をいとも簡単にぶち壊してくれて、たまったもんじゃないよ。
君の好きだった様々な花を添えて、仏壇に手を合わせる。あふれてくるのはまだまだ色あせることを知らない鮮やかな思い出たち。
元気に、してるか? 俺はなんとか、元気にやってるよ。あの二人も仲よく元気にやってるみたいだし、俺だけいつまでもへこんでいるわけにはいかないから。
それにしても柚希、また遠距離になったな。大学時代ぶりか。そっちに君の好きなぶらんこはあるか? 退屈してないといいんだけど。
もし退屈してても、神様に文句を言うのはあとだけ待ってくれ。俺も、言いたいことあるからさ。知ってるだろう? 俺、一人で神様に文句言えるほど勇敢じゃないんだ、情けないけど。
本当はあの時みたいに、なにもかも放り投げて飛んでいきたいけど――今回は、もう少しだけ待っててくれるか。
真奈と旦那さんのために、もう少しだけ生きてやりたいんだ。もう少しだけ、いろいろなものを遺してやりたいんだ。
君のいたこの世界をできるだけ楽しみたい、っていうのが本音なんだけどな。
いいじゃないか。プロポーズの時にかっこつけられなかったんだから、ちょっとくらいかっこいいことを言うのも許してくれ。
それに、もし今すぐ会いに行っても君は怒るだけだろう? 寂しいし辛いし不安だけど、今度は距離になんて負けないからさ。
雲のぶらんこにでも乗って、のんびり待っててくれ。あの頃二人で眺めた空中ぶらんこみたいなやつだと俺も見つけやすいよ。
ネクタイを締め直して、立ち上がる。
『行ってらっしゃい』
その声を聞くことはもうできないけれど。毎日毎日聞いたその声はちゃんと俺の中にあるから。どんな君も、絶対に忘れたりしないから。
「行ってきます」
庭先のコスモスは風に揺れて、いってらっしゃいと手を振っているようだった。
Fin.